5 チェシャ猫みたいに (後)
文集の原稿は、生徒会のメンバーから入れ知恵をもらってそれなりにユーモアを追求することにした。久しぶりに生徒会室に顔を出して、後輩も含めたメンバーとあれやこれやエピソードを出しあって完成させ、原稿を提出した。
放課後、文集委員の集まりを終え、生徒会のメンバーと別れて階段を下りる。委員会の中心で全体の企画をしている尾形さんは、まだ委員会のあった教室に数名の委員とともに残っている。
アリスとの待ち合わせまではまだ時間的に余裕がある。今日は自転車だけど、歩いて商店街まで行けばちょうど、といったところか。
一階下におりてすぐ目の前、三年三組の教室にはまだ明かりがついていた。中からは、人の話し声がした。
それが女子の声だと聞き取れたところで、やっぱりなと思う。人数は三、四人といったところか。松村妃奈子と、その同系統の女の子たちの顔が浮かぶ。クラスで目立つ、声のよく通る子たち。多輝は彼女たちに文集のクラスのページのレイアウトを頼んであったから、放課後、教室に残ってそれを作ってくれているのだろう。仲のいい友だち同士、半分は井戸端会議、といったところだろうけど。
彼女たちの話の内容の方に興味はなかった。勝手な印象だけど女子同士の話の半分はどうせわからない話題だし、わかる話題だからって積極的に話に加わるほど仲がいいとも思っていないし。何気なく教室のドアを開けて、彼女たちに軽く声をかけるだけ。文集をやっているなら、「お疲れ」と調子を合わせて笑いかけ、ちょっと様子を見て進捗状況を確認する。それから「ありがとう、じゃあね」で終わりだ。
そのつもりでドアに手をかけたのだが、そこではっきりと聞こえた妃奈子の言葉で、思わずドアを引こうとした手の力が抜けた。
「――尾形ってさあ」
ついさっきまで一緒にいた尾形麻里のことだと、すぐにわかる。女子が互いの名字を呼び捨てにするのは、さほど珍しくない。とりわけ運動部の女の子には多い気がする。けれど今のは明らかにその感じじゃないのがわかってしまった。妃奈子の言った「尾形」は、もっと別の響きだった。
手も足も動かせなかった。今に限って雑音の少ない廊下で、多輝ははっきりとその続きを聞いてしまった。
「尾形ってさあ、なんか点数稼ぎだよねー。文集委員」
「あー、内申の?」
妃奈子の言葉に、集まった女子たちのうちのひとりが問い返した。
「それもあるけどお、……多輝の?」
何、と多輝が思うと同時、「それ言えてる!」と彼女たちのはしゃいだ笑い声が、窓やドアの隙間から飛び出して廊下を跳ねる。多輝の耳をからかうように突き刺した。
気づいた、という瞬間は、まるで目覚まし時計が鳴るみたいに、はっきりと「今だ」とわかった。不意に夢の中にアラーム音が飛び込んできて、抗いようのない力で意識をつかんで引きずり出す、寝覚めの悪い朝に似ていた。指先の動かし方すらも忘れそうになる。一瞬、ここがどこなのかもわからなくなるほど、自分の外と内が大きくずれる。
「じゃあやっぱ尾形ってマジなんだあ」
「けどさ、一緒に委員会やるのがせいぜいじゃない?」
「だよねえ、多輝の方は絶対その気ないもん」
「それでも知ってるには知ってるんじゃないの、多輝だって。わりと有名じゃない、尾形が多輝のこと好きなの。男子の間ではそうでもないのかな」
「いやあ、知ってるでしょ、気づいてないふりしてるだけだって!」
口々に同調して、彼女たちはひとしきり笑う。
「ま、多輝だから男子は騒がないだけか」
多輝もメーワクでしょ、尾形と噂されたって。
