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アリス症候群  作者: 由佐
2/12

2 人生はハンプティ・ダンプティ

 吐く息が白い。ふわりと舞い上がって消える自分の吐息を追いかけて首をそらすと、夜闇には満月が浮かんでいた。今日狼男の仮装をした人間はセンスがあるのかもしれない。

 秋と冬の間にふさわしい乾いた風が、制服の襟元からするりと入り込んでくる。秋風のようなやわらかさはないが、かといって冬の北風のように肌を刺すほどの鋭さもない。この冷やかさは、さらさらと整ったシーツに似ている。暖房で不自然に温められていた身体から、いらない体温を吸い取ってくれるのが心地よかった。

 多輝は鞄を肩にかけ直し、再び走り出したアリスを見つける。距離はあるものの、同じ歩行者道にのってしまえば見失いそうにはなかった。人ごみが邪魔をしてあまり距離は縮まらないけど、追いつける範疇だ。

 走り出してすぐ、一旦止まる。多輝は邪魔なメガネをはずしてケースにしまった。もともと勉強用に作ったメガネだ、普通に過ごす分には視力は足りる。浮いていた地面が静かに元の位置に沈んだ。

「にしても、なんであんな走ってんだよ」

 アリスは人の流れに乗りつつ、うまく隙間を縫って歩行者を追い抜いて行く。よく見れば、彼女の右手には何やら白い布のようなものが握られているように見える。

 どこか横道や裏道に入ってくれないかとも思ったが、アリスは商店街に向かうこの通りからはずれそうになかった。このままでは商店街の中央広場、ハロウィンのイベント会場の方に出てしまう。そんなところに急ぎの用事があるのかよ、アリス。

 訝りながら追いかけたが、アリスはそのまま商店街の中に入ってしまった。アーケードの下に入り、電灯でますます明るい通りを駆け抜ける。

 商店街には、アーケードが他の通路より高く改装された箇所がある。商店街の中でも中心にある、東西と南北に延びるふたつの通りが合流する地点だ。ほとんどが二階建ての建物で構成される商店街にあって、その交差点だけは各角に地上四階の真新しいビルが構える。その中心は広場になっており、今日みたいなイベントの際には会場として利用される。

 車の騒音のかわりに、うるさいぐらいのバックミュージックが耳を麻痺させる。雑踏の切れ目のない雑音と混じって、だんだん自分の足音までもが溶け込んでいく。

 ふと、アリスは広場を通り過ぎようかと言うところで唐突に足を止めた。まるで何かを見失ったかのように、忙しなくあたりを見回している。

 アリスまでの距離が縮まる。声をかけようかと迷い、頼りない声が彼女を呼びかけて、止まる。

 アリスの声が、ほとんど喧騒に掻き消えるくらいかすかに聞こえた。

「すみません」

 広場の人だかりから少し離れたところに、もう少し小規模な集まりがある。アリスはその集団の中の誰かに声をかけたらしい。

 屋台のようなささやかなハロウィン調のセットを前に、大袈裟なシルクハットをかぶった若い男が、軽快にシルバーの輪っかを操っている。ストリートマジシャンだろうか、子供たちは歓声を上げており、通りすがりの学生や社会人までもが時たま足を止める。

 多輝がようやく広場から流れてくる人の流れから抜け出したとき、アリスがひとりの男性と話しているのが見えた。その男は片腕に花束を抱えた、サラリーマンらしい初老の男で、アリスは何か手渡しているようだ。

「ああ、ありがとうございます。ご親切に」

 男がほっとしたような笑みを浮かべてアリスに礼を言い、アリスはそれに答える。

「いえ、お気になさらないでください」

 二人の間で交わされた会話で多輝が確信を持って聞き取れたのはこの程度だ。

 手渡したものを、男は慣れた手つきで背広の内ポケットにしまう。あれは先ほどアリスが走ったときも手に持っていた白い布。ハンカチにしては不自然な形を見るに、どうやら手袋だ。

 なんとなく読めた、と多輝は思った。

 どうやらアリスはあの花束を抱えた老紳士の落とし物を届けようとしていたらしい。おおかた信号で引き離されでもしたのだろう、開いてしまった距離を埋めて追いつかなければならないため、アリスはあんなに走っていたのだ。そして男は、ぱっと目につく演出のマジックに一瞬足を止めた。もしくは人だかりで足止めされただけかもしれない。だけどこのおかげでアリスは男を見つけ、追いつき、届けることに成功したのだ。

