植化病
「葉子! 葉子!!」
まだ新婚夫婦である賢治と葉子。ついこの間までは健康に過ごしていた葉子だが、何の前触れもなく賢治の目の前で倒れた。
倒れた葉子を抱えて呼びかける賢治だが、すでに異変は起きていた。
「なんだこれ……? 土?」
賢治は、自分の手に土がついていることを確認した。その土の元は、だれでもない葉子だ。葉子の体は少しではあるが土化していた。医者に診断してもらうまでもなく、ただの病気ではないことが分かった。
「植化病……?」
植化病。初期症状は皮膚が土に変化し、悪化してくると体の組織が維管束系の植物組織に作り替えられる。名の通り、人間が植物化してしまう奇病である。三年前に国内で初の植化病患者が発見され、さまざまな治療が行われた。だが、現在のところ治療法はない。ただ、植物のように枯れて死ぬのを待つだけである。
病院に運び込まれ、担当医から告げられた病名は聞いたこともない病気だった。だが、賢治は受け入れた。大粒の涙を流しながら、葉子の生涯を見届けることを決めた。
葉子が植化病にかかり、退院して家に帰ってきた。それから、賢治と葉子の気まずい生活が始まった。
「私から離れた方がいいよ? 私、人間じゃないんだよ?」
「大丈夫だよ。人間であろうが植物であろうが、俺にとって葉子は葉子だ」
葉子がそう言ったときには、賢治は決まって、葉子に寄り添い口付けをした。これは、賢治なりの愛情表現で、愛の証だった。どんどん体が土に腐敗していく葉子が、愛おしくも思えた。
だが、皮膚の土化は初期症状にすぎなかった。一秒一秒、葉子の体は植物に作り替えられていった。
その後、病状の悪化は目に見えて現れた。葉子の体が食物を受け付けなくなった。いよいよ、皮膚だけでなく臓器までもが植物組織に作り変わってしまった。これからは、栄養補給は水と光合成で済ませることとなった。
「俺は葉子を愛してる。何があっても見捨てない。お前への愛を伝えていけることが俺の幸せだ。だから……頑張ろうな?」
「……えぇ」
だが、それとは裏腹に、葉子は死を覚悟していた。賢治の気持ちは痛いほどうれしく思っている。だが、葉子の体は枯れてきつつあった。
「こんな私でも何か残せるものはあるかしら。賢治のために、私のために、何か私が存在したという証明を」
その日の夜、葉子は部屋で一人そうつぶやいた。もう、葉子は生き延びることを考えてはいない。ただひたすらに、死ぬまでに何を残すかを考え始めていた。
「私たちは植物園の者です。ここに住む葉子さんを保護しに参りました」
「保護?」
葉子の臓器が植物組織に作り変わって少し経った頃、家に植物園の園長がやってきた。どうやら、葉子を植物園で保護したいようだ。
賢治は、葉子には聞こえぬよう、葉子から離れた部屋での話し合いを持ちかけた。園長もそれに応じ、緊迫したムードの中、二人きりの話し合いが始まった。
「どうですかな? 私たちに葉子さんを任せてはもらえないでしょうか」
園長の話はとても理にかなっていた。体の組織が植物に変わってしまった葉子にとって、人間である賢治とともに過ごすのは無理があることは確か。環境を考えても健康に悪いし、第一、賢治は植物の扱い方を知らない。植物園で過ごしたほうが、最高の設備でいい生活を送れるだろう。
「確かに、外面を考えると、あなたに任せたほうがいいのかもしれません」
「なら!」
「だけど、内面を考えると、あなたに任せるわけにはいかない。あなたじゃ、葉子と心のキャッチボールはできない」
だが、そこに葉子に対する思いは感じられなかった。これはしょせんビジネスだ。賢治はそのように感じた。
「どうしてですか!? あなたは、葉子さんがこのまま死んでもいいのですか? 設備も整ってない家で、無駄に苦しんで死を早める。あなたこそ、葉子さんとキャッチボールをする気がないのではないですか? ただ、自分の手元に葉子さんを置いておきたいだけでは?」
園長はまくし立てるように言葉を浴びせた。だが、そのような言葉が飛んでくることは賢治は分かっていた。園長は葉子を保護して守りたいのではない。ただ、見世物にして金を稼ぎたいだけ。そんな魂胆が見え見えだったからだ。
だからこそ、分かっていたとしても、そんな人間に自分と葉子の関係を侮辱されたことに怒りがこみ上げてきた。
「あんたは、葉子が美しいことを知らない。葉子にはきれいな心がある。環境や設備で縛れるような女性じゃないんだ。葉子は植物じゃない、人間なんだよ。俺は、葉子がここから先何百年、あんたのとこの植物園で過ごしたとしても得ることのできない幸せを共有できる自信がある。俺は今までも、これからも葉子との死と隣り合わせのキャッチボールを続けていくんだ。……あんたに任せることはできない。葉子を商品として見るあんたにはな!」
大声を張り上げて園長をまくし立て返した。
「まだ葉子さん本人の気持ちを聞いていない」
「……私は行きません。死ぬまでの時間はちがえど、死ぬことには変わりありません。ですが、植物園で死ぬのと、賢治のそばで死ぬのは大違いです。私は、賢治のそばで死を迎えたい」
二人の声は、気づかぬうちに葉子にも筒抜けになっていたのだ。
葉子のこの言葉には、園長も返す言葉がなかった。
その日の夜、葉子の方から賢治に体を求めた。植化病にかかって以来、賢治に体を求めたことはなかったが、今日の一件で、葉子はひとつの決意を固めた。
「いいのか葉子?」
「ええ。賢治は、植物の私でも愛してくれるでしょ? 知ってる? 未来って、愛から生まれるんだよ。気持ちよく枯れるために、私はあなたと生きた証を残そうと思うの」
その夜、賢二と葉子は久々に体を交り合わせた。
「なんだ、同じじゃないか」
世間は、葉子を植物になってしまった特別な存在だと認識していた。植物園にだって、植物として入れられそうにもなった。
確かに、体やシーツは土まみれになるし、本来の感触とは異なったものだろう。だが、お互いの足りないものを埋めるような感覚は同じであった。確証はないが、賢治は葉子に何かを残せたような気がした。
それから少し経って、葉子が倒れた。賢治も葉子も、生命の最後を予感し、救急車を呼んだ。
「……正直に話します。葉子さんは今週が山でしょう」
葉子の生命は限界を迎えつつあった。賢治と葉子の要望で、最後は自分たちの家で最期を迎えることとなった。
「ねえ賢治」
もう、葉子の体のほとんどが腐敗して枯れている。どう考えても、これが最後の会話となるだろう。
「どうした葉子?」
「これ、賢治に託したくて」
葉子と過ごす最後の晩。賢二は、たくさんの土が入った花の容器と、妙に湿った花の種を渡された。その花の種は葉子の膣の中から出てきたもので、園長を追い払った、あの日の夜の行為で宿ったのだ。
葉子は死ぬ前に子孫という名の愛の証を残すことができた。
「愛していたぞ葉子。これからは、全力で葉子の残した種を愛すよ」
「ええ。私も愛していたわ。賢治がそこにいる。私の残した未来がここにいる。私、生きたわ。ありがとう賢治」
賢治の眼から涙が溢れ出し、その涙は葉子の残した花の種に流れ落ちた。
賢治は、今から葉子の残した花の種の父親となって育てていく。もう泣いてはいけないと強く思い、ギュッと花の種を抱きしめた。
もし、愛する人に何か悲観的なことが起こったとしても、傍にいる自分くらいは前向きに物事を考えていきたいですね(´-ω-`)