第三話 理事長と、やっかいな来客
【視点:スチュワード・レオン】
朝のコーヒーが一番うまい、とレオンは思っている。
職員室の自分の席で、湯気の立つ缶コーヒーを両手で包んで、何も考えずにぼーっとする時間。それが一日の中で最も平和な瞬間だ。授業が始まる前、理事長に呼ばれる前、生徒たちが押しかけてくる前——この短い隙間だけが、本当に静かだった。
「レオン先生」
桐原先生が隣の席から声をかけてきた。三日目にして、もう終わりかと思った。
「何ですか」
「理事長がお呼びです」
「……また?」
「今日は来客があるそうです。先生にも同席してほしいと」
レオンはコーヒーを一口飲んだ。まだ熱かった。
「来客って、誰ですか」
「アメリカの魔法学校から、とだけ聞いています」
レオンは天井を見た。
(面倒くさい。)
「分かりました」
コーヒーを持ったまま立ち上がった。せめてこれだけは手放したくなかった。
◆ ◆ ◆
理事長室は校舎の最上階にある。
扉をノックすると、中から「どうぞ」という声がした。落ち着いた、低い女性の声だ。
日本魔法学校の理事長——瀬川朱鷺子は、五十代半ばの女性だった。白髪交じりの髪を後ろで束ね、藍色の着物に身を包んでいる。滅握者のランクを持つ、この国の魔法師の中でも最上位に近い実力者だ。
そして、レオンに教師職を六年間押しつけ続けている張本人でもある。
「来たか、レオン」
「呼んだのはあなたでしょう」
「まあ座れ」
促された椅子に座った。向かいのソファには、すでに来客らしき人物が座っていた。
四十代前後の男性。体格がいい。スーツの上からでも分かる筋肉の厚みと、左手首のタトゥーが複雑に重なり合っているのが見えた。滅握者か、それに近いランクだろう。
男はレオンを見て、目を細めた。
「あなたが——スチュワード・レオンですか」
英語だった。レオンも英語で答えた。
「そうです」
「私はダニエル・モリス。アメリカ魔法学校の副理事長です」
「はじめまして」
モリスはまだレオンを見ていた。値踏みするような目だったが、敵意はなかった。どちらかといえば、好奇心に近い。
「思ったより若い」
「よく言われます」
「二十六歳で魔導師。信じられない話だ」
「本人も信じてないので、お互い様です」
瀬川理事長が咳払いをした。話を進めろ、という合図だ。
モリスは視線を理事長に戻した。
「今回の訪問の目的は、先ほどもお話しした通りです。アメリカ魔法学校から優秀な生徒を数名、日本の学校で一定期間学ばせたい。交流プログラムとして、ぜひご検討いただければ」
「交流プログラム」とレオンは繰り返した。
「表向きはそう呼んでいますが、本音を言えば——日本の教育水準を直接学びたいのです。アメリカの生徒の質は高い。でも、日本には何かが違う。それが何か、確かめたい」
理事長が静かに言った。
「何が違うと思いますか、モリス副理事長」
モリスは少し考えてから言った。
「日本の魔法師は、人数が桁違いに少ない。なのに国力は世界一位だ。単純な話ではない」
「それが理由ですか」
「理由の一つです。もう一つは——」
モリスはレオンを見た。
「世界で唯一の魔導師を輩出した国の教育を、知りたい」
レオンはコーヒーを飲んだ。残りは半分だった。
(俺を見物に来たのか、この人は。)
口には出さなかった。
◆ ◆ ◆
【視点:クリス・ポワル】
「来客?」
篠宮蒼太が目を丸くした。昼休みの教室で、クリスが廊下で仕入れてきた情報を話すと、A組の周辺にいた生徒たちがざわついた。
「アメリカの魔法学校から副理事長が来てるらしい。今、理事長室でうちの理事長とレオン先生と話してるって」
「レオン先生が同席してるの?」と朝比奈花音が聞いた。
「上級生から聞いた。先生が理事長に呼ばれるのはよくあることらしいけど、来客への同席は珍しいって」
「なんで先生が呼ばれるんだ」と神崎悠斗が腕を組んだ。
「そりゃ……先生が特別だからじゃないか」
篠宮が言った。クリスもそう思っていた。