妃奈子の言葉を最後に、軽々と話題は別のことに移った。はしゃいだような声は続いていたが、多輝の中にうまく言葉として入ってこなかった。
学級委員仲間で、クラスの女子の中ではわりと話をする相手、隣の席の松村妃奈子。他の子よりもちょっと洗練されて見えるかわいい容姿と、友人に囲まれて無邪気になんでも通してしまう影響力が、彼女の個性だ。気分の悪い言い方だけど、対等に話ができる男子は限られている。隣の席で仲良くやれることを、羨ましがるやつがいることも知っていた。そのことにただうんざりしていただけではなかった。ずいぶんと下等な優越感は、もう長いこと飼いならしている。その上で自分は、妃奈子の無神経を馬鹿にしながら、すべて見ないふりをしてきた。
そうするしか、ないじゃないか。
奥歯をきつく合わせ、それから力を抜いて息を吐く。多輝は無造作にドアを開けた。さも今やってきたかのように、何も知らない無邪気な体を装った。
「あ、多輝! 委員会?」
「おう、いま終わった。そっちは進んでんの、クラスのページ」
「任せてよ。亀ちゃんとも相談して、だいたいはもう決まったんだ」
妃奈子のような女の子は、亀岡先生のような生徒受けのいい若い教師と仲がいい。先生のことを、あだ名で呼ぶくらいに。
「そっか、ありがとう。じゃ、俺、今日塾なんで。お疲れ」
「お疲れー」
妃奈子たちが手を振ったから、肩越しに手を挙げて返事をする。振り返る気にはなれなかった。逃げ出す思いで教室を出た。
大丈夫だ、間違ってない。そう言い聞かせる。忘れようとする。自分は何も、聞いてない。妃奈子の無神経なんか知らない。見ていない。俺は何も、知らないんだ。
一階まで、階段を一気に駆け下りた。自転車置き場から自分の自転車を乱暴に引き抜いて鍵をさす。鞄を肩にかけたまま、ヘルメットもかぶらず、ペダルを踏み込んで校門を飛び出した。
マフラーを巻き忘れた首もとから容赦なく冷たい風が入り込んでくる。不快で煩わしくて、よけいに頭の中が引っ掻き回される。とりとめもなく、まとまらない思考が荒々しく跳ねまわる。呼吸をするたび、自転車の速度が増していく。
ちくしょう、早く、もっと早く気づきたかった。悪夢なら、悪いことが起こる前に「これは夢だ」と気づいて一度目を覚ましたいと思う。それと同じだ、もっと早く気づけば、防ぐことができたはずなのに。
俺はどうして、妃奈子の言葉を聞く今の今まで疑問に思わなかった。尾形さんは、本当に立候補によって文集委員になったのか?
いやでも鮮明によみがえる、体育の後に文集委員を決めたあの日。妃奈子は女子の文集委員を尾形さんに頼んだ。その確認でも取らせるみたいに、わざわざ多輝を自分と尾形麻里の目の前に呼びつけた。
女子の委員決めに多輝が口出しすることなどないはずなのに、それでも多輝を呼んだ妃奈子のことを、要領が悪いとしか思わなかった。何をするにも他人を巻き込む子だから、関係者として自分が選ばれた。その程度に過ぎない、松村妃奈子はそういう子なんだと思って、目をつぶったのだ。むしろ、目をつぶってやった、くらいの気持ちでいた。
あの時、妃奈子は山根のことを馬鹿にした。ただの雑談だったけど、それだけでも気分が悪くて仕方なかった。しかし俺は、そうして妃奈子に神経をとがらせるばかりで、尾形さんのことに気が回っていなかった。
松村、お前、尾形さんが断れないことを知っていて、俺を呼びつけたんだな。俺を巻き込んで、尾形さんを馬鹿にした。
――尾形さん、文集委員やってくれるんだって?
