16-1
長くなりましたので分割します。16-2は明日更新予定です。
「ったく、うちの店でなにしてんだ颯太ァ? 鷲呼ぶぞこの野郎」
痛みが全身に駆け巡った後、ドスの利いたしわがれ声が耳に届いた。
その声のした方に涙目を向けるとドスの利いた声とは対照的に、品の良さそうな執事然とした立派なカイゼル髭を生やした初老の男性が立っていた。半白の髪はオールバックに整えられ、皺一つ無い白のワイシャツに黒のベストとスラックス、そして首元には漆黒の蝶ネクタイが留まる。
格好だけを見たらただの紳士にしか見えないが、なにか不釣り合いなものが視界の端に映った。……それは血管の浮き上がった岩のような握り拳だ。
「いってぇぇぇぇ!? なにするんっすか!?」
思わずそう叫びながらいつの間にか現れた初老の男性――この店のマスターこと弦間銀二に、悲鳴混じりに問いかけた。
ヒィィィィ! これ絶対俺の頭若干凹んだぞ!? なんちゅう力で殴打しやがる! 弦間銀二の拳骨……略してトリプルGってか!? ふざけんな!
「大丈夫か嬢ちゃん? 変なことされてないか?」
「……ん?」
俺の抗議をスルーしたマスターはドスの抜けた、ただのしわがれ声で水瀬に声を掛けた。
恐る恐ると言った様子で目を開けると小首を傾げる水瀬。
そしてゆっくりと目線を動かし、拳骨を握っているマスターと頭を抑えながら悶絶する俺を見て、ようやく状況を理解したらしく、言葉を続けた。「……はい」と。
「そうかい、そりゃぁよかった」
「よくないです! マスター! 頭滅茶苦茶痛いんですけど!?」
「当たり前だアホ。強引にキスしようとしてた奴がなに抜かしてやがる。ったくよぉ、紳士の風上にも置けない奴だなぁ」
カイゼル髭の先を指で撫でながら、「やれやれ」といった様子で肩をすくめるマスター。
キ、キッスゥゥゥゥ!? はぁ? どこ見て言ってんだこのオヤジ!
ただ顔をこっちに向けて瞳の反応を見ようと顔を近づけただけじゃねぇか! ……アレ?
……。
…………。
………………第三者から見たらどう考えてもアウトじゃねぇかぁぁぁぁぁ!?
「ち、ちちちちげぇし!?」
「あぁ? 何が違うんだ?」
「……彼、私の唇を奪おうとしました」
「颯太ァ? 嬢ちゃんもこう言ってるぞ?」
ちょっ!? 水瀬さーん!? 冗談きついんでやめてくれませんかね! 死んじゃう! 俺拳骨の形に頭凹まされて死んじゃう!
マスターの後ろから舌をチラリと出して意地悪な微笑みを浮かべる水瀬。
どう見ても「仕返しよ」と言っていることは表情が物語っている。
「マジで誤解なんですって! 水瀬さん! ホント勘弁して下さい!」
「……ん。もう彼も落ち着いたようなので大丈夫です。マスターさん、ありがとうございました」
おい! その言い方だと俺がキスしようとしてたみたいじゃねぇか!?
「本当か颯太ァ? まさか嬢ちゃんを脅してるんじゃないだろうな?」
逆だぁぁぁ! 今、現在進行形で俺を脅してるのはマスターの後ろでほくそ笑んでる水瀬だ! マスター後ろ後ろ!
笑みを深めた水瀬はマスターの死角からこちらに向かって何かを伝えようと、言葉を発さないまま口を動かしていた。口パクである。
「(貸しよ。貸・し)」
いつぞやの空き教室で鞄をロッカーにぶち込まれた時のことを思い出しながら口を開く。いい加減この流れを断ち切らねばと。
「脅してなんかいませんよ! 水瀬さんからも何か一言お願いします!」
「マスターさん、何かあった時はすぐさま卓上ベルを鳴らしますのでその時はよろしくお願い致します」
「……それでどうしたんですかマスター?」
拳が握られていない方の手には焼き菓子のようなものが載った四角い洒落た皿が見える。
俺の言葉に水瀬も気になったようで、背筋を伸ばして皿の中を観察しているようだ。
猫かよ。そんな言葉が内心で零れたのは必然だった。
「そうかい。……丁度焼けたからよぉ、サービスだサービス」
どこか得意気に聞こえる声風でマスターは言うと、テーブルに皿を置いた。
限りなく楕円に近い長方形の焼き菓子は控えめな甘さの香りを湯気と共に柔らかく放出し、その表面にはアーモンドが見える。
これはなんて焼き菓子だ?
