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アリス症候群  作者: 由佐
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4 公爵夫人の講釈 (前)

 他人に認められ、かつ自分に自信を持った優等生でいるための条件は、勉強以外にもいくらかある。自分もアリスもそれを知っているし、今までそれを自分の型にしてやってきた。たとえ形だけだと見抜かれても、いつ崩れるかわからないとしても、これまでやってきたことは事実なんだから本物だ。そしてこれからもうまくやり続けること、これに尽きる。

 勉強以外の、うまくやるべきこと。たとえば、体育でやるバスケットボール、とか。

「多輝!」

 前方から聞こえた小坂の声に、多輝は相手チームの生徒の伸ばした腕の下へボールをくぐらせてバウンドパスを決めた。

 大きなデジタルタイマーをちらりと見る。試合の時間はもう残り二十秒だ。それからタイマーの隣、審判係である赤木たちのチームがめくっている得点ボードを確認する。点数差は十分にひらいていた。もう今から手を抜いたって、相手にボールを取られたって勝敗は変わるまい。こっちの勝利は見えている。

 バウンドパスのとき、足は止めなかった。多輝と小坂の間に入ったそいつの他にも、自分をマークする生徒が、相手チームの白いゼッケンが見えていた。そして、ドリブルでボールを運べるほどに足がずば抜けて速いわけでも、バスケに慣れているわけでもない。この夏までバスケ部でエースを担っていた小坂にボールを渡すことが、多輝の役目だ。

 赤のゼッケン十一番、小坂は慣れた調子で軽やかにボールをつきながら、ゴールまでの距離を縮める。さすがバスケ部のエース。あの俊足と長身は、その肩書にとてもよく似合う。部長でも副部長でもない、試合で活躍するのが仕事のエース。

 多輝は小坂とは反対側のサイド、がら空きになった右半分のコートを走ってゴール下に近づく。ゴールを阻む相手チームの生徒からはちょっとずれた後方を目指す。小坂を見ているほとんどの生徒にとって死角で、でもゴールを狙える場所だ。小坂と対をなすように、ゴールを挟んで反対側のサイドに回り込む。

 きゅ、とキレのいい高い音とともに小坂のドリブルが止んだ。小坂は少々距離のある位置から、ボールを投げる。ゴールを狙うにしては勢いのある投げ方だ。すぐにわかる、これはシュートではなくて、多輝へのパスだ。

 ボールが放物線の頂点に来たところで、小坂がまた「多輝!」と呼ぶ。多輝の前にいた相手チームの生徒が下がろうとするが、そんな崩れた姿勢の生徒よりも、軌道の先に元々立っている多輝の方がキャッチするのは自然だった。「シュート!」という同じチームの生徒の声を聞きながら、多輝は軽く飛び上がって空中でボールを掴み、肘でワンクッションさせてそのままゴールネットめがけて押し出すように両手で放った。

「ナイッシュー!」

 チームメイトの声が響いた。

 小坂よりもずっとゴールに近い位置、角度も最適なゴール斜め下から、邪魔をする者もほとんどなし、多輝のシュートはボードを叩く音さえも控えめに、おとなしく決まった。ネットをくぐったボールがすとんと視界を左右に分けたとき、目線の先に、背中を丸めてぼんやりしている山根が一瞬見えた。

 チームメイトからの歓声に、試合終了のホイッスルが重なった。大きなデジタルタイマーが発する、ひどく音割れしたブザーのようなホイッスルだ。多輝たちが試合をしていた体育館のフロア後方のコートとともに、ステージ側のコートでも同時に試合が終わる。

「ナイスシュート」

「ナイスパス」

 小坂と言葉を交わしながらコートの中央に並んで一礼する。多輝は赤いゼッケンを首から引っこ抜きながら、小坂とともにコートを出て、真ん中の得点ボードに向かった。

「次試合のやつ入れよー」

 小坂は審判をしていた赤木にゼッケンを渡し、かわりにホイッスルを受け取る。同じように、多輝たちのチームの生徒から、次に試合をする赤木たちのチームの生徒へとゼッケンが手渡される。まだゼッケンをもらってないやつは、と軽く見まわして、隅の方で座っていた山根がとぼとぼと歩いて来るのを見つけた。あいつは赤木のチームだ。