 彼はもう一度アリスに頭を下げて、広場からは遠ざかる方向へと商店街の通りを歩いて去っていった。多輝はその背中を見ながら、アリスらしい、と思わず口元をゆるませる。

 多輝が思い浮かべるのは、電灯でできた影が幾重にも重なりあって視界の悪い、雑踏に飲み込まれそうな夜の大通りだ。そこで、そばを歩くひとりの人間が、何か身につけているものを落としてしまう。どれくらいの人間がこの些事に気づくものなのかはわからない。でもその気づく側の人間に、アリスは絶対に含まれる。多輝の思う有沢すみれという先輩は、そういう種類の人間だった。なんだか大ざっぱで、ちょっと抜けた天然。そのくせまわりのことはよく見ているしっかり者で、いつも他人に関わっていないと気が済まない。よく気がつくから、いろんなことに首を突っ込まずにはいられない。全力で他人と関わらずにはいられないのだ。

 本当にこういうところは真似できない、という純粋な尊敬を改めて感じる。それと同時に、アリスはこういう人だってことを俺は今より前から知っていたんだぜ、と意味もなく得意な気持ちにもなった。

 同じように男の背中を見送るアリスの背後では、ストリートマジシャンのシルクハットの飾りと、彼の手から跳ね上がる銀輪がきらきらと光っている。通り過ぎる人影がその光を遮ろうとも、多輝は眩しいものを見る目つきでその光景を眺めていた。



 声をかけよう、と多輝は思った。

 久々に見るアリスは、制服は違ってもやっぱりアリスだった。当たり前だけど、自分は今この商店街を何食わぬ顔で通り過ぎる誰よりも、アリスと親しい人間なのだと感じた。どこか懐かしく、誇らしい気持ちになる。

 多輝はつま先の向きを変えて、アリスの方へと踏み出した。

「あ、ちょっと、そこのお兄さん!」

 アリスを挟んで道の向こう側にいたマジシャンが、どうやら客を引き込もうとしている。マジックが一段落だったのだろうか、人だかりはまばらになり、足を止める人の数も減っている。夜の七時をだいぶ過ぎて、子どもの数が激減したみたいだ。

 すると、アリスは腕時計で時間を確認するような仕草をして歩きはじめた。マジシャンまでの間には隔たりがなく、一瞬だけマジシャンと目が合った。さっきは派手なシルクハットしか見えていなかったけど、こいつ帽子以外も凝ってるな、と眼帯みたいな片眼鏡を見て思う。しかしそれだけで、立ち去りかけたアリスに向かって、多輝はとっさに声をかけようとした。

「アリ……」

「お兄さんてば! 君だよ」

 アリスが振り返る前に、マジシャンの声にかき消されてしまう。

 なんなんだよ、うっとうしいな、と思ったら、視界の端でマジシャンがこちらにステッキの先端を向けていることに気が付いた。

「な……」

 マジシャンの方に視線を投げた瞬間、彼はにやりと笑って手首をひねった。ステッキが勢いよくぐるんと回って先端が上空を指す。とたん、しゅっと何かが飛び出す音がして、続いて小さな破裂音がした。

「レディース・アンド・ジェントルメン!」

 薄いオレンジ色が混じった煙が広がり、同時にきらきらと光沢を放つ紙吹雪が舞い降りた。やけに発音のいい呼びかけも、まるで魔術師が現れたようなよくできた演出だ。わかっているのに、マジシャンの奇異な風采もあいまって、異様な雰囲気につい注意を向けてしまう。

「え、多輝?」

 まばらな喧騒の中、驚いたようなアリスの声がした。突然の演出に呆然としていた多輝の耳に、他の声とは比べ物にならないほどはっきりと響いた。彼女もまた、今の演出に足を止めていたのだ。

「あ、アリス」

 あまりに自分の声がぼんやりしていて、あれ、こんなはずじゃなかったと思った。どうやらアリスに声をかけようと踏み出した一歩目で、すでに予定は狂っていたらしい。

 マジシャンは多輝が自分のマジック台の方に近づこうとしていると勘違いしたのだろうか。道の向かいに突っ立っていた多輝はよほど暇そうな恰好の客に見えたことだろう。そろそろ人もまばらになりはじめるし、通り過ぎる中でも家路を急ぐ人が多い。今の演出に振り向いた人間はそれなりにいたが、足を向けてマジシャンに近寄ったのはほんの数名だった。

