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水瀬家……いや、水瀬邸を出て少し歩いてから深く息を吐き、もう一度心の中でレジェンド・マリオネット・ルーラーと唱える。
「……うわぁ……キツイ……な」
『自己調整法』の自己催眠を解き、その副作用に思わず呻く。
身体を動かした訳でもないのに全力疾走をした後のように息は荒く、言葉を発するのもままならない。それに加え、指先や足先の冷えによる体温低下、激流のように込み上げてくる吐き気、目まぐるしく回って見える世界、メンタルヘルス異常。不調は他にも挙げれば限が無かった。
あれだけ負荷のかかる場面でやったんだから、この代償は予想通りって言えばそうなんだけどな……仕方ないか。
自業自得であることを自分に言い聞かせ、ただただ回復を待つことしかできない。
そんなことを朦朧と考えていると立っているのも厳しくなり、脂汗の滲んだ手で震える足をなんとか抑え付け、その場に腰を下ろす。
幸いにも人通りの少ない路地に入ってから解いたので、道路の隅に蹲っていても他人から声を掛けられることもないだろう。
……と、そんなふうに考えていた時期が俺にもありました。
「あれ? そーにぃ?」
声を聞いただけで分かるその呼びかけに、手だけを上げて答える。
あぁ……知り合いに見られるってことを想定していなかったな、と自分の浅はかな考えを呪いたくなった。
「うぉ~い! なんでそんなとこで座ってるの~? お尻ばっちくなるよ?」
その問いかけに答えようとするが、今口を開いたら人間水鉄砲になりそうだったので自重し、代わりに気合いで顔を上げた。
きっと無様な表情なんだろうなと思いつつも、目の前の人物が愛想笑いを貼り付けないでいい相手で良かったと、安堵した。
「……だいじょう……ぶ、じゃなさそうだね? どったの? 服綺麗だけどケンカでもしたの?」
油が切れたロボットのようにぎこちない動作で首を横に振る。今はそれが精一杯の動作だった。
「ふ~んって、全然分かんないよ!? ……とりあえず救急車呼ぶ?」
「……だい……じょうぶ……だから」
幾分か収まってきた吐き気を抑え込みながら途切れ途切れに答える。
さて、どうすればいいのやら。
「……嘘じゃない?」
「……あぁ」
「そっかぁー……そーにぃがそう言うなら信じるけどさー。とりあえずうちのが近いからうちくる?」
「いや……いい」
「ワガママ言わないの。鈴奈今日シフトだし、そーにぃをここに放置する訳にもいかないしー」
「……ありがと」
冷えて震えている手をその子の頭に乗せて、ポンポンと撫でた。
「おぉ~っ! そーにぃが珍しく自分から撫でてくれた! いつもは鈴奈がおねだりしないと撫でてくれないのにぃ……大丈夫? 立てる? 肩貸そっか?」
「あぁ」
そして俺は頼りない小さな肩に心配を掛けまいと、歯を食いしばって立ち上がった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目覚めると、知らない天井だ。なんてことはなかった。
ここは親父の妹さんの家で、寝ていたこの部屋は従妹で桜咲高峰学園中等部3年の籠橋鈴奈の部屋だ。
「死ぬかと思った」
体調が落ち着いていることに心弛び、我ながら情けない言葉が零れ落ちた。
まさかあれ程までの副作用が起きるとは想定していなかった。
……さて、どう誤魔化せばいいのか? と考えながら気持ちを切り替え、一先ず行動する。
ぬいぐるみまみれのベッドから起き上がり、時刻を確認して布団を整えてから部屋を出る。どうやら1時間ほど眠っていたようだった。
勝手知ったるなんとやらであるため、礼を言いに鈴奈がいるであろう場所に向かう。
「叔父さん」
「おぉ! 颯太! もう大丈夫なのか?」
途中厨房には俺の叔父さんにあたる――籠橋和馬さんが立っていた。
その出で立ちは頭から純白のトックブランシェにダブルのコックコート、スラックス状のパンツに足首まであるロングエプロン、唯一スカーフタイだけが臙脂という、どこにでもいるような標準的なシェフの格好をしていた。
「はい、もう問題ないっす」
「鈴奈がよぉ~颯太が寝た後、そーにぃ死んじゃう、って騒ぎまくって大変だったんだぞ」
「そりゃ~すいません」
「まぁ、騒いでる鈴奈が可愛かったからいいんだけどな! ハッハッハ」
「もうお父さん!? そうやって鈴奈のことでっち上げるのやめてよね!」
和馬さんと他愛のない会話をしているとそれを聞きつけたのか、カウンター越しに厨房を覗き込むようにして鈴奈が顔を出した。
落ち着いたアッシュブラウンのショートボブヘアーに、長い睫毛が特徴的なアーモンド・アイ。筋の通った形の良い鼻は控えめで、ぷっくりとした唇との絶妙なバランスが小顔であることを最大限に引き出していた。
微笑むと愛嬌のあるえくぼが顔を出すが、どうやら今は休業中のようだ。
身内という贔屓目をなしにしても充分に可愛らしい容姿をしている鈴奈は、学校では本人曰くモテモテらしいが、彼氏がいるなどということは聞いたことが無かった。
厨房で騒いでは邪魔になると思い、和馬さんに一言断りを入れてからホールにでる。