「山根。ゼッケン」

「ああ」

 山根は軽く頷くように頭を傾けて多輝が差し出したゼッケンを受け取り、歩きながらもそもそと身につける。上下とも指定のジャージを着たままだ。ほとんどの生徒が半袖半ズボンで汗を流している中で、ぱっと見て黒い山根の小柄な姿は目立った。

「多輝おつかれぃ」

 長袖のジャージを脱いでコートに入ろうとする赤木から声をかけられる。

「おう、もうしんどい、死にそう」

 ふざけて大袈裟に言いながら、多輝は得点ボードに寄りかかった。やっと審判の順番が回ってきた。小坂と同じチームなのは非常にありがたいし、小坂と組んで試合をリードするのも楽しいのだが、体力的に小坂にはまずついていけない。十一月なのに半袖の体操服が汗でべたべただ。こめかみから流れた汗を肩口で拭った。

「つーかほんとに死にそうじゃん」

 ふざけて言ったつもりが本当に息が上がっているものだから、赤木のにやついた顔にからかわれる。

「うるせえよ、早く行け」

「こわ」

 ふざけあいながら得点を逆にめくってゼロに戻していると、コートの中のやつらが赤木を呼んだ。

「はやくしろー、赤木」

「はいよう!」

 赤木が入っていったコートでは、小坂がジャンプボールのために両チームの間に立っていた。赤木はその小坂にも「小坂、お前ちっとは手加減しろよ、バスケ部」と絡んでいた。

「俺ちょっとバスケ部顔負けのランニングシュート決めてくるわ」

「わかった、反則とってやるよ」

「おいこら審判!」

「いやいや、お前のランニングシュート、めっちゃ怪しいから。絶対トラベリングしてる」

 コートの真ん中でコントを繰り広げる二人と、それを笑ったり加勢したりしている連中を遠目に見ながら、多輝は得点ボードの隣に座り込んで本格的に休憩を決め込む。どうせ、同じチームのやつがボードの横に立っているわけだし、得点は任せる。この授業では、試合のないチームが得点ボードをめくることになっている。そんなのこうやって、得点ボードに寄りかかったり隣で座ったりしていればいい。さっき赤木がやっていたように、ここで試合を見て歓声を飛ばしていればいいのだ。

 ふと、ゴール近くで見た山根の姿を思い出す。あいつはチームに審判の順が回ってくるといつも得点ボードから離れた壁際に座って、これまで一度も得点ボードを触ったことがない。試合を見てもいなかっただろう。ロボットコンテストでの入賞と高専の推薦合格のイメージが強いせいかもしれないが、多輝には、山根があのとき多輝も含めここにいるみんなには理解の及ばない自らの世界に時間を割いていたように思えた。このつまらない現実からちょっと目を反らして息を抜くための、自分しか知らない場所が、あいつにもあるのかもしれない。

「赤木、ドリブルはえー」

 頭上から、クラスの友人たちの感心した声が降ってくる。多輝は「ほんとだ、すげえ」と手のひらを団扇に首筋をあおぎながら相槌を打った。

 赤木は多輝とほとんど変わらない背丈だから決して小坂のように長身ではないが、運動神経はすこぶるいい。運動部の花形、野球部に所属していた。体育でチーム競技をやれば、絶対にチームを引っ張る中心になる。整列のときにはチームリーダーとして当たり前のように先頭に並び、ゲームでは堂々とクラスメイトに指示を出す。それが許されているというよりは、それを求められていると言ってもいい。

 学校行事ではクラスメイトの普段は見えない顔が見える、とはよく言われることだが、それのスケールを小さくしたものが体育の授業だと多輝は思う。加えて、見えるのは生徒の見えざる顔じゃなくて、生徒間の見えざる糸と修正したいところだ。

 体育の授業で毎年なじみのバスケやサッカーなんかを見ていると、普段は見えないふりをしていること、そうやって深入りを避けるおかげで気にせずに済んでいることに、ふと気づいてしまう瞬間が来る。

 勉強以外でうまくやるべきことなんて、ほとんど誰しも平等に当てはまる事項が決まっている。中学校なんていうこの狭い社会の中で、どんな場面においても絶対に無視できないのは対人関係だ。

