4 水瀬愛理
全身の悪寒が今は嘘のようだった。
恥ずかしながら私は彼に抱きかかえられ、その彼の体温を感じている。
整理して考えるとただそれだけのことだが、それがとてつもなく心地好かった。
温かいゆりかごに揺られているような、そんな感覚と言えばいいのだろうか?
……ん。ゆりかごに揺られたことなんて物心ついてからはないので、私自身分からないけれど。
「んじゃ、開けるぞ」
私を抱きかかえている彼がそう言った。
抱きかかえられている体勢からして、彼が何かを喋る度に耳元で囁かれることになる。
これがまた不思議と心地好く、彼の“異様なまでに落ち着いた声音”で囁かれる度に、身体中がぞくぞくとする。
「……んんぅ」
思わず喘いだような、はしたない声が出てしまった。
恥ずかしいと思いながらも、彼は今の私の反応を見てどう思うのだろうかと、気になってしまった。
……ん。ダメだ。高熱のせいなのか、頭が重くボンヤリと思考することしかできない。
これでは何か大失態を起こしそうな気がするけれど、それはそれでいいかなと恣意的な判断に身を委ねた。
「ベッドに寝かせるからな」
彼は私の部屋の扉を開けると躊躇することなくベッドへと向かい、器用にも私を抱えたまま掛け布団を捲り、ゆっくりと丁寧に下ろしてくれた。
……うぅ、寒い。
冷えた布団に包まれてみて、改めて彼の体温を感じていたことが、いかに心地好かったことなのかを知った。
「薬飲んでないんだろ?」
「……うん」
「ゼリー食べれるか?」
全くもって食欲がなかったので、彼の善意の問い掛けをどう断ろうかと鈍い思考で考える。
「……ん」
そして考えに考え抜いた結果、布団を頭まで被って首を横に振ることしか出来なかった。
こんなわがままを言っている自分のことを、彼に見られるのが堪らなく恥ずかしくなったからだ。
「そうか……なら、食べるタイプと飲むタイプならどっちのが食べれそうだ?」
……え? 彼、私の拒絶を全然意に介してない? それとも伝わってない?
布団の暗闇に包まれながら悶々とする。
「お~い、聞いてるか水瀬?」
そんな彼の催促が聞こえて来たので、もう一度同じように首を横に振った。
ただ、今度は確実に伝わるよう大きく動作した。
……ん。これで伝わったはず。うぅ、頭痛い。
善意を拒絶した代償を受けながらも、これでもう大丈夫だろうと安心しきっていたら――、
「ダメだぞ? そんなんじゃ治るもんも治らなくなっちまう……食べるよな?」
ガバッと掛け布団を捲られ、至近距離で見つめられた。
……うぅぅ、あぁっ……熱が上がっちゃう……。
彼のメガネ越しの澄んだ瞳が私を直視し続ける。その視線に逃げ場がなく、ついコクリと頷いてしまった。
「よしよし……んで、どっち食べる?」
すると彼は私の頭をポンポン、と優しく撫でながらそう言った。
普段冷静な彼がそんなことをしたという驚きよりも、彼の“冷たい指”で撫でられることが非常に気持ち良かった。
……んんっ。きっと熱が高いから冷たいのが気持ちいいだけ。
働かない頭でそう考えながら答える。
「もっと……ポンポン……して?」
え?
あれ?
あれれ?
私今なんて言った?
