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アリス症候群  作者: 由佐
9/12

6 バラ色なんてすぐ変わる (前)

「多輝!」

 彼女と二、三言交わして友人らしい人物は立ち去り、その直後、彼女は立ち尽くした多輝を見つけてためらいなく名前を呼んだ。

 多輝の方は少しばかり返事につまった。それでも、彼女の声で、頭の中を埋め尽くしていたいくつもの言葉が薄まって晴れた。よう、と手のひらを見せてから、自転車を押して歩み寄る。その名を呼ぶしかないことに、諦めをつける。自分には、“アリス”という呼び名がすべてだからだ。

「早いね、アリス」

「なに言ってるの、時間ぴったりよ」

 こちらに向けられた左手首の華奢な腕時計を見る。夜七時だ。時間の感覚が、また少し狂っているのか。歪んで、いるのか。

 自転車をとめて、いつものファーストフード店に入った。一杯百円のコーヒーを持って、上の階へ。いつも、楽しくてしかたない瞬間だった。プラスチックのコップにはコーヒーが満たされていて、話はこれからはじまる。何から話そうかと、彼女の顔を頭の中に思い浮かべながら考える。テーブルに座れば今にも見られる顔なのに、あと数歩をもどかしく思って、彼女の背中に流れる髪の毛先を見つめていた。

 向き合って話をするときには、その目を見る。そして声に出さず訴えるのだ。

 俺を認めてくれ。君と同じに感じられること、考えていることを、それが何か知りたかった。他人にとって、いや自分にとってさえ、些細なことでいいんだ。形じゃなく、見えないもので、つながっていると確かめたい。君に追いつきたい、君と同じものを見たい、君のような人になりたい。だから、君と話をするのが好きだった。今までずっと。

 それなのに、世界は歪んでいく。君は遠ざかっていく。いつになっても追いつけない。背が伸びても、目が悪くなっても。君はこうしてたまに俺を振り返って“アリス”に戻ってくれるけど、今となってはそれがどんなに異質なことか、認めずにはいられない。自分が勝手に引っ張った、世界の境界線が消えていく。

 “アリス”は、ままならない現実から俺を連れ出してくれるけど、現実世界にも居場所がある。

 すぐ前を歩いているから、多輝と同じ場所に自分がいたことを覚えている。“アリス”はそう言って、ワンダーランドの、俺のところに現れる。

 でも、今にもそうじゃなくなる、君は忘れるよ。無理だ、俺のことを覚えてなんかいられない。俺が“アリス”のない日常をやっていくのなら、君の現実にも俺はいないはずだ。

 聞かなければならないと、思った。

「どうして……」

「ん?」

「どうして、こんなことに付き合ってくれるんだよ」

 ずっと聞きたかった。けれど聞いてしまったら何かが決定的に変わってしまうような気がして聞けなかった。期待も謙遜も、もういやというほど繰り返してきた。それでも自分は、ほしい答えがどういうものなのか想像できないでいた。ちょうどいい背丈のまま、変わらない距離のまま、彼女がたまに足を止めて振り返ってくれるのなら、それでよかったからだ。もともと多輝の日常に、彼女は限られた程度でしか介入できない。ずっとわかっていたから、それ以上を望んだことはなかった。

 彼女が口を開くその一瞬が長かった。先を読みたい気持ちが空回る。

「多輝は、よくできた子だから」

 どういう感想を持ったらいいのだろう。

 結局のところ、自分は想像こそできないにしても、何らかの明快な答えを期待していたということか。彼女から出た言葉は、正直よくわからなかった。

「あたし、ただの後輩かわいさにおせっかいやってるわけじゃないのよ。自分と重ねている部分はあるかもしれないけど、それもたぶんちがう。あたしと多輝はなんだかんだ言って全然ちがうしね」

 多輝は黙って続きを待った。彼女が何を言おうとしているのか考えるのはやめにして、彼女の言葉に慎重に耳を傾ける。

「多輝は頭がよくて気の回るいい子だから。多輝の年齢で、多輝ほどよくできた人間を、あたしは見たことがない。こんないい子が、しなくていい苦労をしてるなんて許せない。まわりの誰も多輝をきちんと認められないなんてこと、あっていいはずがない」