 多輝が通っている中学は、地方にある公立中学としては標準的かやや小規模なくらいのもので、同じ小学校出身の間柄で知らない生徒はいないし、三年生にもなれば同学年のほとんどの生徒と顔見知りになってしまう。どの学年、どのクラスになったって、個人の見られ方はきっと同じだろう。どの部活に入っているか、誰と仲がいいか、いくつもの重なり合うコミュニティーでどんな立ち位置にいるのか。面倒くさい馴れ合いや暗黙のルール、そういうものがまるでクモの糸みたいにうっとうしく絡みつく小社会で、自分たちは教科書をめくり、テストを受け、バスケをやる。個人個人に返却されるテストの成績表ひとつでは、誰に何を認めてもらうこともできないのだ。

 週に二回ある体育の授業では、それが避けようもない事実になる。コートをどれだけ走るか、どれだけ相手のパスを奪うか、シュートを決めるか。何より、味方からどれだけパスを回されるか、これに尽きる。バスケで戦力になるかどうかが基準のはずだが、おかしなことに戦力になるやつというのはバスケ以外でも地位を認められるものだ。コートの中でボールを触れる者は、審判のときに得点ボードに触れることができる。教室において大声で騒ぎ、学校行事のときにクラスを動かすことができる。地位と呼んでも権利と呼んでもなんだかしっくりこないこれを手に入れることにおいて、テストの点数はそれだけじゃなんの足しにもならない。

 足しになるのは、例えば今みたいな、赤木のでたらめにすごいランニングシュートの方だ。

「よっしゃあ!」

 赤木のシュートにチームは盛り上がる。

 小坂たちバスケ部ほどきれいじゃないけど、それを運動神経の良さでカバーした見よう見まねのランニングシュートだった。ドリブルにスピードがあっただけに、確かに格好良かった。

 審判の小坂も、トラベリングは取らない。試合前のやりとりなんてもちろんコントだからだ。得点を認めるホイッスルを鳴らした小坂は、まるでチームメイトのように楽しそうだった。

 はしゃいだ様子でチームメイトと手のひらを打つ赤木を見ると、嫌味じゃなくあいつの馬鹿さはいいなと思う。馬鹿さなんて言葉じゃ失礼だけど、この愛嬌を表現する言葉が他に見つからない。この馬鹿さには、いい意味での鈍感と無邪気と明るさが含まれている。いい友人だ、本当におもしろいやつ。

 相手チームのパスでゲームが再開する。赤木は真っ先にボールを奪いにまとわりついて走り、隙をついて相手のドリブルに腕を突っ込んでボールを弾くと、迷わず遠くの味方にロングパスをする。受け取ったのはゼッケン七番、そして五番と、パスがつながる。ほとんど運動部に属していた、クラスでも目立つ方の生徒たちがボールを運び、それに対して相手チームでも同様の生徒たちがブロックを仕掛ける。

 ボールの動きに合わせて、追いかけるようにひどく微妙な距離をあけて走る、全身紺色のジャージ姿が目に留まる。どこのチームにだって一人や二人はいる、半袖の白い体操服の中で浮いた紺色。赤ゼッケンでは山根だ。その小柄な猫背に、ジャージもゼッケンも全然似合ってない。

 首尾はどこのチームとの試合でも同じだ。コートの端から端までボールに合わせることはしない。ボールとそれを運ぶ人の流れに合わせて動くだけで、ゴール下の位置には絶対行かない。たまに大きく弾かれたボールが飛んできたって、赤木のようなチームメイトが走り込んできてかっさらうようにそれをキャッチしてしまう。相手からノーマークで、偶然に味方からのパスに適した位置にいても、味方から名前を呼ばれてパスが飛んでくることもない。相手にマークされていようがほとんど必ず誰かが機転の利いた動きで相手のディフェンスをかいくぐり、一瞬にして新たなパスのチャンスを作ってしまう。それによって動いたボールをまた、山根はボールとの間に他の誰かを挟むような位置関係を保って追いかける。

 スポーツへの親しみの薄さからくる根本的な体力不足とナンセンス、これがどうして、こんないびつな勢力図までも描いてしまうのか、多輝にはわからない。頭から山根なんかカウントしていないかのような調子で、ゲームは展開していく。赤木たちの悪意のあるなしに関わらず、山根にパスは回らない。山根が相手チームのパスをカットするなら話は別だけど、山根にその気も力もないことは、あいつと同じコートの中を走るやつらが多輝よりずっとよくわかっている。山根は浮いていた。あのボールや、多輝の横にある得点ボード、これらと山根の距離はそのまま、教室に持ち込める。