彼の質問に答えるよりも、つい自分の疑問を口にしてしまった。
そのことに私の羞恥心が渦を巻き混乱していると、
「どした? ……あぁ、はいはい。それでどっち食べるんだ?」
彼は一瞬何を言っているのか分からないといったような表情を浮かべたが、直ぐに私の言葉を理解し、再度ポンポン、と相好を崩しながらそっと撫でてくれた。
その笑みがいつもの覆面ではないことを見てから、私は頭を撫でられる快感に浸り、答えた。
「……飲むの」
「はいよ。……ヨーグルト風味とグレープフルーツ風味とマスカット風味があるけど、どれがいい?」
「それ」
彼はそう答えると頭を撫でるのをやめ、大きく膨らんだ袋から3種類の飲むゼリーを取り出した。
彼の手が私の頭から離れてしまうことに名残惜しさを感じながらも、飲むゼリーだけで3種類も買ってきてくれたことに驚きつつ、マスカット風味を選んだ。
ただ何となくマスカット風味を選んだのだけれど、さっき私が出した紅茶が、マスカテルフレーバーと言われる、マスカットの様な香りを持つものだったことを思い出し、『共時性』って本当にあるんだな、と笑ってしまった。
「なんか面白いことでもあったか?」
「……ん。なんでもない」
「そうか。じゃあ起こすぞ?」
私が何か言う前に彼がふわりと上半身を起こしてくれた。
彼は女の子の扱いに慣れているのかな? と変な疑問を抱きつつ、ふたの開けられた飲むゼリーを彼から受け取る。
もうここまできたら食べるしかないかと腹を括り、ちびちびと時間を掛けて半分ほど飲み干した。
「もう……無理……お腹いっぱい」
「……まぁ、半分くらい飲んだし大丈夫だな」
彼のその言葉を聞いてほっと安心しながら、ポンポンはしてくれないのかなと考えていた。
……ん。私少しどうかしている。
熱が上がって来たのか、普段では到底考えられない思考回路の答えに戸惑い、少しでも気を緩めると、思っていることをそのまま口にしてしまいそうなので、これからはあまり喋らない様にしようと思った。
「これ薬だろ?」
コクコクと頷きながらお腹が膨れたおかげなのか、急に重くなった瞼を必死に下げまいと、彼のことをじーっと見つめた。
耳が隠れる程度に伸ばされた黒髪は清潔感が感じられるようにセットされていて、シルバーフレームのメガネの奥にはどこまでも澄んだ落ち着いた瞳があった。……あれ? なんかあのメガネのレンズ――、
「はいよ、薬と飲み物」
彼のそんな言葉に慌てて目線をずらし、渡された薬を口に含んでから経口補水液と書かれたペットボトル飲料で飲み干す。
「ちゃんと飲んだか?」
「……ん」
何度も頷いているうちに、自分がバブルヘッド人形のように思えて笑いそうになった。
そんなことを思っていると彼が「んじゃ、寝かすぞ」と言いながら、私の身体をベッドへとするりと倒してくれた。
横になるとさらに強烈な睡魔が瞼を閉じさせようと、攻勢をかけてきた。
「じゃあ俺帰るけど、戸締りはどうすりゃいい?」
「全部……オートロック……だから、大丈夫」
私は睡魔になんとか抗いながら彼の問いかけに答える。
「スゲェな……んじゃ、ちゃんと温かくして寝とけよ?」
「……ん」
「んじゃあな」
その彼の言葉を聞いて、ふっと意識が途切れ、私は“多分”眠りに就いたのだろう……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
彼は彼女に帰宅することを告げ、立ち上がろうとした時だった。
「……ま、って」
「ん? どした?」
ブレザーの袖口を彼女に力無く捕まれ、どうしたのかと振り返る。
「……ポ……ン……し」
ベッドに横たわる彼女は目を瞑っていて、今にも消え入りそうな声音で何ごとかを呟いていた。
その声を拾うために彼は顔を近づけた。
「……ポン……ポン……して」
彼女からの甘い香りを嗅いでいるであろう彼は、顔色ひとつ変えることなく呟く。
「はいよ」
彼女に捕まれていない方の手で、言われた通り優しく、まるでガラス細工を扱うかのように頭を撫でる彼。
すると彼女はまるで寝言のようにぼそっと呟いた。
「……ありがと」と。
その言葉を確かに拾い上げた彼は「どういたしまして」と、彼女を起こさない様に囁いた。
そして彼は彼女の手が自然と離れるまで、ポンポン、と優しく撫で続けるのだった――。
 




