3-1 水瀬愛理
長くなってしまったので分割します。
「彼氏くんどうしても痛い目みたいらしいね~」
「やっちまえやっちまえ!」
醜悪な笑みを浮かべた男の手には金属製の凶器が装着されている。彼が先程「ナックルダスター」と言っていたものだと思う。
それを構えた男が彼に拳を振り上げた――。
……どうしてこんなことに。
目の前の現実から逃れるように零した呟きは胸中で消え去った。
こうなってしまった理由は分かり切っている。今のこの現状も十二分に理解している。
私がこの二人組の男達にぶつかってしまったからだ。
普通に歩いていればまずぶつかることなんてありえない。
それなのにぶつかってしまったのには訳がある……。
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予定外に長くなってしまった歓迎会の帰り道。
皆が最寄りの駅に向かう中、私は頭を醒まそうとひとり歩いて帰るために反対方向に歩みを進めた。
黒一色の空には下弦の月が映え、程良い寒気を従えた風が今は気持ち好かった。
「水瀬、駅はそっちじゃないぞ?」
少し歩いたところで背に掛けられた彼からの問い。心なしかバカにされているような気がしたので、振り向かずに歩みを継続したまま答える。
「頭を醒ましたいから歩いて帰る」
少し棘のある言い方にになってしまったけれど彼にも問題があると思うのでおあいこだ……なんて自己中心的な言い訳を考えながら。
「遅いから送ってくぞ」
私の悪態に怒ることもなく、さも当然であるかのように彼は言った。優しすぎる。大人すぎる。彼からみればきっと私は子供のように映っているのだろう。……なぜだか無性に悔しく感じてしまう。
それと常々思っていることなのだけれど、女の子の扱いに慣れ過ぎているような気がするのは、私の気のせいではないと思う。
「また送り狼?」
だからこそ口から出た言葉は真っ直ぐで、直線的な、伸びのあるストレートだった。
「またってなんだよ……まだ本調子じゃないんだろ?」
私を気遣った至極真っ当な返答。それは強烈なピッチャー返しとなって私を襲った。
彼のことだからボケてくれると思ったのに不意打ちでこの言葉は反則だと思う。
「……ん。冗談。ありがとう、狼さん」
虚勢半分照れ隠し半分。歩みはわざとゆっくりと……けれど自然体に、風に流されるように。
特にこれといった会話もなく、沈黙を保ったまま互いに歩みを進める。
表通りから一本入ったこの裏通りには車も通行人の姿もほとんどない。
だからこそ表通りの喧騒もどこか遠く、私たちが会話をしていなければ風音しか耳に入らないこの空間が、沈黙が、時間が、不思議と心地好かった。
――今日は本当に色々あった気がする。
学園唯一の外部生の歓迎会。彼をもてなすために開いた会だったはずなのに、蓋を開けてみればその尻拭いは全てメインゲストがする始末。
私に至ってはアルコールが入っているとは知らずに飲んだ飲み物に逆に呑まれ、ほとんどの記憶が無い。
……ん。言い訳になってしまうのかもしれないけれど、お酒なんて初めて飲んだので味も匂いも判断がつかなかったのだ。
当然この飲酒騒ぎが広まったら大問題になることは誰にでも簡単に想像できる。
補導、指導、謹慎、停学、退学。嫌な単語ばかりが頭に浮かび、平常心を押し潰そうとする。
そんな中彼はいつも通りの覆面を被って、普段通りの調子で、今まで通り、これまで通りと変わりない態度で皆に接していた。渦中の人物でありながら彼は冷静だった。……実際は冷静であるように取り繕っただけなのかもしれないけれど。
結果的に彼がブレずにいたことでパニックも起きることなく、ここまで事態がスムーズに進んだのだと思う。
……ん。まぁ、すべては記憶の無い私の勝手気儘な妄想に過ぎないのだけれど。
さて、過ぎたことなんてもうどうだっていい。今からあれこれ考えたってどうしようもないのだから。
そんなことよりも私にはまだ最重要課題が残っている。
それは……、
「城戸くん」
――一緒に映画を観に行く確約を締結することだ。
立ち止まってこの心地の好い時間を自ら崩壊させる。
私としてもこの時間は壊したくはなかったのだけれど、最重要課題がある限り心を鬼にせざる負えない。
「なんだ?」
「これどう?」
同じように立ち止まってこちらに顔を向けた彼の眼前にスマホを突きつけ、ホーム画面を表示する。
「おい……死体蹴りはマナー違反だろうが」
「したいげり? ……それよりも私の言いたいことは分かった?」
三白眼気味な眼差しと若干のあきれを表す声音で彼が何か言った。
けれど言葉の意味は私には分からなかったので、開き直って更に攻勢を強める。
「分からねぇよ!」
「分からないの?」
……ん? あれ? 何故だか話が噛み合っていない気がするのだけれど……どうして?