妃奈子は、このセリフを多輝に言わせたかったのだ。
自分の口から出た愛想のいい言葉には反吐が出る。あの一言に、尾形さんが首を横に振れるわけがなかった。
今になって、多輝はようやく自分の言葉の尾形麻里に対する重みに気がついた。思い出したのだ、席替えで多輝が手を挙げて席を譲った後、尾形麻里は多輝のところに礼を言いに来たこと。
彼女は、わざわざ教室の一番後ろの多輝のところまで「ありがとう」と言いに来た。一番前の席を嘆く赤木の、デリカシーを欠いた冗談のあと、それも多輝が妃奈子と話している最中だったにもかかわらずだ。
席を譲ったという、ただそれだけのことだ。多輝の行為はささいなことにすぎない。尾形麻里がどんなに律儀でも、その誠意はあの状況で多輝に話しかけるところまでに至るだろうか。妃奈子や赤木とはタイプも立ち位置もちがう尾形麻里。クラスではどちらかと言えば地味でおとなしく、行事なんかじゃ黙って妃奈子たちのグループに従ってやり過ごす類のクラスメイト。どこかできっと、怯えているにちがいない。妃奈子たちに、下手な関わり方をしてはならない。それがわかっているはずだ。どんなに律儀でも、誠意や生真面目さはそう簡単に臆病には勝てない。多輝自身もわかっている。赤木や小坂に合わせるなら、山根のことは多少とも見下さざるを得ない。山根をネタにしたからといって、妃奈子を面と向かって咎めることはできない。ただでさえちっぽけな正義感は我が身のために完全に鈍る。それと同じではないか。
でも、尾形麻里は多輝に声をかけにきた。
彼女が、何にも臆せずあの場で話しかけてきたはずがないことぐらい、自分にはわかったはずだ。それなのに自分は、あの時彼女が一体どういう気持ちで、あの騒がしい教室を横切って妃奈子と話す多輝のところへ来てくれたのか、考えたこともなかった。彼女がどれだけの勇気で多輝を呼んだことか、考えただけで手が震える。
俺はあの時、赤木への皮肉を抑えていた。あいつは、前から一列目の席になったことを嘆き、席を譲った俺に、ふざけて言いがかりをつけてきた。だけど赤木、尾形さんに席を譲るのは、俺じゃなくてもよかったんじゃないのか。そんなに一列目がいやなら、今は多輝の座席である一番後ろの席に移ることができたのに、お前は手を挙げようとしなかった。
本当はわかっている、あの場で手を挙げて尾形さんに席を譲り、山根と同じ班になる席に移動するのが、どういうことか。クラスの誰も手を挙げなかったのは、何も、担任である亀岡先生の人望の薄さを示していたわけではないのだ。だから、自分が手を挙げた。クラスの中で、俺にはできる、許される。そうやって、自分の思う優等生像を実現したのだ。
尾形さんが声をかけてきたとき、隣ですっと引くように笑い声を消した妃奈子は、その直後に文集委員決めの提案を切り出した。男子の委員は俺がやってもいいよと多輝が言ったその瞬間、妃奈子の悪意は動き出したのかもしれないと思うと、頭の奥が鈍く痛む。思い出したくないのに、廊下でドア一枚隔てて聞いた甲高い声がよみがえる。
女子の文集委員を引き受けることは、妃奈子たちが言うところの、点数稼ぎ。内申じゃなく、多輝の点数稼ぎのための文集委員。尾形麻里はマジだ。大原多輝のことを好きで、だけど委員会がせいぜい。それ以上には全然、相手にされてない。
まるで耳元で聞こえるみたいに、妃奈子たちのはしゃいだ声がする。悲鳴みたいな笑い声はいやに冷たくて、あからさまに尾形麻里を馬鹿にしていた。彼女たちは、きっとこれまでにも、教室の後ろで笑っていた。教室の前から二列目までに座る尾形麻里は、背中で一体どれほどの嘲笑に耐えたことだろう。決して顔をあげず、振り返らず、彼女は一心に、手元に広げた本に目を落としていたに違いない。
その尾形さんを、俺は傷つけたんじゃないのか。