問題は、スチュワード・レオンが「どれだけ特別なのか」だ。
クリスは昨夜、寮の部屋で改めて調べた。魔法師のランクについて、魔導師という称号について。父親が残していった古い資料と、学校の図書館で借りた本を組み合わせて。
分かったことは——魔導師という称号は、過去の文献には「理論上の概念」として記されていたということだ。実際に到達した人間は、記録上は存在しない。少なくとも公式には。
ところが今、その称号を持つ人間が自分の担任だ。
「なあ」
クリスはラポールに声をかけた。ラポールは弁当を食べながら本を読んでいた。
「何だ」
「レオン先生のこと、どこまで知ってる?」
ラポールは本から目を上げた。
「どこまでとは?」
「魔導師だって知ってるか」
しばらく沈黙があった。
「……知っている」
「やっぱり。お前も調べたんだな」
「当然だ。担任の情報を把握するのは基本だ」
クリスは少し笑った。ラポールらしい言い方だった。
「でも、調べれば調べるほど分からなくなる。過去の情報が少なすぎる。どこで生まれて、どこで魔力が覚醒して、どうやって魔導師になったのか——何も出てこない」
ラポールは弁当の箸を置いた。
「一つだけ分かったことがある」
「何だ?」
「レオン先生の魔導師認定は、七年前だ。つまり——先生が十九歳の時に認定されている」
クリスは息を飲んだ。
「十九歳で……」
「そしてその翌年から、ここで教師をしている。認定されてすぐ、学校に来た計算だ」
(十九歳で魔導師になって、二十歳から教師。)
クリスの頭の中で何かがつながりかけた。でも、まだ足りない。
「なんで教師になったんだろう」
ラポールは窓の外を見た。
「それを昨日、直接聞いた」
「え? 何て言ってた?」
「理事長に頼まれたから、と言っていた。でも——」
ラポールは少し間を置いた。
「それだけじゃない、とも思った」
◆ ◆ ◆
【視点:スチュワード・レオン】
モリスとの会談が終わって廊下に出ると、レオンはようやく一人になれた。
コーヒーはとっくに冷め切っていた。それでも飲んだ。
交流プログラム。アメリカから生徒が数名来る。それ自体はよくある話だ。過去にも他国からの訪問生徒を受け入れたことがある。問題は——
(モリスの目だ。)
あの目は、生徒の教育水準だけを見ていない。レオン自身を見ていた。世界で唯一の魔導師が、なぜ初級生の担任をしているのか。それを確かめに来た目だ。
七年前のことを、レオンは時々思い出す。
思い出したくない時に限って、思い出す。
十九歳だった。魔力が覚醒したのは十二歳で、それから七年間——何かに憑かれたように魔法を学んだ。理由は今でもうまく説明できない。ただ、魔法に触れている間だけ、頭の中が静かになった。それだけだった。
滅握者になったのが十八歳。
魔導師に認定されたのが十九歳。
滅握者たちの投票が全会一致だったと聞いた時、レオンは「そうですか」と言った。それだけだった。嬉しくも悲しくもなかった。ただ、これで何かが変わる予感だけがあった。
その予感は当たった。
世界中から注目が集まった。各国の政府、魔法師団、研究機関——全員がレオンを「使いたい」か「研究したい」か「自国に引き込みたい」という目で見た。レオンはそのどれも断った。断り続けた。
疲れ果てた頃に、瀬川朱鷺子が現れた。
『教師にならないか』
それが最初の言葉だった。
レオンは笑った。冗談かと思った。
でも、瀬川は本気だった。何度断っても、何度でも来た。玄関先で、廊下で、食堂で。どこにいても現れた。そのしつこさが、逆にレオンには清々しかった。研究したいでも使いたいでもなく、ただ「教えてくれ」という要求だったから。
最終的に根負けして、引き受けた。
それが六年前だ。
(まさか六年も続くとは思わなかったが。)
廊下の窓から外を見ると、グラウンドに生徒たちの姿が見えた。昼休みに自主練をしている生徒が何人かいる。A組の篠宮と、東条さくらだった。篠宮が火を出そうとして、風が吹いて炎が揺れて、さくらに怒鳴られていた。