「やあ、暇を持て余したお兄さん。驚かせてすまないね」

「はあ……俺ですか?」

「ええ、あ、そちらのお嬢さんもお急ぎでなかったらどうぞこちらへ。よかったらマジックのお手伝いをしてくれませんか」

 シルクハットのつばに手をかけて、マジシャンは微笑む。不気味な片眼鏡さえなければイギリスの古風な紳士のようだ。くたびれた革のコートに、首元で三角に折れたシャツの襟、ボタンの多いベスト。首からは本物かどうかわからないが、金の懐中時計がぶら下がっている。

「多輝、知り合いなの?」

 なんなんだよこの人、と困りかけていたところで、アリスが多輝に近寄ってきた。

「いや、違う。あれはたぶんただの客引きだ」

「あら、おもしろそうじゃない? 多輝、時間あるの」

「あるけど。ちょっと付き合って見てく?」

「うん。だって、たぶんこれ今日だけよ。ハロウィンだから」

 たった今久しぶりに会ったところなのに、示し合せるようにぼそぼそと話し合って、マジシャンのそばに近寄る。なんだかおかしな展開になったじゃないかと心の中で苦笑する。それでも、まるで今日も学校で会ったような調子で言葉を交わしたことが少し嬉しかった。

「僕のこれ、いかれ帽子屋(マッド・ハッター)の仮装のつもりなんですけど、ほら、ちゃんと時計も六時で止まってる。芸が細かいでしょ? 細かすぎて誰も気づいてないから僕が自分で言うんですけどね。さあ、いかれ帽子屋ですから、まずは今日というなんでもない日を祝うとしましょうか」

 マジシャンは首からさげた懐中時計から手を離すと、その派手なシルクハットをとった。つばをもってリズミカルに上下に回転させると、中から小さな花束が現れた。いかれ帽子屋なんて言いながら、手際のいいマジシャンだ。

「これは心優しい親切なお嬢さんに。よろしければお名前を」

「ありがとう。アリスよ。ニックネームですけど」

「なんと、素晴らしいですね。ようこそアリス、気違いティーパーティーへ。この花束は心優しいアリス嬢に。どうぞお受け取りください。“誕生日じゃない日”のプレゼントです」

 このマジシャンは、ひょっとしたらさっきアリスが老紳士に手袋を渡したのを見ていたのかもしれない。

 アリスは嬉しそうに花束を受け取ってから、多輝にだけ聞こえる声でささやいた。

「そういえば、久しぶり、多輝。って、ちょっと今さら?」

「そうだな。今さらだけど、こちらこそ久しぶり」

 前を向いたまま、少し首を傾けてアリスを見る。すぐ近くで、まっすぐの横髪が制服のブレザーからさらさらと滑り落ちる。

 他愛ないことを話している。話していてそれがわかる、それぐらい気を抜いて話をできることが心地よくてたまらなかった。必ずしも仕事ばかりではなかった、あの生徒会室で過ごした時間に似ているような気がしたからかもしれない。

 ちくしょう、こればっかりはメガネに感謝してやる。塾の建物の中から交差点の向かい、メガネなしであの距離では、きっとアリスを見逃していただろうから。

「さあ、よく見ていてください。この銀の鎖、輪っかが壊れない限りはずれることはありません」

 もちろんマジックだから、この鎖状につながった二つの輪が、いかれ帽子屋の手でいとも簡単にはずれてしまうわけだ。実際に目の前でつながったりはずれたりする銀輪は、本当にただの輪っかにしか見えないのだからすごい。

 あれこれ道具を替え、彼が手を翻すたび、普通にはありえないことが起こる。

「なんで? こんな近くで見てるのに全然わかんない」

「不思議の国のお嬢さん、ここでは常識なんて役に立ちません。常識ある方々にはわからないものなんですよ」

 アリスは、帽子屋のネタに乗っかることですっかり打ち解けてしまったようだ。こういう人懐っこいところも相変わらずだ。

「常識あるみなさんに僕のことはわからないかもしれないが、僕にはみなさんのことがわかります。次はそれを証明しましょう。――という設定の、簡単な透視マジックを最後に。ではお兄さん、この紙に君の誕生日を書いてください」

 いかれ帽子屋はコートの内ポケットからトランプほどの大きさの厚紙と万年筆を取り出した。

「ごめんなさいね、羊皮紙のがそれっぽいんだけど。ご近所の文具屋さんには売ってなかったのでご勘弁を」

 こんな、“いかれ”ているのとはまた違う軽妙な冗談が、観客の笑いを誘う。

 このカードに記される日付を透視した帽子屋も驚くだろうと想像すると、多輝は自然と口元が緩みかけたが、それを抑えて数字を書いた。それを封筒に入れて帽子屋に手渡す。中身が透けないことを他の観客が確認した後は、帽子屋の透視がはじまる。