カームダウン、カームダウン。落ち着け私。
急いては事を仕損じる。
まずは現状の把握を……、
「悪かったな」
「これだからたす城戸くんは……」
あぁっもう! どうして余計なことを言ってしまうのか。
落ち着こうとした矢先にすぐこれだ。
彼の言葉に大いに動揺してしまった。別に謝罪を求めているわけではない。……むしろ謝罪しなくてはならないのは彼の写メを材料に交渉を行おうとしている私の方だというのに。
詰まりだした思考回路を迂回した言葉は過去のトレースだった。
「たす城戸言うな!」
「ワガママね……たすきくんは」
引っ込みがつかないどころか、彼とのこのやり取りが楽しくなってきている自分に呆れる。
私の中での最重要課題である一緒に映画を観に行くという約束を結ぶよりも、目先のなんてことのない会話が無性に楽しく感じてしまうのだ。……これではただの刹那主義者ではないか。
……ん。それも悪くないかも。
「もはや人名でもねぇ!! ……もういい加減教えてくれないっすかね?」
なんて刹那主義にどっぷりと浸かろうとしていたら、彼に手綱を握られてしまった。
……んっ。これも悪くないかも……。
「……ん。仕方ないから答えを教えてあげる。……この写メを全世界に拡散されたくなければ私の要求を必ず守ること」
自分で言ってみてその極悪非道さに戦慄した。
勝手に彼の恥ずかしいであろう写メを撮ったあげく、それを材料にして己の要求を飲ませる。
……いつもやっている私の常套手段なのだけれど。
「御意!」
「……もしかして城戸くんふざけてる?」
嫌がるどころか純な笑みを湛えて首を縦に振る彼。
どうやら彼はこうなることを見通していたのかもしれない。
……一体どこで気付かれていたのかしら? 案外顔にでも出ていたのかもしれない。
「至って真面目な返事だろうが。それで要求ってのは映画か?」
「……ん。そう」
やっぱりバレていたのね……。
写メを撮った時に目が合ったような気がしていたのは気のせいではなかったらしい。
見通されていた気恥ずかしさからゆっくりとした歩みを再開して夜風に吹かれる。
夜が深まったからなのか、身体の火照りが治まったからなのか……それとも更に体温が上がり温度差を感じているのかは分からないのだけれど、先程までは気持ち好く感じていた風が今は寒く感じた。
「水瀬……俺の上着じゃ嫌かもしれんが羽織っとけ。また風邪引くぞ」
その言葉とほぼ同時に後ろからふわりとした優しい暖かさに包まれた。
「……ん。嫌じゃない」
「そうか」
肩口を見ると“彼のために選んだ”“私好み”のネイビーのイタリアンカラージャケットが乗っていた。
……どうやって気付いたのかは分からないのだけれど、寒がっていた私に彼がジャケットを掛けてくれたらしい。
「だってこの服選んだの私」
無意識の内に襟を立てて頬まで埋まっていた。
僅かに残る彼の温もり。
仄かに香る彼のにおい。
物理的な温かさよりも彼の心遣いが何よりも嬉しかった。
これら全てが失っていた心地好さを私に与えてくれた。
「……なに笑ってるの?」
どれほどの時間が経ったのかは分からないのだけれど、ハッと我に返って彼を見やると捧腹絶倒していた。
……まさか今のを彼に見られた!? あぁ、なんであんなことしたの! あれは無意識でやったことだからノーカウントだと説明すれば……いえ、それはダメ。無意識下でしていたなんて弁明するのは余計に恥ずかしい気がする。ならどうするのがベストなのか……。
――こうして私は自分の世界に潜り込んで歩みを速めていった。
……そして話は冒頭へと回帰する。




