第五話 マットの挑戦と、先生の本気
【視点:マット・ウォーカー】
マット・ウォーカーは、負けず嫌いだった。
それは自分でも分かっていた。アメリカの学校でも、家でも、どこにいても一番でないと気が済まなかった。生まれつきそういう性格で、だからこそ十四歳にして初級生上位のランクまで来た。
でもここに来てから、何かが違った。
違う、というより——初めて、「上」が見えた気がした。
スチュワード・レオンという男が、その「上」だった。
来て三日目の朝、マットは早くグラウンドに出た。篠宮蒼太という日本人の男子がいつも一番乗りをしているらしかったが、その日はマットの方が早かった。
一人でグラウンドに立って、火属性の魔法を出した。第三魔法、第四魔法と順番に発動した。問題なく出せた。精度も悪くない。
「第五魔法は出せるか?」
声がして振り返ると、レオンがグラウンドの入口に立っていた。コーヒーを持っていた。
「出せます」
マットは答えた。
「見せてみろ」
レオンは端に移動した。いつも通りの場所だ。
マットは深呼吸した。第五魔法は中級だ。初級生が出せれば十分すごい、とアメリカの学校では言われていた。マットはアメリカで既に発動できていた。
詠唱した。炎が渦を巻いた。第五魔法——火炎渦。それなりの規模で出せた。
レオンが言った。
「もう一回。今度は詠唱を三分の一の長さにして」
「三分の一?」
「今の詠唱を三分割して、最初の一節だけで発動してみろ」
マットは眉をひそめた。詠唱を短くすれば魔力の制御が不安定になる。それは分かっている。でもやってみた。
——崩れた。炎の渦が形を保てず、途中で霧散した。
「もう一回」
またやった。また崩れた。
「もう一回」
三回、四回、五回。全部崩れた。マットは歯を食いしばった。
「なぜ崩れると思う?」
レオンが近づいてきた。
「詠唱が短いから制御が……」
「詠唱に頼りすぎてるからだ」
「でも詠唱は魔法発動の要じゃないですか」
「補助だ。要じゃない」
マットは黙った。アメリカでそう習ったわけではなかった。詠唱は魔法の核心だと教わっていた。
「お前の詠唱は速くて精度が高い。それは本物だ。でも速くできる分、詠唱に頼る比率が上がってる。詠唱が短くなった瞬間に魔力の手綱を失う」
「じゃあどうすれば」
「詠唱なしで火を出してみろ」
「……初級の第一魔法ならできます」
「でいい。やれ」
マットは詠唱なしで小さな火を出した。安定していた。
「その感触を覚えておけ。魔力が火になる瞬間の感覚。それを第五魔法まで引き伸ばしていく作業が、今お前に必要なことだ」
マットはしばらく黙っていた。
(引き伸ばす。)
「時間がかかりますか」
「人によるが、お前の感覚は悪くない。集中すれば二週間かからないと思う」
「……二週間で?」
「俺の見立てだから保証はしないが」
マットは自分の手を見た。左前腕のタトゥーが重なり合っている。これだけ刻んできた。でも、まだ足りないのか。
「先生」
「なんだ」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「先生は——今でも練習しますか? 魔法の」
レオンは少し考えた。
「練習、というより確認かな。自分の魔力の状態を確かめる程度のことは毎日する」
「どんな魔法を使いますか」
「お前には見せられない」
「なぜ?」
「今見ても、意味が分からないから」
マットは少し悔しかった。でも、嘘ではないと思った。
「いつになれば見せてもらえますか」
レオンは少し間を置いた。
「強くなれば、勝手に見えてくる」
それだけ言って、レオンはグラウンドを出ていった。
マットはその背中を見送った。
(強くなれば、勝手に見えてくる。)
どういう意味か、すぐには分からなかった。でも——やってみようと思った。
マットは再び前を向いて、詠唱なしの火を手のひらに灯した。
小さな、でも確かな火だった。
ここから始めるしかなかった。
◆ ◆ ◆
【視点:クリス・ポワル】
交流生が来て一週間が経った頃、A組に小さな事件が起きた。