 なんだか自分とアリスはこのマジシャンに対してあまりに出来すぎているんじゃないかと多輝は思った。本当にただの偶然なのだが、こんな得にもならないくせに愉快な偶然があるだろうか。常識的に考えてまずありえない。まるでワンダーランドだ。こんなことがあると、確率なんてものが馬鹿馬鹿しく思えてくる。どんなに確率が低いことも、起こってしまったら一緒だ。起こった確率が低い、なんて説得力がない。だって、実際に起こってるじゃないか。

「いやあ、お兄さん、僕はいかれているから“誕生日じゃない日”を祝ってあげようと思っていたのに、今日が誕生日だったなんて!」

 透視マジックを成功させた帽子屋はにやりと笑って、大袈裟に声を大きくした。まさか、と少ない観客たちは各々声を上げたが、アリスはこらえきれなくなったかのように吹き出した。

「多輝の誕生日を聞くなんて、話がうますぎるでしょう」

 多輝は思わずアリスの横顔に目を向けた。覚えていたのか、俺の誕生日。

 ハロウィン生まれなんてネタにしかならない。アリスがそう茶化して笑ったのは出会って間もないころだったと思い出して、口の端から笑みがこぼれる。ごまかすように下唇に前歯を立てる。

「なんだ、アリスお嬢さんもわかっていたのか。これはやられました、お兄さんはハロウィン生まれ。透視は成功ってことでいいですね?」

 帽子屋は指を立てて注目を集めると、カードを取り出した。もちろん、そこには多輝が書いた数字が並んでいる。誕生日であると同時に、今日の日付、一〇月三一日。他の三六四日とは違う、三六五分の一のまともな誕生日。

「おめでとう、今日は特別な日だ! 君のために、改めて最後のマジックを」

 そう言って帽子屋が差し出した手をひらく。手のひらにはキャンディがひとつ乗せられていた。また軽く拳を握り、手首をひねる。もう一方の手も同じようにひねって両手をそれぞれひらくと、両方の手にキャンディがひとつずつ現れた。するとまた手のひらを閉じ、今度はリズミカルに両手の指を鳴らす。そうして右手の指に弾かれてキャンディがひとつ高く宙を舞い、多輝もアリスもそれに視線を引き付けられた。誰もが上方に気を取られたその瞬間、帽子屋の声が空を裂いた。

「ハッピーバースデイ!」

 声にかぶさって、クラッカーのような甲高い破裂音が響いた。客引きの時と同じような薄煙と紙吹雪があたりを包み、その衝撃は驚きと興奮の歓声を生む。

 ひらひらと紙吹雪が舞い降り、霧のような煙がすっと消えたとき、帽子屋と観客の間にあったテーブルにはキャンディがたくさん散らばっていて、中央に置かれたシルクハットには一本のバラが挿してあった。

 煙の向こうでいつの間にか片眼鏡をはずしていた帽子屋は、本気でマジックに引き込まれてしまっていた観客を満足そうに見渡し、最後の芝居を打った。

「僕のマジックにお付き合い下さってありがとう。楽しい時間はあっという間に過ぎる。六時で止まっていた僕の時間も動き出しました。客にお茶を出さないこの狂ったお茶会も終えなければならないようです」

 バラをテーブルにそっと置き、帽子屋は手に取ったシルクハットを胸に添えて古めかしいお辞儀をした。

 拍手を受ける帽子屋の姿は、まるでワンダーランドに別れを告げているみたいに多輝には思えた。シルクハットと片眼鏡をはずしたその男は本当にただの手品師でしかなく、どこもいかれていない平凡で善良な大人にしか見えなかったから。



 多輝はマジシャンの前から立ち去る前に、お菓子の詰まったカボチャ型の小瓶を受け取った。その時盗み見たマジシャンの胸元の懐中時計は本当に動いていて、六時じゃなかった。本当に芸が細かいんだな、とちょっと感心してしまった。

 小瓶を渡すときにマジシャンが多輝に言った。

「僕、本当はここの帽子屋の店員なんです。なかなかいいセールスだったでしょう?」

 どうして気づかなかったのだろう、アリスに気を取られていたからか。確かにマジシャンのセットの隣は、商店街でもずっと前からある老舗の製帽店だった。帽子屋の仮装は何も無作為ではなかったのだ。おまけに、受け取った小瓶には店の名前を書いた洒落たシールが貼られている。派手だなあとしか思わなかったあのシルクハットも、よく考えれば雑貨屋のお遊び商品のような質感ではなかった気がする。