レオンはそれをしばらく見ていた。
(毎年こういう奴らがいる。)
(毎年、飽きずに魔法を練習している。)
それが不思議だった。
自分には昔からそういう感覚がなかった。魔法が好きというより、魔法しかなかった。だから続けた。好きだから練習するのではなく、それしかないから練習した。
でも、篠宮や東条やクリスを見ていると——
(ああ、こういうのが「好き」というやつか。)
と、なんとなく分かる気がした。
六年間教師をやっていて、初めて理解できたことがいくつかある。レオンにとって教師という仕事は、自分が持っていないものを毎年見せてもらう時間だった。
だからやめられない、というわけでもないが。
(まあ、今年も静かに終わってほしいものだが。)
グラウンドで篠宮がまた炎を暴発させて、さくらに頭を叩かれていた。
◆ ◆ ◆
【視点:クリス・ポワル】
午後の授業が終わって、クリスは真っ直ぐ図書館に向かった。
調べたいことがあった。魔導師の認定条件と、その歴史だ。昨日より深く調べれば、何か見つかるかもしれない。
図書館の奥の棚に、魔法師史の資料が並んでいた。分厚い本を何冊か抜き出して、テーブルに広げる。
三十分ほど読み進めたところで、隣の椅子に誰かが座った。
見ると、風間凪だった。
「調べ物?」
風間が静かに言った。
「うん。レオン先生のことを」
「私も」
クリスは少し驚いた。風間はあまり喋らない生徒だ。観察眼が鋭いとは思っていたが、自分から声をかけてくるのは初めてだった。
「何か分かった?」
「一つだけ」
風間は自分の開いた本をクリスの方に向けた。古い魔法師名鑑の一ページだった。
「ここを見て」
指差した箇所に、小さな記述があった。七年前の魔導師認定に関する公式記録の抜粋だ。クリスは目を細めて読んだ。
『……全会一致の投票による認定は史上初。審議の過程において、複数の滅握者が「これまでに見たことのない魔力の質」と証言。対象者本人は認定式への出席を一度辞退したが、瀬川朱鷺子理事長の説得により出席……』
クリスは顔を上げた。
「認定式を辞退しようとした」
「そう。なぜだと思う?」
クリスは考えた。魔導師に認定される——それは誰にとっても名誉のはずだ。なぜ辞退しようとしたのか。
「……目立ちたくなかったからかな」
「私もそう思う」
風間は本を閉じた。
「昨日の実技の時、先生は端の方に立っていた。生徒が全員見える位置で、でも自分が目立たない場所。あれ、わざとだと思う」
クリスは昨日のグラウンドを思い返した。確かに、レオンは常に端にいた。中央には決して立たなかった。
「目立ちたくない、か」
「でも、見てる。全員を、ちゃんと見てる」
風間が静かに言った。
「私が詰まった時、すぐ来た。他の生徒が見ていない部分まで把握していた。端にいながら、全部見えてる」
(全部見えている。)
クリスはその言葉を頭の中で転がした。
目立ちたくない。でも全部見ている。端にいながら、何一つ見逃さない。
(それが——レオン先生という人間なのか。)
◆ ◆ ◆
図書館を出たのは夕方だった。
廊下に出ると、前方にレオンが歩いているのが見えた。今日は珍しく書類を抱えている。理事長室から戻ってきたのかもしれない。
クリスは迷って——声をかけた。
「先生」
レオンが振り返った。
「なんだ」
「一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
クリスは真っ直ぐ聞いた。
「先生は、十九歳の時に魔導師になったんですよね」
レオンは少し黙った。
「……どこで調べた」
「図書館の魔法師名鑑です。公式記録に載っていました」
「そうか」
否定しなかった。クリスは続けた。
「認定式を辞退しようとしたことも、書いてありました」
「読まれてたか」
「なんで辞退しようとしたんですか」
レオンはしばらく廊下の壁を見ていた。それから、ため息をついた。
「面倒くさかったから」
「……え?」