気づいてしまった。赤木や妃奈子に対し胸中で呆れる一方で、山根や尾形さんに気を回すのは、つまらない偽善と言い訳のためだ。赤木や妃奈子を許す自分を許すためだ。見たくもない、気づきたくもない。そうやって優しいふりをして目を伏せながら、その実、それができてしまう自分に不純な安心を抱いていたことを、もう認めないわけにはいかなかった。見たくもないと言いながら、自分だってバスケの試合をする山根と赤木を比べて見ていたじゃないか。山根がクラスでどんな位置にいるか知っていて、その上でこれ見よがしにあいつにゼッケンを渡した。自分はクラスでも中心にいるような赤木や小坂と仲が良くて、いかにも学校の中心よろしく生徒会なんかをやりながら、人よりちょっと成績がいいことを免罪符に楽をしている。小坂や赤木のような派手さじゃなく、優等生の顔をして、誰にでも手を差し伸べてやれる。この立ち位置を、手抜きだとか八方美人だとかって悪ぶりながら、本当はとても居心地のいい場所だって知っていた。この八方美人は、俺だからできる。妃奈子にも尾形さんにもいい顔をする自分のことを、俺はどこかで格好いいと満足に思っていたのだ。山根に見透かされたと思うたびに焦り、“民主主義”という言葉にひやりとしたのは、自尊心が傷つくことを怖れていたからに他ならない。
これが、俺の思っていた“優等生”なのか。こんなものが――。
優等生の正体なんかこのざまだ。クラスの女の子ひとりを、くだらない遊びの犠牲からかばってやることもできない。すべては自分の慢心のせいだ。俺の傲慢は誰も傷つけないなんて、大嘘だ。
学校を離れ、商店街に近づき人通りが増えてきたところで自転車を降りた。商店街の地下駐輪場にとめるため、押して歩く。
すっかり息があがっていた。時間を確認することも忘れ、商店街を目指す。急ぐことなどないのに、気があせる。
中学から、現実から、遠ざかっていく。歪みのない世界へ、俺は行ける。現実にすり替わって俺を救ってくれる場所。思い浮かべろ、甘いミルクティーの味、青く光る水、時をさかのぼるロック。一時的なものにすぎないことはわかっている、今はじまった夜はすぐに終わり、明日にはまた学校に戻らなければならない。ちゃんと、わかっている。それでもいい、アリスに会いたい。
「アリス」
息だけで彼女を呼んだ。助けてとでも言ってしまいそうだった。
アリス、どうして俺は君のようになれないんだろう。君に追いつくことができないんだろう。俺は同じものを見ようとしているのに。
顔をあげると、求めていた立ち姿が見えた。アリスが、帽子屋の角に立っていた。
自転車置き場に立ち寄るのはやめて、足を前に出す。自転車の車輪がからからと音を立てる。急ぐとこの音が早回しされて滑稽に聞こえるのが、誰が聞いているわけでもないけどなんだか気恥ずかしい。
早く、アリスと話がしたかった。声を、かけたい。振り返ったアリスのよく通る声が、自分を呼ぶ前に。
その時、左手の方から、アリスと同じ制服の女の子が見えた。アリスの方を見て、そして手をあげた。
「――すみれ!」
どうやら、彼女の高校の友人であることは明らかだった。手を振り返した彼女に近づき、言葉を交わしている。
そして呼ばれたのは、手を振り返したのは、有沢すみれ。商店街に立ち寄った、ひとりの女子高校生だ。
自転車の車輪の音が止んでいた。自分の足が止まったのだと、順序がひっくり返って気がつく。
自分が頭の中に用意していた、“アリス”という音が、崩れるのを感じた。突然にそれが、不自然なものとして宙に浮いた。
自分がよくわかっているはずの、当たり前のことを思い出す。彼女の名前は、有沢すみれ。“アリス”、というあだ名で呼ばれていた。でも今は。
今では、もう誰も彼女を“アリス”とは呼ばない。本当の彼女は、有沢すみれ。多輝を非現実に連れ出す“アリス”だけが彼女ではない。彼女は非現実の象徴などではなく現実の一部だ。
非現実がかすんでいく。多輝の前には、ついこの間まで“アリス”だったひとりの高校生の女の子がいるだけだった。