「“アリス”か。懐かしいなあ」

 アリスはもらった花束を見つめながら、独り言のようにつぶやいた。

 二人は商店街を抜けて、大通りを歩きはじめる。アリスの履くローファーがアスファルトを蹴る音が、多輝には新鮮に感じられた。中学ではみんながスニーカーを履いているから、誰もこんな足音はさせないのだ。

 まだ経験したことはないけど、酔いがさめるというのはこういう感じだろうかとふと思う。明確な目的もなく歩く夜道はメガネをかけずともふわふわしていて、少し冷たい夜風が心地よかった。楽しい夢から覚めて、いい気分で迎える朝に似ている。ちょっと物足りないような寂しさと、すっきりとしたまっさらな目覚め。もうすぐ今日が終わる。それなのに、こうしていつもより遅い歩調でアリスと並んで歩いていることだけが現実みたいに感じられる。

「そっか、多輝の代ももう引退しちゃったのね」

 アリスは多輝の方を向いて、厳密には生徒会バッジのなくなった学ランの襟元を指さした。彼女自身が生徒会をやっていたから、自然と気がついたのだろう。

「ああ、うん。先月が交代式だったよ」

 アリスの何気ないつぶやきは、きちんと生徒会の話につながっている。“アリス”というニックネームは、中学で団体を問わず親しまれた有沢すみれのニックネームだが、この呼び名が生まれた元を辿れば生徒会に行きつく。

 学年を超えてほとんど友だち同士みたいに仲がいいことが、あの生徒会の何よりの特徴だ。だからこそ、こうして多輝がアリスと話をするのに敬語はいらない。敬語の代わりに要するのは、呼び捨てに適した下の名前、あるいはニックネームだ。多輝が生徒会に入ったとき、二年目だった彼女はすでに“アリス”だった。多輝はそれ以外の名前で彼女を呼ばない。

「部活も生徒会も終わって、多輝も本格的に受験生なわけね。勉強ばっかりになるから、今みたいに息抜きしなきゃだめよ。多輝は何をやってもマジメないい子ちゃんすぎるところがあるから」

「そうでもない。俺、塾サボったんだ」

 何も疑っていないアリスを見たら、なぜか心の隅がざわついて、思わず口が滑った。冗談めかして、なんでもない口調で、するりと言ってしまった。

 アリスの反応は思いのほか淡白で、特に咎めたり非難したりといった声色でもなかった。

「いつ」

「今」

「どうして、退屈だから?」

「そうかもな。俺がやると意外?」

「まあね。でもまあ、悪くないんじゃない」

 アリスは顔をあげて息を吐きだした。

「たとえば今日とか、取り返しつかないでしょ。ハロウィンでも誕生日でも。こんなカボチャで騒いだり仮装して誕生日祝ってくれたり、そんなのって取り戻せない。今晩を逃したら、二度となかった。だからこうやって楽しまなきゃだめだったって、あたしは思う。だから、多輝は正解」

 人生は取り返しがつかない、だから楽しめ。そういうことなのか、アリス。

 彼女らしい理屈だ。彼女がいなければ、自分は今ごろどうしているのだろうとふと思う。塾を飛び出したのも、マジックに付き合ったのも、アリスが偶然に引き金を引いたからこそだ。

「だけど、俺は今日じゃなくても退屈するよ。塾に行きたくないとか、勉強したくないとか、今日以外のそういう日はどうやって理屈つけたらいい」

 わかっている。今日みたいな偶然は、続かない。

 ワンダーランドに行ける時間は、ひどく短い。嘘みたいな非常識の世界へ自由に行くには、もう年が合わない。空想は苦手だし、現実が大切すぎて逃げ出すこともできない。

 いかれ帽子屋は、ただの帽子屋に戻る。アリスだって、普通の高校生に戻らなくちゃならない。だったら俺は、メガネで歪みはじめた日常に、退屈で気の重い受験勉強に戻るしかない。

「多輝、次の塾は何曜日?」

「火曜だけど」

「塾が退屈なら来ればいい。この帽子屋の裏、七時」

 アリスは、帽子屋がくれた小瓶を掲げて微笑む。

「じゃあね」

 気づけばすでにアリスと通学路を分かつ交差点まで来ていた。アリスは返事も待たずに点滅を始める信号に足を踏み出し、肩越しに振り返って小さく手を振ってくる。

「ちょ、アリス! 送ってかなくて平気?」

「ありがと、平気。また今度」



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