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アリス症候群  作者: 由佐
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7 ゴールデン・アフタヌーン

 夏の太陽が、地面を焼く音がしそうなほどのまぶしさと熱気を降らせてくる。校舎の陰から外に出ると、強烈な光と熱を遮ってくれるものは何もなく、多輝は思わず詮無い文句を垂れた。

「あっついなあ、もう」

 まったくどうして学校はせめて日陰に自販機を置いてくれなかったのかと不毛なことを考えつつ、グレーのスラックスのポケットから財布を抜き、硬貨を探る。

「ったく、どこが夏休み? 休みねえし」

 隣の自販機から出てきたペットボトルのふたを開けながら、クラスメイトの舟田(ふなた)がぼやいた。県立第一高校の生徒、定番の愚痴だ。

「いやほんと、夏休みじゃなくて、ただの夏だよなあ」

 多輝も定番に従った合いの手を入れて、自販機からペットボトルを取り出す。落ちてきたワイシャツの袖をまくり直してから、よく冷えたレモンティーを喉に流し込んだ。

 高校に入って最初の夏休みがはじまって一週間、午前中は毎日課外授業だ。国数英の三教科、普段どおりに予習をして、普段どおりの時間に学校に来なければならない。この予習で手一杯なものだから、山ほどある夏休みの宿題の方はほとんど手つかずのままになっている。だからもはやこれは夏休みの宿題じゃなくて、ただの夏の宿題、と言いたい。

 夏期課外が終わった後も、今日みたいに部活のない日は午後から文化祭の準備のためクラスに残る。夏休み明け最初の週末が文化祭だ。この進学校の年間スケジュールはあからさまで、年度の前半に大きな行事をなんとかして詰め込もうとしているのが丸わかり。文化祭で多輝のクラスは巨大モザイク壁画を出展することになっているので、教室に戻ればまた小さな紙を糊で貼りつける地道な作業が待っている。

 腕時計は午後二時をさしていた。これからもっとも暑いという時間帯だ。舟田の後に続いて外階段を上る足も自然と重たくなる。二階の踊り場で日陰に入ったとき、後ろから風が吹き抜けた。

 つられてふと今いる階段につながる屋外通路を振り返ると、思いがけず、よく知る後姿に視線を掴まれた。暑さのせいで、眠気にも似たくもりが降りてぼけていた頭の中が、みるみるうちに晴れていく。

 頭の高い位置でポニーテールにした長い黒髪が、白いワイシャツの華奢な背中で揺れているのが見える。髪をひとつに束ねた彼女に、あまり懐かしいという気持ちにはならない。去年の冬のはじめ、彼女は髪を下ろしていたけれど、あれは高校に入ったから、変わったからという理由で髪をくくるのをやめていたわけではないのだ。あの時はずいぶん変わったなと思ったけど、そうじゃない。現実はもっと合理的で気まぐれだ。髪型なんて実際は、気候や気分の問題にすぎないのかもしれない。きれいに伸ばしているとはいえ、今日みたいな暑い日は、涼しげなポニーテールがよく似合う。中学では禁止されていたような髪飾りも、ここなら許される。

 多輝は、先に戻ってくれと舟田に断わって、通路に立つ。舟田が驚くのも気にかけず、通路を遠ざかっていくその背中を呼び止めた。


「――有沢さぁん!」


 声が届き、歩みが止まる。有沢すみれが振り返る。

 有沢すみれのことを何と呼ぼうか、三月の合格発表の日、彼女に会った多輝は戸惑った。受験番号を見つけた後、多輝は彼女からもらった問題集を返した。彼女はその時、「また多輝が後輩になるのね」と笑っていた。

 また後輩になる、だけどもう、“アリス”にはならない。

「有沢、すみれ……」

「え、なに?」

「いや。なんて呼ぼうかなって」

「どうしたのよ、今までアリスって呼んでたじゃない」

「それはほら、内輪ネタでしょ、中学の。というか、もとはと言えば生徒会の。俺も中学卒業しちゃったし、ここにそう呼ぶ人はいないし」

 ね、有沢さん、と自分に対してごまかすみたいに、わざと気取った調子で出まかせに呼んでみた。

「後輩らしく、すみれ先輩、とは呼んでくれないの?」

「やだよ。今まであんまり意識してなかったけど、すみれなんていうかわいい名前してんだもん。恥ずかしくて呼べない」

「なんなのよ、それ、意味わかんない。麻里ちゃんは前からずっとそうやって呼んでくれるのにい」

「都合のいいところ基準にするのやめてくれる、俺は呼ばないからな」

 彼女の方がからかい半分に茶化してきたのが悪い。そのせいで結局、自分の納得のためのはずがいつの間にか照れ隠しのために、なんのひねりもなく“有沢さん”などという他人行儀な呼び方をするようになった。けれど、自分が“有沢さん”と呼ぶのは、他の先輩やクラスの女の子を呼ぶのと同じじゃない。慣れた親しみと尊敬が勝手ににじんでくるのだ。

 有沢すみれと同じ高校の一年生になって、多輝を取り巻く環境は大きく変わった。

 とりあえず勉強に関して言うなら、予習という新しい習慣を身につけて、毎日はずいぶん忙しくなり、手抜きは下手くそになった。中学卒業を機に塾はやめたが、学校の勉強に手一杯な現状を見るに正解だったようだ。この学校はテストも容赦ないけど、これには一喜一憂していられない。

 あらゆるものに対して、以前よりも真剣になったような楽観的になったような、自分でもよくわからないが、少しは変わりはじめているのかもしれない。それでも目の前の現実が楽しいということは、相変わらずなんだけど。

 そして変わりはじめた現実の続きに、今、外通路の真ん中で振り返った彼女と視線が絡む。自分の名が、彼女から返ってくる。


「――多輝」


 彼女との距離が近くなったのか遠くなったのか、それは正直よくわからない。ただ自分は、“アリス”を求めて背伸びすることをやめた。

 中学のころ、自分は彼女が羨ましい、彼女に追いつきたいと躍起になっていたが、思えばあれは彼女に近づきたいなどという特別な欲ではなかったのかもしれない。

 あれは、臆病で傲慢な自分がすがりついていた虚像のような憧れだったのだ。自分は本当に彼女のようになりたいと思っていた。その気持ちを自分は恋と呼べばよかったのかもしれないのに、頑なにそうとは呼ばなかった。アリスのことが好き、とは心の中でも言葉にしようとしなかったのだ。このことが、自分の憧れがどれほど切実だったかを表しているような気がしてならない。これだけが見栄のない自分の本心だったのではないか。傲慢だとか臆病だとかややこしい見栄や虚構の根本にあった、自分がどんなにひねくれたって認められる部分なのだろうと思う。

 だから今度は、ただの高校生の女の子の有沢すみれに関わろうと決めた。“アリス”の助けはもういらない。このワンダーランドを、“アリス”の手引きなしに紐解いていくのだ。有沢すみれは現実の大切な一部だがすべてではない。ちょうどいい背丈は彼女によってではなく、自分によって決まる。似ているようで全然ちがう俺の性分が、あらゆる道を選び、自分を塗り変えていくのだ。

 教室でみんなが待っている。時間はあまりない、だからちょっとだけでいい、話がしたい。無意識に息を吸いこんだ瞬間、自分に慣れたレモンティーの味が口の中に残っているのを感じた。やっぱりこの味でなきゃ。ミルクティーは甘すぎるし、コーヒーは俺には少し苦い。それでいいんだ。

 ――大原多輝って誰なのよ。

 あの時の問いの答えはここにある。



(終)

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