「式に出たら、いろんな人に話しかけられる。写真を撮られる。演説を求められる。全部嫌だった」
「それだけですか」
「それだけだ」
クリスは思わず笑った。笑うつもりはなかったのに、出てしまった。
「なんで笑う」
「いや……もっと壮大な理由があるかと思って」
「ない。俺はそういう人間だ」
レオンは書類を抱え直した。
「お前が調べたいことは分かる。俺の過去とか、なんで教師をやってるとか、なんで魔導師なのかとか。好奇心は悪いことじゃない」
「はい」
「ただ——」
レオンがクリスを見た。穏やかな目だった。でも、その奥に何か——深いものがあった。
「俺のことを調べるより、自分の魔法を磨く方が絶対に早い。俺のことは、強くなれば自然に分かってくる」
「ラポールも同じことを言われたって言ってました」
「同じことしか言えないからな」
「それは……先生が強くなれば自分を超えられると思ってるからですか?」
レオンは少し考えた。
「超えられるかどうかは知らない。ただ、強くなれば——俺が何者かより、お前が何者かの方が面白くなる。そういうことだ」
それだけ言って、レオンは廊下を歩いていった。
クリスはその背中を見送った。
(お前が何者かの方が面白くなる。)
その言葉が、じわじわと胸に広がった。
レオン先生は——生徒のことを、ちゃんと見ている。端に立ちながら、目立たないふりをしながら、全部見ている。
(だから教師をやっているんじゃないか。)
証拠はなかった。でも、クリスにはそう思えた。
◆ ◆ ◆
【視点:スチュワード・レオン】
職員室に戻ると、桐原先生がお茶を入れてくれた。
「モリス副理事長との話、どうでしたか?」
「来月から交流生が数名来るそうです。A組に入れるかもしれない」
「A組に? レオン先生のクラスに?」
「理事長の考えです。俺は反対したんですが」
「また押し切られたんですね」
「毎回そうです」
桐原先生が苦笑した。
お茶を一口飲んだ。温かかった。コーヒーより体に優しい気がして、夕方はいつもお茶にしていた。
「モリス副理事長、先生のことをずっと見ていましたよ。外から見ていましたが」
「そうですか」
「気になりませんでしたか?」
「気にはなりましたが、どうしようもないので」
桐原先生がまた苦笑した。
窓の外は夕暮れで、グラウンドの自主練組がそろそろ引き上げ始めていた。篠宮と東条のシルエットが遠くに見えた。
来月、アメリカから交流生が来る。
それ自体はいい。アメリカの魔法師の技術は高い。A組の生徒たちにとっても刺激になるだろう。
問題は——モリスがただの視察で終わらない可能性だ。あの目は、何かを持ち帰ろうとしていた。情報か、技術か、あるいはレオン本人か。
(まあ、どうにかなるか。)
レオンは楽観的な性格ではないが、悲観的でもなかった。なるようにしかならない、というのが基本的なスタンスだった。
お茶を飲み干して、立ち上がった。
「帰ります」
「お疲れ様でした」
廊下を歩いていると、図書館の前でクリスと話した場面を思い出した。
(俺が何者かより、お前が何者かの方が面白くなる——か。)
我ながら、うまいことを言ったものだと思った。
本音でもあった。
十九歳で魔導師になって、七年が経つ。その七年で自分が強くなったかといえば——正直よく分からない。魔導師の上がどこにあるのか、誰も知らないからだ。
でも、目の前の生徒たちが強くなっていくのは分かる。毎年、分かる。それが何かに似ていると、最近思うようになった。
(眩しい、に近いかもしれない。)
認めるのは恥ずかしいので、口には出さないが。
校舎の出口を出ると、春の夜風が吹いた。花の匂いがした。
レオンはそれを吸い込んで、ゆっくり歩き出した。
来月が少しだけ——本当に少しだけ、楽しみになった。それもすぐに、面倒くさいという感情で上書きした。
(静かに終わってくれればいいが。)
その願いが叶う気は、全くしなかった。
── 第三話 了 ──
次話「交流生たちがやってきた」