 彼女が、ただ勉強ができるとか学校の中心で仕事ができるとか、そういう意味じゃなく「頭がいい」とか「よくできた」とかいう言葉を使っているのはすぐにわかった。だってそれだけの意味なら、多輝よりよくできる人間がいくらでもいるはずだからだ。多輝のような程度、どこにでもいる。高校に通っている彼女なら、そんなの身をもって感じているはずのことだった。

 それなのに、彼女はまるで、多輝をかばうみたいなことを言う。

「多輝が一年生のときに生徒会に立候補する前から、あたし、多輝のことを知ってたんだ。知らなかったでしょう」

 まったくの初耳だった。

 だって、生徒会に立候補したのは一年生の秋だ。多輝の方は、有沢すみれという名前くらいは知っていた。生徒会として行事のときに挨拶をするのを見たことがあったから。しかし多輝はただの一年生のうちのひとりでしかなかった。他学年の人に名前を覚えられるほどのことは何もしていない。彼女とまともに知り合ったのは、多輝が生徒会に入ってからのはずだ。

「多輝は、覚えてないかもしれない。多輝が一年生のとき、生徒会選挙よりも前だよ」

 彼女はちょっとためらうように口をつぐんでから、言った。

「……尾形、麻里ちゃんが」

 出てきた名前にただ驚き、何も言えなかった。

「図書室のカウンターの横に、図書委員が作る本棚があるでしょ。本屋のフェアみたいなやつ。図書委員がおすすめの本を選んで、推薦文を書いたカードと一緒に並べるの。委員の当番制で、図書だよりのプリントでも紹介される」

「ああ、月一ぐらいで配られるやつね」

 図書室に行く機会は少ないので、カウンター横の本棚は見たことがある程度で、具体的に並べられていた本の記憶は全然なかった。

「女の子たちが、麻里ちゃんが当番で並べた本を、笑った。昼休み、麻里ちゃんがカウンターに座っているとき、同じ図書室で。たぶん、麻里ちゃんのことを知ってる子」

 記憶に薄い図書室を思い浮かべてみる前に、学校を出る直前に会った妃奈子たちの顔を思い出してしまった。そのせいで、アリスの話を聞くのが少しだけ怖くなる。それでも後ろめたさをこらえて、尾形麻里のことを想像する。昼休み、図書室のカウンターに座る、尾形麻里のことを。

「他の図書委員が、ドラマの原作とかの有名なのを選んでる中で、麻里ちゃんの選んだ本は確かに、本を読まない子にはわからない本ばかりだったかもしれない。あたしも読む方じゃないから、正直、知らない本ばかりだった。他の委員の子が選んだ本はすぐ貸し出されて、推薦文を書いたカードだけが残ってることも多かったんだけど、麻里ちゃんが選んだ本は、本棚に並んだままになってるのが目立ったのかもしれない」

 尾形麻里の書いた字を、多輝は知っている。学級委員でプリントを回収したときにも見たことがあるし、今は文集委員で書記をしているから、そのノートも見たことがある。彼女の字は丁寧で大人びた、きれいな字だ。わざと丸く癖をつけた、いかにも女子っぽい字とは、全然ちがう。尾形麻里の字は、小学校の先生の字と似ている。

 そのきれいな字が、一部の女子たちにとって滑稽に映ったのは、想像に難くない。彼女たちにまったく縁のない本を真剣に好きで紹介している熱心な文章、大人っぽい文字が、皮肉にも、まるでセンスのない地味な失敗作みたいに扱われる。格好悪いものになってしまう。そういうものなのだ、笑っている側に非があるとしても、少なくとも笑うことの方は恥ずかしいことにはならない。正しさなんか関係なく、馬鹿にされるのは尾形麻里の方になる。