放課後の自主練の時間、グラウンドで篠宮蒼太とエリック・ハーンが魔法を出し合っていた。競争ではなく、お互いの技を見せ合う感じで——だったのだが、それがいつの間にか白熱してきた。
「俺の方が速い!」と篠宮が叫んだ。
「速度じゃ俺の方が上だ!」とエリックが英語で返した。
二人とも同じ雷属性だった。雷は速度系の魔法が得意な属性で、発動速度を競い始めたのだ。
周囲の生徒が集まってきた。クリスも近くにいたので自然と輪に加わった。
篠宮が第二魔法の雷を放った。速い。エリックが同じ魔法を放った。同じくらい速い。
「引き分けだ!」と篠宮。「もう一回!」
「いいぜ!」とエリック。
二人が構えた瞬間——グラウンドの端から声が飛んだ。
「止まれ」
レオンの声だった。
二人が動きを止めた。
レオンがゆっくり歩いてきた。手ぶらだった。コーヒーも持っていなかった。
「速度を競いたいなら、もっと正確に計れ。目分量で速い遅いを言っても意味がない」
「じゃあどうやって計るんですか?」と篠宮が聞いた。
「俺が見る」
レオンは二人の前に立った。
「一人ずつ発動しろ。俺が計測する」
「え、目視でですか?」とエリックが英語で言った。
「そう」
「……それ、正確なんですか」
レオンは少し考えた。
「たぶん計測機器より正確です」
エリックが目を丸くした。
篠宮が第二魔法の雷を放った。レオンがそれを見た。
エリックが同じ魔法を放った。レオンがそれを見た。
「篠宮の方が速い。ただし精度はエリックの方が高い」
二人が同時に「え?」と声を上げた。
「篠宮——発動速度は速いが、着弾点がぶれてる。エリック——速度は篠宮より〇・二秒遅いが、着弾が安定している」
「〇・二秒って、目で分かるんですか?」と誰かが言った。
「分かる」
周囲がざわついた。
クリスは思わずマットに声をかけた。隣に立っていた。
「すごくないか、あれ」
マットが静かに言った。
「……魔導師だから、当たり前なのかもしれない」
「でも当たり前に見えない」
「そうだな」
レオンはそれから篠宮とエリックに各自の課題を告げた。篠宮は「着弾精度を上げること」、エリックは「発動初動をもう少し速くすること」。
二人は同時にうなずいた。さっきまで競っていたのに、今は同じ方向を向いていた。
(レオン先生はうまいな。)
競争を競争のまま終わらせない。二人が同時に上を目指せる形に変えてしまう。
(それが——教え方の上手さなのか。)
◆ ◆ ◆
その日の夕方、クリスは一人でグラウンドに残った。
雷属性の第一魔法を、詠唱なしで出す練習を続けていた。三週間前にレオンに「半年で出せるようになる」と言われた。それが頭から離れなかった。
詠唱なしで魔力を雷に変換する。感触はある。でもまだ形にならない。
何度目かの失敗をしたところで、後ろから声がかかった。
「まだいたのか」
レオンだった。帰り支度をしていたらしく、鞄を持っていた。
「練習してました」
「詠唱なしか」
「はい。三週間前に先生が言ってたので」
レオンはクリスの隣に立った。
「一回見せてみろ」
クリスは詠唱なしで雷を出そうとした。魔力が動く。でも形にならずに霧散した。
「もう一回」
また失敗した。
「もう一回」
三回目。また失敗した。でも、今度は少しだけ——ほんの少しだけ、指先に電気の感触があった。
「今のは違った」
クリスが言うと、レオンがうなずいた。
「一瞬、形になりかけた。感触は覚えてるか?」
「あります。指先に来た」
「そこだ。その感触を引っ張れ。詠唱なしの発動は、感触を増幅させる作業だ」
「増幅……」
「詠唱はその作業を補助してくれる。でも詠唱なしでやる時は、全部自分でやる。時間がかかって当たり前だ」
クリスはもう一度やった。指先の感触を意識した。引っ張るように。
——小さな光が弾けた。
完全な雷ではなかった。でも確かに雷の光だった。
クリスは思わず手を見た。
「……出た」
「出たな」
レオンの声に、微かに何かがあった。クリスには感情の名前が分からなかったが——悪いものではなかった。
「先生」
「なんだ」
「俺、強くなってますか」
「なってる」
「本当に?」