鈴奈はピンタックの白いブラウスに灰色のカマーベストを纏い、パンツは黒の膝丈までのラップキュロットスカート。そして首元にはワンポイントの濃紺のクロスタイ。若干フォーマルであったが、その格好はウェイトレスそのものだった。
まだ店内は開店前だったので俺と鈴奈の他には誰もいない。
「鈴奈、いつも助けてくれてありがとな」
「うんうん……全くその通り! え~っと、あの……なんだっけ? 中二病だっけ? あんなヘンテコそーにぃを助けてあげたのも鈴奈だもんね!」
「……本当に感謝してます。感謝感激雨霰!」
そう……。俺が中二病から卒業することができたのは鈴奈のおかげだった。
あれは思い出すまでもない、つい1ヶ月半前の春休みでのこと――。
「ねぇ、そーにぃ?」
「ハッ!? 何故この我――レジェンド・マリオネット・ルーラーに念話を試みることが出来るのだお主!? ……貴様なかなか出来るな」
「……う~ん、色々とおかしいけど、鈴奈から言いたいことはひとつだよ?」
「フンッ! 我は誰の指図も受けぬ!」
「鈴奈が勝手に言いたいだけだから聞かなくてもいいけどさー……いつまでそんな痛々しいこと言ってるの? 今まではそーにぃも中学生だったし、子供だったから言わなかったけどさー、実際ちょー痛々しいよ? 4月からは高校生なんだし、少しはまともになってね? じゃないと彼女とかできないよ? ……まぁ、鈴奈はそんなそーにぃ――」
「やめてぇぇぇぇぇぇええええええええええ!! もうそれ以上言わないでぇぇぇぇぇぇえええええええ!? 従妹にそんな風に思われてたなんて知りたくなかったでゴザルゥゥゥゥゥゥ!!」
小さい頃から何かと面倒を見ていた従妹からの心の籠もった心無い言葉に完膚なきまでに打ちのめされ、俺は中二病を卒業すると同時に、精神的外傷を負った。……まぁ、自滅なのだが。
そんな俺の人生の転機を思い出しながら、ハートフルな感謝を鈴奈に伝える。
いやぁ~あんときは大変だった。危うく人間不信に陥るところだった。
「そんなに感謝されるとさー……なんか恥ずかしいよ……鈴奈今ふざけて言ったのに」
「いや、鈴奈に言われてなかったら俺は一生あのままだったかもしれないからな。恩に着るよ」
「そ、そっか~……ならひとつ聞いていい……かな?」
ちょこんと小首を傾げる鈴奈に二つ返事で答える。
「あぁ、どうした?」
「……どうして伊達メガネなんか掛けてるのかな?」
そんな言葉が店内に充分に広がってから気付く。
あれ? そういや俺……伊達メガネどうしたっけ?
伊達メガネを掛ける、という習慣がまだ完全に身に付いていなかったようで、必死になって記憶を辿っていると、
「どう……かな? 似合う?」
どこから出したのか、いつの間にか鈴奈が俺の伊達メガネを掛けて恥ずかしそうに上目遣いでそう口にした。
そんな鈴奈のメガネ姿は正直俺よりも似合っていた……悔しいことに!
「はいはい似合ってる似合ってるから返せ」
なので棒読みで感情を込めることなく返答しつつ、俺の伊達メガネを鈴奈から奪取した。
「ひどー! なにその反応? ……もうちっと褒めてくれたっていいのにぃー……ってそうじゃなくて、伊達メガネなんかしてどったの?」
「まぁな、色々とあんだよ」
「むむ? 色々ってなにー? 教えてー!」
うわ、めんどい。鈴奈はこうなったらめんどいんだよなー。どうすっかな。
「ご想像にお任せ致します」
「えー? なんだろー? ……う~ん…………あっ!? まさかっ!? 中二病再発!?」
「ちげぇよ!」
「違うならなんなのさ? 教えてくれないなら鈴奈は再発したってことにするよ?」
「落ち着け鈴奈よ! 誰だって人に知られたくない秘密のひとつやふたつぐらいあるだろ? これはそれなんだよ。だから俺のメガネが伊達ってことは鈴奈の中だけで留めてくれ」
「えー」
「よし、じゃあ取引だ。今日助けてもらったし、伊達メガネのことを秘密にしてくれるなら、なんかひとつだけ好きなもん買ってやるよ。これでどうだ?」
真面目くんに見せようとしてます! なんて恥ずかしいから口が裂けても言いたくない。あ~ぁ。グッバイ俺の諭吉先生!
「別に欲しい物なんてないけど……えーっと、それなら来週の土曜日一緒にお買い物行こうよ?」
「……マジ!? 買い物付き合うだけでいいの?」
「……うん。ダメ……かな?」
「いやいや全然いいぞ! むしろ買い物なんていつでも付き合ってやるぞ」
「やったー! デート! 来週そーにぃとデートだっ!」
ちいさくガッツポーズをしながらやわらかく微笑んだ鈴奈の頬には、愛嬌のあるえくぼが照れくさそうに顔を出していた。
ったく、これ反則だろ。もし俺にえくぼがあったら…………うん、間違いなくキモイって言われて終わりなんだろうな。解せぬ!
「デートじゃないだろ?」
「いいの! そーにぃがどう思おうと鈴奈のなかではデートなの!」
「はぁ、まぁなんでもいいけど」
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そろそろ開店時間が迫っていたので、来週の土曜日のスケジュールは鈴奈と一緒に後で決めるということを約束して、俺は“創作レストランKAZUMA”を後にした。