 教室での山根は、頭のいい変人。クラスや学校の行事では、体育の授業と似たようなもので、最低限の形だけ参加する。花形としてクラスを盛り上げていく小坂や赤木とはまるで違う。もちろん、生徒会や学級委員として世話を焼く多輝とも違う。授業中に堂々と眠る大胆さは、一見すると不真面目な連中に好感を与えるようでもあるが、そんなことはまったくない。理系科目にずば抜けた、何を考えているのか掴みにくい、付き合いづらい秀才。クラスで目立つ側の人間は男女関わらず、山根のことを“電波”扱いだ。

 その意味で、山根の立ち位置はどうにも無邪気な棘を持った冗談で成り立っているように見える。嫌われていない、いじめられてもいない。それは山根が大人だからだし、勉強ができるからだ。でもやっぱり“電波”ってキャラ付けされて浮いておくしかない。学年でひとり受かるかどうかの難関、国立高専の推薦入試に合格したことすらも、クラスメイトたちは“電波”のネタの一部として消化してしまった。お前はいいよな、授業中に寝てたってお得意の“電波”で高校行けちゃうんだから。そんな具合だ。山根を馬鹿にする奴らには目もくらむ成功に違いないのに、それが賞賛の皮を被ったからかいの材料にしかならなかったことを、多輝は知っている。

 なあ、山根。お前が俺を見透かしたというのなら、俺にだってそれができることを認めなくてはならない。お前が見透かしているのは、俺の高専の話だけではないはずだ。お前が言った「民主主義」の意味に、本当は心当たりがある。

 山根は、俺の八方美人を笑ったんじゃないのか。

 赤木や小坂の騒がしさと付き合う一方で、たいして接点もない山根と進路の話をする、この八方美人な振る舞いを、山根は見抜いていたのかもしれない。多輝が得意ななめきったやり方を、山根は軽蔑していたのかもしれない。

 山根、お前はすごい。それは確かだし、素直に認めることができる。俺に、お前みたいなずば抜けた素質はない。

 でも、俺はそのことが羨ましくないし、むしろお前の立場なんかごめんだ。“電波”なんかごめんだ。俺には、山根には絶対に手に入れられない居場所がある。きっと俺は山根みたいに、なにかに沈み込むように没頭することはできないだろう。他の連中が認識できないような世界にある居場所だけではやっていけない。お前を笑っているやつらの承認なしでは、居心地のいい場所なんか見つからないのだ。

 山根はそれをもわかって笑っているのかもしれない。クラスの人付き合いに無頓着なのは、その歪さがわかっていて、馬鹿馬鹿しくて可笑しくてしかたないからじゃないのか。

 俺が楽をできるのは、八方美人にやれるのは、クラスの人間関係の八方が見えているからだ。俺は自分も含めたこの馴れ合いを馬鹿にはできないよ。山根がつまらないと思っている関わり合いを楽しんでいるし、大事にしているから。山根が俺と同じものを見抜いているとしたら、きっと山根はそれを馬鹿にしている。

 だけどバスケなんか来月には終わるし、こんなのあと半年足らずで全部終わりだ。だから、お前の手抜きと達観は見逃してやるし、黙っていてやるよ。俺は、小坂とパス回しをし、得点ボードに寄りかかりながらも、黙ってお前にゼッケンを手渡せる、民主主義者でいたいんだ。

 試合終了のホイッスルが鳴った。ステージ横の壁にかかった時計を見るに、今日の授業はこの試合で終わりだ。得点ボードを倉庫へと引きずる途中、ゼッケンを脱いだ山根が神経質そうにジャージの襟を整えるのが見えた。



 体育のあとで教室に戻ると、決まって女子の制汗スプレーの甘い匂いがする。ニクラス合同の体育のため、隣の教室が男子の更衣室、多輝たちの普段の教室が女子の更衣室に使われるからだ。

 多輝はこの匂いがどうしても慣れない。毎回、思い出したように意識を向けてしまう。香水かと思うくらいのきつい匂いも、お菓子やフルーツみたいな甘ったるい匂いも、こういうのをいちいち選んで使ってるんだなとか考えたらかわいいような気もするけれど、そのわざわざ選んだもの同士が何種類も混ざり合った匂いはなんだか生々しく思えてならなかった。