「入学初日より、明らかに」
クリスはその言葉を、静かに受け取った。
「先生が言うなら、本当だと思います」
「俺が言わなくても、本当だが」
「でも先生が言うと——なんか違う」
レオンは少し黙った。それから、小さく言った。
「そうか」
それだけだったが、クリスには十分だった。
夕暮れのグラウンドに、二人並んで立っていた。
レオンが先に動いた。
「帰るぞ。門限になる」
「あ、先生も残ってたんですね」
「ちょっと確認したいことがあって」
「何を確認してたんですか?」
レオンは少し考えた。
「お前が詠唱なしで出せるかどうか」
クリスは立ち止まった。
「……ずっと見てたんですか?」
「さっき来た」
「さっきって、どのくらい前ですか」
「三十分くらい前」
クリスは少し呆れた。それから、笑った。
「言ってくれればよかったのに」
「声をかけたら集中が切れるかと思って」
「……先生は、そういうところがあるんですね」
「そういうところ、って?」
「端にいながら、全部見てる」
レオンは少しの間、クリスを見た。
「風間に言われたか」
「はい。正確です」
レオンは何も言わなかった。でも——わずかに、口の端が動いた。
笑ったかどうかは、暗くてよく分からなかった。
二人で校舎に向かって歩いた。
◆ ◆ ◆
【視点:スチュワード・レオン】
翌朝。
レオンがグラウンドに出ると、マットが一人で練習していた。詠唱なしの火を、繰り返し出していた。小さな炎を出して、消して、また出して、消す。
それを十分ほど見ていると、マットが気づいた。
「先生。見てたんですか」
「うん」
「いつから?」
「最初から」
マットが少し苦い顔をした。
「……感想は?」
「悪くない。というより、思ったより早い」
「本当ですか」
「三日でここまで来たなら、あと四日で第五魔法の詠唱短縮ができると思う」
マットは少し目を見開いた。
「七日で、ということ?」
「あくまで見立てだが」
「……先生、なんで分かるんですか。そんなに正確に」
レオンは少し考えた。
「魔力の流れが見えるからだ」
「魔力が、見える?」
「厳密には見えるというより感じる、だが。人によって魔力の流れ方が違う。その流れ方と現在の精度から、どのくらいで次のステップに行けるか大体分かる」
マットはしばらく黙っていた。
「それが——魔導師の力ですか」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。俺にはそれが普通なので、比較できない」
「羨ましい」
「そうか?」
「そうですよ。相手の魔力が分かれば、戦いでも訓練でも圧倒的に有利じゃないですか」
レオンは少し考えた。
「有利は有利だが——見えすぎると、退屈にもなる」
「退屈?」
「相手がどう動くか全部分かったら、楽しくない」
マットが黙った。
「じゃあ……先生が退屈じゃない相手って、いるんですか」
レオンは少しの間、グラウンドを見回した。
「まだ分からない」
「まだ?」
「今年は来たばかりだから」
マットはその言葉の意味を測るように、しばらくレオンを見ていた。
それから、また前を向いた。
「……もう一回やります」
「どうぞ」
レオンは端に戻った。
マットが詠唱なしで火を出した。昨日より少し大きかった。
(着実だ。)
レオンはそれを見ながら思った。
(マットは目立ちたがり屋だが、基礎をないがしろにしない。いい素質だ。)
そしてクリスは感触を掴むのが速い。ラポールは無意識に術式の構造を理解しようとしている。篠宮は速度と熱量がある。風間は静かだが観察の質が高い。
(今年は——面白いかもしれない。)
そう思って、すぐに打ち消した。
(いや、面倒くさいことにならなければいいが。)
でもその日の朝は、いつもより少しだけ早くグラウンドに出てきた理由を、レオン自身はよく分かっていなかった。
◆ ◆ ◆
【視点:ラポール・エルニクス】
ラポールは、スチュワード・レオンという人間を毎日観察していた。
感情的な興味ではない、と自分に言い聞かせていた。データ収集だ。強くなるためには、強い人間の行動パターンを把握することが近道だと、ラポールは信じていた。
