第一話 最強の教師と、うるさい新入生たち
【視点:クリス・ポワル】
春だ、とクリス・ポワルは思った。
校門をくぐった瞬間、鼻をくすぐったのは花と土の混ざった柔らかい匂い。空は雲ひとつなく晴れ渡り、真新しい制服の袖がそよ風に揺れた。
日本魔法学校。
世界に五つしか存在しない魔法師育成機関のひとつ。そしてクリスが今日から通うことになった場所だ。
アメリカ生まれのクリスが日本の学校に入学することになったのは、父親の仕事の都合というより、半分は自分の意志だった。世界最強の国の魔法学校で学びたい。そう思ったのだ。理由はシンプルで、クリスはいつだってシンプルな奴だった。
校舎は想像していたより大きかった。いや、大きいなんてものじゃない。広大、という言葉の方がしっくりくる。訓練場、演習棟、図書館、寮——それらが連なって小さな街のようになっている。石造りの正門に刻まれた紋様が日の光を受けてうっすら光を帯びていた。あれが術式の痕跡だ、とクリスは直感した。
「でかいな……」
思わず声が漏れた。
隣でラポール・エルニクスが鼻を鳴らした。
「フン。思ったより普通じゃないか」
ラポールはクリスと同じく今日の入学生だ。首席がクリス、次席がラポール——という順位は、入学前の選抜試験でついたものだ。ラポールはそのことを心底気に入っていなかった。たった一問の差で二位になったことが、よほど悔しかったらしい。
「普通に見えるのか、お前には」
「別に感激するようなもんでもないって言いたいだけだ。さっさと教室に行くぞ」
言うなり、ラポールは人混みをかき分けて歩き出した。クリスは苦笑いして、その背中を追いかけた。
◆ ◆ ◆
初級生一年A組の教室は、校舎の三階にあった。
廊下に集まった新入生たちは、みんな似たような顔をしていた。緊張と興奮が半々に混ざった、なんともいえない表情。クリスも自分がそういう顔をしているのだろうと思うと少し恥ずかしくなったが、まあいい。今日くらいはそれで当然だ。
教室の扉は開け放たれていた。
中を覗くと、すでに何人かが席についていた。窓際の席では小柄な女子生徒が膝の上で手を組み、まるで優等生の見本のように背筋を伸ばしていた。芹沢凛、という名前だったはずだ——確か入学の書類に同じクラスの名前が載っていた。
クリスは空いている席を選んで腰を下ろした。ラポールは少し離れた席に、誰も誘わず一人で座った。
やがて定刻が近づくにつれ、教室は騒がしくなっていった。日本語と英語と、たまによく分からない言語が飛び交う。このクラスだけで五カ国の生徒が集まっているのだから、当然といえば当然だ。
篠宮蒼太という男子生徒が、向かいの席の宮本拓海に話しかけていた。
「なあ、聞いたか? 今年のA組の担当教師、なんかすごいらしいぞ」
「え、何が?」
「詳しくは知らないんだけど、上級生の先輩が教えてくれてさ。とにかくヤバい人らしい」
「ヤバいって、怖いのか? 変なのか?」
「分かんない。でも、すごいって言ってた。それだけ」
(ヤバい教師。)
クリスは聞きながら、内心で首をかしげた。魔法学校の教師は全員が超越者か滅握者——つまり世界でも上位数パーセントに入る実力者だ。全員がヤバいといえばヤバい。「すごい」というだけでは絞り込めない。
とはいえ、気にはなった。
◆ ◆ ◆
チャイムが鳴った。
教室が一瞬で静まり返った。
扉が開いた。
現れたのは——男だった。
クリスが予想していた「威厳のある年配の教師」とは、まるで違った。背は高い、百八十センチは超えているだろう。黒髪、整った顔立ち。年は二十代半ばくらいに見える。制服ではなく、シンプルな黒のシャツにスラックス姿。腕まくりをしていて、その前腕には術式タトゥーは見当たらなかった。
男は教室に入ってきて——真っ先に窓の外を見た。
それから、小さくため息をついた。
「……いい天気だな」
誰も何も言えなかった。
男はそれからようやく生徒たちの方を見た。視線は穏やかで、怒っているわけでも緊張しているわけでもなく、ただ——どこか遠くを見ているような目だった。
「えー……スチュワード・レオンです。今年のA組担当です。よろしく」
それだけ言って、男は黒板の前の椅子に腰を下ろした。
静寂が続いた。
篠宮蒼太が小声で言った。
「……授業、始めないの?」
レオンは篠宮の方を見た。
「今日は入学初日だから、特にやることもないだろ」