 多輝は最後列にある自分の席に戻り、一列はさんだ隣の窓を開けにかかる。

「あ、多輝ぃ、ちょっと」

 窓枠に手をかけたところで、教室の前の方から呼び止められた。窓を開けるのをとがめられたわけでないことは声色でわかった。松村妃奈子が、多輝に「ちょっと来て」の手振りをして呼び寄せる。

 妃奈子が声をかけてきたのは教室の前方から、しかも多輝が譲った前から二列目の席からだった。机を挟んで、妃奈子と立ち話をしているのは尾形麻里だ。なんか珍しい組み合わせ、と思いながら詰襟をイスの背にかけてから出向く。

「なに、松村」

「あのね、文集委員、締め切りいつだっけ。男子の方は決まった?」

「うん、希望者いなかったし、俺がやるよ。締め切り明日だけど、こんなの粘って決めるもんでもないじゃん?」

 体育の後で、男子はいつも女子の着替えが終わるのを教室の前で待たされる。デリカシーのない赤木は女子の着替えは遅いと文句を言うが、さっき廊下で待っている間に多輝は文集委員を募って適当に声をかけておいたのだ。予想はついていたけど、結局誰もやりたいなんてやつはいなかったし、仕事も楽と聞いていたので、もう自分の名前を書くことにした。

 どうしてもって言ったらやってくれそうなやつは何人かいたが、どうしてもって言われたらやってもいいという構えなのは多輝自身も同じだった。それに男女一名ずつ選べとのことなので、もしまるで接点のない組み合わせになったら気の毒だなとも思う。気を遣いすぎかもしれないけど、何人かやってくれそうな人の中からこっちがいい加減に選んで「お前やってくれないか」と名指しで頼み込むのも気が引ける。男女とも定員は一人だし、何人かで下手に譲り合ったり逃げ合ったりされても面倒だった。

「女子の方なんだけど、尾形さんがやってもいいかなって。ね」

 ね、と妃奈子は多輝から尾形麻里に視線を移す。つられて、二人の間に立つ多輝も尾形麻里を見た。

「そうなんだ。尾形さんやってくれるんだって?」

 尾形さんは、首ごとぱっと多輝の方を振り向きうなずいた。

「あ、うん」

「ありがとう。希望者がいると助かる。俺も委員だし、気楽にやってくれればいいから」

 彼女がやってもいいよと好意的な返事をしてくれてよかった。多輝は自分の口調が軽くなるのを自覚した。

 妃奈子に対してもありがたいと思う。選り好みや押し付けだけじゃなく、ちゃんとやりたい人間に行きあたって決めてくれた。妃奈子みたいな派手な部類の女子というのは、つくづく学級委員に向いている。マジメに事務的な仕事ができる子より、クラスの誰にでも声をかけられる子のほうが有利なのだ。人の中心にいるのが好きなだけに、クラスをまとめるのも重荷じゃないみたいだ。むしろ率先してやってくれる。

「なあんか、結局多輝がやっちゃうのね。なんかね、他のクラスは受験終わっちゃってる人が担任に頼まれてるんだって」

「ああ、そうなんだ?」

 何を言い出すんだよ、松村。

 先が読めてしまって、多輝は尾形麻里の肩越しに、後ろから二番目の席で眠っている山根を一瞥せずにはいられなかった。あいつは例によって机に突っ伏した睡眠態勢だ。

 そして妃奈子に視線を戻すついでに尾形さんの顔色を窺う。

「多輝、山根に頼まないの?」

 思った通りの言葉が続いた。

 山根はこのクラスで唯一、今の段階ですでに高校を確定している生徒だ。日程的に言えば高専の後に私立のスポーツ推薦なんかがあったけど、うちのクラスからそれを志願した生徒はいなかった。山根以外の推薦入試組はまだもう少し先だ。おそらく妃奈子が言ったのは、そのあたりの入試を受けた生徒が他のクラスでは文集委員を任されているという意味だろう。

 だからといってうちのクラスがそれに倣ういわれはないし、そもそも委員決めは暇なクラスメイトに押し付ければいいというものでもない。やりたい生徒がやればいいし、やりたい生徒がいないなら、せいぜいやってもいいって生徒がやるのが筋ではないか。