「大声で話してた、麻里ちゃんのこと。目の前でってわけじゃないけど、視界に入るし、聞こえる距離で。本のことは、口実でしかないのよ。本を選んで文章を書いた麻里ちゃんのことを言いたいだけ。委員会でカウンターから離れられない麻里ちゃんが聞いていることもわかってて話をする。それで、ついにその子たちは麻里ちゃん本人に話しかけた。カウンターの横の本棚に近づいて、麻里ちゃんのことを呼んだの」

「それはまた……」

 知らない女子に呆れると同時、ここまできても彼女の話がどうつながっていくのかまだわからないことを不思議に思った。

 尾形麻里の話が、どうして多輝を生徒会選挙前から知っていたという話になるのだろうか。中学一年といえば、尾形麻里と同じクラスではあったけど、その頃にはまだ、尾形麻里とろくに話をしたこともなかったと思うのだが。

「本当に覚えてないのね、多輝は。ここで多輝が登場するんだけど」

「え」

「その子たちが麻里ちゃんを呼んで何かを言おうとしたとき、多輝が割って入った。って言っても、からかいを止めに入ったわけじゃなくて、多輝はただ、麻里ちゃんに話しかけた女の子たちに用があったみたい。麻里ちゃんじゃなく、その子たちを呼んだの。そしたらその子たちは多輝について図書室を出て行った」

 たったそれだけのことを、彼女は今こうして話ができるくらいに覚えているのかと、多輝は不思議な気持ちだった。

「なんて男の子だろうと思った。麻里ちゃんに声をかけることなく、しかも女の子たちを注意するでもなく、あの場の空気をがらりと変えてしまった。あの子たちが声をかけられたら無視できないような、あっさり注意を引き寄せてしまう男の子。それが多輝なのよ。あの時は名前も知らなかったけど、あたしは多輝が羨ましかった。多輝は何も気づいていなくて、本当にただ用事があるから声をかけただけだったのかもしれない。それでもいいの。からかいを止めようとか、麻里ちゃんを助けようとか、そんな正義感、なくったっていい」

 彼女の声が、わずかに震えたような気がした。しかし、震えなんていう脆弱なものとはちがう、とも感じた。

 彼女の口から伝えられる出来事ははじめから淡々としていた。きっと後になって冷静に付け足されたのであろう印象も踏まえた状況を、語るというより説明しているようだった。それがここにきて、彼女の口調に締めつけるような感情がにじんだのを、多輝は確かにとらえた。

「あたしは、麻里ちゃんに声をかけることだってできた。たとえその場かぎりでも、麻里ちゃんをかばうことができたはずなのに、何もできなかった。多輝は、あたしにできなかったことを簡単にやってしまった」

 だから羨ましい、と言った彼女の横顔は、どこか冷たく、彼女自身を突き放すようにも見えた。見たことのない顔に、どきりとする。

 けれど、顔をあげた彼女と目が合ったとき、多輝に向けられた目は優しかった。

「そのあと、生徒会選挙の立候補者が決まってから、やっと多輝の名前を知ったの。ああ、あの時のって思った。『大原多輝』。なるほど、あの子、大原多輝っていうんだ、って。図書室で突然人に話しかけてたわりには、原稿をめちゃくちゃ真面目に丸暗記してるのがおもしろかった。そんなに準備するんだってくらい、それはもう真剣に」

「それは……」

「多輝は心配性だもんね」

 からかうように笑った彼女に、多輝は「そうだけど……」とぶつぶつ返す。

 その弱った反論を聞き流して、彼女は多輝に向き直った。よけいな緊張も、感情の高ぶりもない。多輝がいつも耳を傾けてきた彼女の声、素直な言葉が、多輝の心に注がれた。

「あたしが多輝に肩入れするのは、多輝を尊敬しているから。それと、自分が恥ずかしかったから。多輝と生徒会でよく関わるようになってから、あたし、多輝に恥じない先輩でいなきゃって、勝手にそう思ってきたの。多輝はよくできた子だから。こんなよくできた子に尊敬されると思ったら、見栄を張らないわけにはいかないし、味方をせずにはいられない。今もね」