「え?」
「好きにしてていい。疲れたなら寝てもいいぞ。入学式で立ちっぱなしだっただろ」
教室に戸惑いの空気が充満した。
クリスは目を瞬かせた。これは——普通ではない。魔法学校の最初の授業というのはもっと厳かで、緊張感があって、先生が前に立って「魔法師とは何か」から説き始めるものだと思っていた。少なくともアメリカにいたころ、父親から聞いた話はそうだった。
「先生」
ラポールが口を開いた。声は静かだったが、鋭かった。
「あなたは何者ですか」
レオンはラポールを見た。
「何者、って」
「魔法師のランクを訊いています。教師である以上、超越者以上のはずですが、あなたのタトゥーが見えない。術式を内化しているということは、少なくとも腕は立つ。でも私が調べた限り、あなたの名前は教師名簿に出てこなかった」
レオンはしばらく黙っていた。
それから、また窓の外に目をやった。
「……名簿、新しくなったんじゃないか。去年から教えてるし」
「ごまかさないでください」
「ごまかしてないぞ。ただ、名乗るほどのことでもないし、教師のランクとかって別に関係なくないか。俺が何者かより、お前たちが何者かの方が大事だろ」
ラポールの眉がわずかに動いた。口が開きかけて、閉じた。
(うまくかわした……?)
クリスは少し感心した。ラポールを言い負かすのは簡単じゃない。それをさらりとやってのけた。
だが——それよりもクリスが引っかかったのは別のことだった。
(タトゥーがない。)
魔法師の術式タトゥーは、魔力覚醒の時に体に現れる。強くなるほど、その数と重なりは増していく。だからベテランの魔法師の腕や首には、発動時に光る複雑な紋様が刻まれているはずだ。
でも、レオンの腕には何もない。
腕まくりをした前腕も、シャツの襟から覗く首筋も——何もない。
(術式タトゥーを使わずに術式を扱える人間がいるとしたら……。)
その先まで考えて、クリスは首を振った。さすがにそれは飛躍しすぎだ。
◆ ◆ ◆
結局、最初の授業は「授業」と呼べるものではなかった。
レオンは椅子に座ったまま、生徒が質問すれば答え、質問がなければ黙って窓の外を眺めていた。昼過ぎには「今日はもういい」と言ってさっさと帰ろうとしたが、篠宮蒼太に「先生、まだ三時間目ですよ!」と引き止められ、渋々残った。
放課後になる頃には、教室はそこそこ賑やかになっていた。
東条さくらという気の強そうな女子生徒が「この学校の訓練場ってどこにあるんですか?」と訊くと、レオンは「東棟の地下」と答えた。
「今から行ってもいいですか?」
「構わない。ただ、今日は登録してないと入れないぞ。明日以降に」
「じゃあ明日!」
「うん」
レオンの返事はいつも短かった。でも、邪険にしているわけでもなかった。聞かれたことには答えるし、間違ったことを言った生徒には「それは少し違う」と指摘した。ただ積極的に何かを教えようとする気配が、まるでなかった。
クリスはその様子をずっと観察していた。
(のんびりしている。本当に、心底のんびりしている。)
でも、なぜだろう。緩んでいるとか、やる気がないとか——そういう感じとは違う。例えるなら、すでにすべてを知っている人間が、改めて急ぐ必要を感じていないような。そういう落ち着き方だった。
放課後、廊下に出たところでクリスはふと足を止めた。
隣の教室から声が聞こえた。二年生のクラスらしい。廊下に出てきた生徒のひとりが、小声で友人に言っていた。
「え、今年の一年A組ってレオン先生が担当なの?」
「そうらしいよ。うちの去年の担当、赭勲の先生だったのに。A組だけ別格じゃん」
「あの人、教師の中でも別格じゃなくて……」
声が廊下の雑音に溶けて聞こえなくなった。
(別格。)
クリスは振り返ったが、レオンはすでに教室の扉を閉めていた。その向こうで、また窓の外を眺めているのかもしれない。
◆ ◆ ◆
夜、寮の自室でクリスはベッドに寝転がって天井を見つめていた。
初日の出来事を頭の中で整理する。
入学式は問題なかった。校長の話も、先輩魔法師の演武も、思っていた通りだった。でも——A組の担当教師だけが、予想の外にいた。
スチュワード・レオン。
タトゥーなし。年齢は二十代半ば。のんびりしているが、頭は切れる。ラポールの追及をさらりとかわしたのがその証拠だ。
そして、「別格」という言葉。