 こうは思いながらも、この筋を妃奈子に説く気にはなれなかった。

 それに、その必要もないだろう。もう多輝は文集委員を自分がやることを決めていたし、尾形さんだって推薦入試組などではないのにやってくれると言っている。山根のような理由から文集委員に勧誘される生徒はこのクラスにはいないからだ。

「あいつはこういうの、やるタイプじゃないだろ」

 これだけ言えば十分に正解だ。妃奈子には、これが一番通じる。

「俺もわざわざ頼まないし、頼んだって断られると思うよ」

「言えてる。いくら受験終わってても、確かに山根はない」

 まわりは騒がしいし、山根は寝ているし、おそらく気まずいことは何もないのだろうけれど、多輝は居心地の悪さを拭いきれなかった。この件で山根の立場を妃奈子からかばおうという気は毛頭なかったし、妃奈子の言ったことを何か軽蔑めいたものをもって解釈するつもりもなかった。ただ、品のない公立中学なんてこんなものだ、自分がいちいち気を遣って読み解いている対人関係や立ち位置なんてこんなものだ、と思って嫌気がさした。そしてこの話を黙って聞いている尾形さんを前に、どうしてよりによって妃奈子の雑談はこうなんだとこめかみがわずかに緊張する。

「じゃあそういうことで。俺、紙書いて出しとくから。どうもね、尾形さん」

 きびすを返した多輝の背後で妃奈子と尾形麻里が何か言葉を交わす気配を感じたが、特に気にも留めず教室の後方に戻った。

 自分の席のあたりは、だいぶん制汗スプレーの匂いは薄まっていた。イスにかけていた詰襟をはおり、窓を閉めた。

 ファイルに挟んでいた紙を取り出して、自分と尾形さんの名前を書きながら、こんなものだなと内心で確かめるようにうなずく。やらなきゃいけないことがまたひとつ片付く。体育で息抜きをし、学級委員の仕事は一日早く終え、授業はマジメに受ける。たまに感じる苛立ちや呆れも、かわいい愛嬌だと思えばすぐに消える。何もかも普段通り、背伸びをすることも身を縮めることも、必要ない。

 アリスの後ろを歩くっていうのは、たぶんこういうことだ。ひとつひとつ、自分らしくこなしていくことだ。気づきたくないことも、つまらないこともある。だけどうんざりしたときには、逃げ出していいんだということを思い出してみる。逃げ出す場所を、昨日、見つけた。静かな夜の公園を、青く光る人工泉を、思い出してみるのだ。ここにいる誰もが知らない場所があるのだということが、ひどく心強かった。逃げ場所をもつ安堵感と、秘密を隠す背徳やスリルにも似た優越感が、心を温めて大きく軽くする。

 授業開始のチャイムと同時に、隣の窓際の席に妃奈子が戻ってくる。多輝はうつむき加減に頬杖をつくことで、ともすればゆがめそうになる口元を手のひらで覆い、顔の半分以上を左隣の妃奈子から隠す。

 隣の席なんだから、今「文集委員、尾形さんになったから」と事後的に伝えてくれたらそれで済んだのに、なんて意地の悪いことを思う。尾形さんの目の前で、尾形さんを置き去りに山根の話なんかして、何の意味があったのか。俺が感じた居心地の悪さが、どうしてわかんないの、松村。

 思うけど、何も言わない。妃奈子が髪の毛にクシをいれる音を聞きながら、多輝は意味もなく右手のシャーペンをくるりと一回転させた。

 多輝が思うに妃奈子は、あの場じゃなくても構わず多輝に同じ話をできてしまうような子なのだ。例えば、目の前に山根が座るこの席でだって、山根が本気で眠っていると決め込んで、多輝に「山根は委員とかタイプじゃない」という突き放したセリフを言わせてしまう。堂々と自然であるがために指摘することがためらわれる、無邪気な振る舞いをやってのける。妃奈子が笑って言っていることは、クラスに抵抗なく広がる。たぶん彼女には、多輝の冷めた正論なんか意味がない。説明したら堂々巡りになってしまう。山根をからかうことも、それは単なるクラスの内輪ネタにすぎず、妃奈子ひとりがやっていることでもない。クラスにおいて、一線引いた優秀さで目立つ山根の宿命でもある。

 だったら、妃奈子のことも目くじら立てずにかばってやろうじゃないか。松村妃奈子はこれでいいんだ。クラスの真ん中で誰とでも笑って関われる、華やかでかわいい、学級委員仲間の女の子のままで。

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