 冗談はすぐに返せるのだが、そうじゃない言葉は、受け止めるのがやっとだった。

 なんと答えたらいいのだろう。彼女の言葉を噛み砕くたび、多輝の心は温度を上げ、言うべきか言わざるべきかわからない思いが次々に泡のように浮かんで、対応する言葉を見つける間もなく弾けて消えていった。

「そう、だったのか」

 口もろくに挟まず言葉を聞いているうちに、多輝はあの時のことを思い出すことができてしまった。彼女が羨ましいと明かした、以前の自分のことを。

 二年以上も前、入学した中学校にも馴染んできて、制服が黒の詰襟から白いカッターシャツに変わるくらいの時期だっただろう。滅多に立ち寄らない図書室で、自分は数人の女子を、話を遮るほど大声で呼び、図書室の外へと招きよせた。きびすを返す一瞬、尾形麻里の驚いた目と視線がかち合ったような気がする。

 席替えで多輝が前から二列目を譲ったクラスメイト、文集委員を断ることのできなかった尾形麻里。妃奈子たちのからかいの材料の一部になった麻里の気持ちの発端も、あの時に遡るのかもしれない。一筋、ひらめきが走った。

 有沢すみれの言う、空気の変わった瞬間。彼女が多輝を驚きや感心とともに認識したその時は、尾形麻里の視界を多輝が塗りかえた瞬間でもあったのか。

 ほんの端緒とはいえ、このことが今になっても妃奈子たちの話のネタになっていることに、思わずため息が出た。

「尾形さんは一年の時も同じクラスだったよ。あの時はまだ、話をしたことはなかったと思うけど」

 多輝は尾形麻里を助けたいと同情したわけではなかった。話したこともないクラスメイト、図書委員などという多輝には一番縁遠いくらいの委員につく地味な女の子。彼女に本気で関わろうという気なんかなかったのだ。有沢すみれの認めるほどたいそうなことなんか、全然、考えてなかった。

 それでも多輝は、尾形麻里から彼女らを引き離そうと考えた。

 たまたま居合わせたこの時だけ多輝が乗り出すのは、気まぐれで無責任なことかもしれないが、いま彼女たちに口を開かせてはならないと多輝は強く思った。多輝に本のことなんかわからない、尾形麻里の選んだ本が何かなんて興味はない。しかし偶然に彼女が書いたカードが目に入った途端、このクラスメイトは多輝には持ちようのない世界を持っているのだと悟った。この場所は彼女にとって意味のある場所で、下手をすればクラスの教室よりも大事な、世界の一部分なのだと直感した。多輝が学級委員になる気持ちと、尾形麻里が図書委員になる気持ちは、おそらくまったくの別物だ。馬鹿にしていいものではない。お前ら、それがわからないのか。

 これを正義感と呼んでいいのなら、自分には小さな正義感があったと言えるかもしれない。彼女たちを引き離せるという確信と、少しの失敗で目立つと彼女たちにとっても尾形麻里にとっても逆効果になりうることへの怖れも感じていた。その上で、らしくもなく会話を遮るようにして、さりげなくも故意にあの場に割り入った。彼女たちのしようとしていたことを摘発こそせずとも、多輝は確かに見えていたし気づいていた。だからこそ彼女たちを遮って、尾形麻里を直接には馬鹿にさせなかった。

 その時の怖れと自信が、いつの間にか過剰な臆病と醜い傲慢となっていたのだ。都合の悪いことには見ないふりをしてやっているんだという傲慢が、目を曇らせてしまった。

「――ただの偶然だよ、アリス」

 慎重に、言葉を選ぶ。

「おぼえてないんだ、その時の尾形さんのことは。俺はやっぱりその子たちに用があっただけなんだよ」

「いいのよ、それで。それでも、多輝は正しいことをしたんだから」

 ちがう。

 これは見栄だ。自分のための嘘だ。俺は君のようにはなれない。俺は、君と同じ気持ちじゃない。

 ――“アリス”、君に憧れてばかりいちゃ、俺は俺らしくいられない。

 多輝は、空になったコーヒーのカップを握りつぶす。一息で言った。

「俺、もう来ない」

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