クリスは枕の下に手を入れて、小さなメモ帳を取り出した。入学前から情報収集するのは習慣だ。書き留めていたのは、日本魔法学校に関する基礎知識と、教師陣の名前だった。
教師の欄に、スチュワード・レオンという名前はなかった。
いや——あった。最後のページの一番下、ほとんど余白として残していた場所に、小さな文字が書かれていた。クリスが入学前に父親から聞いた話の断片だ。
『魔導師。世界にただひとり』
クリスはしばらくその文字を見つめていた。
それから、静かにメモ帳を閉じた。
(まさか、な。)
そのまさかが、頭から離れなかった。
◆ ◆ ◆
【視点:スチュワード・レオン】
職員室に戻ったのは、生徒が全員帰ってからだった。
レオンは自分の席に座って、机の上に突っ伏した。
疲れた。
魔法を使ったわけでも走ったわけでもないのに、こんなにぐったりするのはなぜだろう。人間と話すのはエネルギーを使う。それも二十五人相手だと特に。
「お疲れ様でした、レオン先生」
声をかけてきたのは、隣の席の桐原先生だ。開拓赭のランクを持つ三十代の女性で、中級生二年を担当している。
「今年の一年はどうでしたか?」
「うるさかった」
「それは元気があるということでは」
「そう解釈するか」
レオンは机から顔を上げた。窓の外はもう夕暮れで、空がオレンジに染まっている。
今年のA組は、去年と少し違うと感じた。どこがどうとは言えないが——目が違う。特に首席の金髪の少年と、次席の少年は、入学初日から既に何かを見ている目をしていた。好奇心ではなく、観察眼だ。
(面倒くさそうだな。)
と思う反面、少しだけ——ほんの少しだけ、悪くない気分もあった。それは認めたくなかったので、レオンは意識の隅に追いやった。
「理事長が呼んでいますよ」
桐原先生が言った。
「……また何か厄介なことを言いに来たな」
「まあ、理事長ですから」
レオンは立ち上がって、大きくため息をついた。早く家に帰って、お茶を飲んで、ぼーっとしたかった。それだけが今日の楽しみだったのに。
廊下を歩きながら、レオンはぼんやりと思った。
(今年も、静かに終わってほしいもんだが。)
その願いが叶った試しは、六年間で一度もなかった。
◆ ◆ ◆
【視点:クリス・ポワル】
翌朝、クリスは誰よりも早く教室に来た。
窓から見える訓練場では、もう何人かの上級生が朝練をしていた。魔法の光が空中に弾けて、消えていく。見ているだけで鼓動が上がった。あそこに立つために、ここに来たのだ。
「早いな」
声がして振り返ると、レオンが教室の扉のところに立っていた。片手にコーヒーの缶を持っている。昨日よりさらに眠そうな顔をしていた。
「先生こそ」
「俺は職員室に泊まった。理事長の話が長くて」
「……それは大変でしたね」
「うん。ひどかった」
レオンは教壇の横に立ち、窓の外の訓練場を眺めた。二人でしばらく、上級生の朝練を見ていた。
沈黙が不思議と苦ではなかった。
クリスは思い切って口を開いた。
「先生は……魔法が好きですか?」
レオンは少し考えてから言った。
「好き、ってのとは違うかな。空気みたいなもんだ。特別に好きでも嫌いでもない」
「空気みたいな」
「そう。あって当たり前で、なかったら困るけど、普段はあんまり意識しない」
(あって当たり前。)
クリスはその言葉を頭の中で繰り返した。魔法をそう感じられるのは、どういう人間なのだろう。
「あなたは?」
レオンが逆に訊いてきた。
「俺は——好きです。魔法が」
「そうか」
「好きだから強くなりたいし、強くなって、誰かの役に立ちたい」
「まっすぐだな」
からかうわけでもなく、褒めるわけでもなく、レオンはただそう言った。
「悪いか?」
「悪くない。俺にはもうそういう気持ちはないから、羨ましいくらいだ」
クリスは少し驚いた。この人は、思ったことをそのまま言う。
窓の外で、上級生の放った火属性の魔法が弧を描いて消えた。橙色の残光がしばらく空に漂った。
「先生」
「なんだ」
「俺、今年絶対に強くなります。見ててください」
レオンはクリスを見た。その目が——ほんのわずかだけ、表情を持った気がした。
「うん」
短い返事だった。
でも、それで十分だった。
── 第一話 了 ──
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