そんな俺の胸中のクエスチョンを読み取ったかのように水瀬が口を開いた。
「これは……カントゥチーニでしょうか?」
「おぉ! 嬢ちゃんよく知ってるな」
「カントゥチーニ?」
「えぇ。イタリアのトスカーナ地方発祥の伝統的な焼き菓子よ。大別するとサヴォイアルディの一種で比較的硬めなのが特徴ね。よくパン屋さんや洋菓子店でビスコッティの名前で売られているものの親戚みたいなところかしら」
「嬢ちゃん……気に入った! お前さんとは息が合いそうだ!」
カントゥチーニについて滔々と語る水瀬はどこか楽しげで、先程まで浮かべていた悪魔的な笑みは消え去り、代わりに黒々と濡れたように光るつぶらな瞳に好奇心を融解させていた。
そんな様を見て、ふとあることを思い起す。
そういや水瀬って菓子が好きなんだな。以前水瀬邸で食った……EMとやらのフィナンシェもかなり美味かったし、それなりにこだわりがあるのだろう。食事制限をしている花ヶ崎も、水瀬お手製のお菓子は食べると言っていたことだし、菓子作りの腕もなかなかであることは間違いなさそうだ。
マスターと水瀬が「これはなぁコーヒーに浸して食うと、またうめぇんだ」「硬めなカントゥチーニならではの食べ方ですよね」「かぁぁぁっ! 嬢ちゃん分かってるなぁ!」と焼き菓子トークを爆発させていたので、スマホを取り出してグーグル先生を呼び出す。
そしてつい最近CMで知った音声検索とやらを使ってみるために「EM」とマイクに話し掛けてみたが、結果は予想していた通り“M”と認識されて、漫才コンテストのM-ONEグランプリのページが表示されただけだった。
まぁ、そうなるな。素直にEMって検索するか。
グーグル先生にEMと打ち込み検索をかけること数秒――表示されたのはファッションブランドの通販サイトや怪しげな店のホームページだけだった。
「そういやぁ嬢ちゃんのお名前は? 俺は弦間銀二って者だ。気軽に銀ちゃん、って呼んでもらって構わないぞ」
「いえ……そんな。……ん。私は水瀬愛理と申します。城戸くんとはクラスメイトで――」
マスターと水瀬のそんなやりとりを聞いていて何か引っかかるものがあった。
菓子が好きで知識が豊富。
菓子作りの腕もなかなかのもの。
フィナンシェのメーカーはEM。
EMは検索をかけてもホームページはおろか、口コミサイトやレビューすらも存在しなかった。
水瀬愛理……イニシャルはE.M。
E.M=フィナンシェのメーカーEM?
これは偶然なのか? ……いや、そんな訳無いよな。
「ふたりはクラスメイトなのか……てっきりアベックなんだと――」
「マスター。アベックって死語っすよ」
俺のツッコミにアベックの意味が分からないのか、水瀬はきょとんとした顔を浮かべてこちらに目を向けた。
どうやら解説を求めているようだ。どうも博識超人水瀬には知識に偏りがあるように思える……。
「おぉ! そうかそうかぁ。今は……あれだ……その……」
「カップルですか」
「それだそれ。てっきりカップルなんだと思ってたぞ」
確かに周りから見たらそう思われても仕方ない行動を取ってしまったので、このような誤解が生まれるのは当然だろう。
ただ、断じて俺は狙ってやってなどいない! 純粋に水瀬の思考を読み取ることに比重を置いたまでだ!
「……カップル」
水瀬は2度、3度と瞬きぽつりと噛み締めるように呟いた。
「水瀬さんの言った通りクラスメイトなだけで違いますよ」
「そりゃそうか……。こんなえらいべっぴんさんが颯太の“コレ”な訳ないか! そんじゃ、おふたりさんごゆっくり」
「……あはは」
「マスターさん、お心遣いありがとうございます」
去り際に小指を立てながら「ガッハッハ」と豪快に笑うマスター。
……地味にムカつくぞこのオヤジ。なんて言った日には俺がトリプルGでボコボコにされてしまうのは容易に想像できるので、愛想笑いで誤魔化しておいた。
個人的な嵐が過ぎ去り、俺がデミタスカップを口に運ぶのとほぼ同時に水瀬もカフェ・ブレーヴェを一口。
お互い味わうことに集中してか、とくに会話も無く聞こえてくるのは微かに流れているスローテンポなジャズピアノ。
――そんなしばしの静寂の後に対面から聞こえてきたのは弾むように響く声だった。
「ねぇ、城戸くん?」
「なんだ?」
見ると水瀬が頬を隠すように両手で頬杖をついていた。
……何かいい事でもあったのだろうか。
「私達って今、他人から見たらカップルに見えるのかしら?」
「……どうだろうな? マスターが勘違いしたところをみると、まぁ、そう見えるのかもな」
「そうね。なんせ公衆の面前で私の唇を奪おうとした――」
「待て! あれは誤解だ!」
あぁ……いい事ではなく、いいオモチャが手に入ったということか。
慌てて言葉を遮った俺を見て、水瀬はくすくすと一頻り笑い終えるとマスターからのサービスで貰ったカントゥチーニとやらを、カフェ・ブレーヴェへと沈めた。
「誤解だとしても結果がすべてよ。巷では結果を約束出来なければ全額返金なんて保証もあるそうね」
「全然関係ねぇ!?」
「……ん。それで城戸くんは私から何を聞き出したいの? それともさっきの続きでも……する?」
唇を舐めるように小さく舌を出して小首を傾げる水瀬。花ヶ崎がたまにやる蠱惑的な仕種とはまた違う妖艶さを孕んでいたものの、杖を失い露わになった頬には薄紅の羞恥心が滲んでいた。だからこそこれは冗談で言っているなと判断することが出来た。
「あれはもう忘れてくれ。俺から聞きたいのは……って別に大したことでもないんだが、フィナンシェのメーカーのEMは水瀬のことか?」
「……どうしてそう思うの?」
「どうしてって言われても菓子に対する知識量と菓子作りの腕が立つこと、それと水瀬愛理のイニシャルはE.Mだろ? 考えれば考える程水瀬のハンドメイドとしか思えなくてな」
水瀬は返答の代わりに光沢を内包した長い黒髪を耳へと掛け、ティースプーンでカントゥチーニをサルベージするとそれをそのまま「はいどうぞ」と言いながら俺へと差し出した。
……おい、なんだこの状況は。はい、あーんってやつか? 一体俺にどうしろと?
水瀬のこの行動に対する意図が掴めず、どう対応すればいいのか理解に苦しみ固まっていると……、
「城戸くん……はい、あーん」
俺の心を読んだのか、水瀬がそう呟いた――。