観察して分かってきたことが、いくつかあった。
レオンは、必ず全員を一度は見る。授業中、誰かに注目している時でも、視線の端で他の生徒全員を追っている。それが自然すぎて最初は気づかなかったが、三週間見続けてようやく分かった。
レオンは、生徒が詰まっている時にだけ近づく。余計な手出しをしない。でも、必要な時には必ず来る。タイミングが——怖いくらい正確だった。
そして、レオンが端に立っている時に放つ魔力は——ほとんどゼロに近い。魔力を極限まで抑制して、存在を消しているような状態だ。
(なぜそうするのか。)
ラポールには推測があった。目立ちたくないから、というのはもちろんある。でもそれだけではない気がした。
その推測を確かめたくて、ラポールはある日の放課後、レオンに声をかけた。
「先生、一つ聞いていいですか」
職員室の前の廊下だった。レオンが振り返った。
「どうぞ」
「先生は授業中、魔力をほとんど放出していない。なぜですか」
レオンは少し間を置いた。
「気づいたか」
「三週間かかりました」
「そうか。理由は——お前たちの魔力を感じやすくするためだ」
ラポールは少し驚いた。
「自分の魔力を消すことで、周囲の魔力が見やすくなる?」
「そう。俺が魔力を放出していると、それが干渉してお前たちの細かい変化が見えにくくなる」
「……俺たちの魔力の変化を、把握するために」
「うん」
ラポールはしばらく黙った。
「それが——教師としての技術ですか」
「技術というより、習慣だ。気づいたらそうなってた」
「先生は何でも『気づいたらそうなってた』と言いますね」
レオンが少し苦笑した。
「そうか?」
「認定式を辞退しようとした理由も、魔導師になった経緯も、教師を続けている理由も——全部、気づいたらそうなってた、という感じの答えです」
「当たってる」
「先生には、意図して何かをするということが——ないんですか?」
レオンは少しの間、考えた。
「意図して動くことは、ある。ただ——大事なことほど、気づいたらそうなってることが多い」
「なぜですか」
「意図してやろうとすると、力が入りすぎる。力が入りすぎると、見えなくなるものがある」
ラポールはその言葉を頭の中で転がした。
(力が入りすぎると、見えなくなるものがある。)
それはラポール自身に向けた言葉でもある気がした。
「……先生」
「なんだ」
「俺は、強くなろうとしすぎていますか」
レオンはラポールを見た。正面から、真剣な目で。
「なろうとすること自体は悪くない」
「でも?」
「途中で一回、手放せるといい」
「手放す?」
「強くなろうとすることを、一時的に手放す。その上でもう一度拾う。そうすると——違って見えることがある」
ラポールには、すぐには意味が分からなかった。
でも——覚えておこうと思った。
「ありがとうございました」
レオンは小さくうなずいた。
「勉強熱心だな、お前は」
「先生が分からないことだらけなので」
「俺が?」
「先生という存在が。俺には理解の枠外にいる」
レオンは少しの間、何かを考えるような顔をした。それから、静かに言った。
「それでいい」
「なぜですか」
「理解の枠外にいる人間を見続けると——自分の枠が広がる」
ラポールは黙って、その言葉を受け取った。
廊下に夕日が差し込んでいた。
レオンが職員室の扉を開けた。
「帰れよ。門限になる」
「はい」
扉が閉まった。
ラポールはしばらく廊下に立っていた。
(理解の枠外にいる人間を見続けると、自分の枠が広がる。)
それが目的だったかもしれない、とラポールは思った。
レオンに追いつきたい、という気持ちは変わらない。
でも——追いつけなくてもいい、という気持ちが、ほんの少しだけ生まれていた。
追いつけなくても、近づく途中で自分が変わるなら。
(それでも——十分かもしれない。)
ラポールは鞄を持って歩き出した。
夕日が廊下を橙色に染めていた。
── 第五話 了 ──
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