胡蝶の森
ここへきた人々はみんな扉を開けて森に入ってゆく。老いた人、若い人、幼い子供、男の人も女の人も。一人きりだったり仲睦まじい二人だったり、時には賑やかな団体客のこともあるし、泣きながらくる人もいれば跳ねるように駆けていく人もあった。
彼らはみんな、迷わずここに向かって歩いてくる。そして扉の前に辿り着くと、自分だったことの記憶を錠前に翳すのだ。
扉が開くと人々の輪郭はゆるやかに溶けて透明な蝶に変わり、やがてまた目覚めるまでの長い時を森で過ごすようだった。
少女は決して森には入らず、ただ境界で人々が蝶になってゆくのを眺めてきた。
森と外の世界を分かつ場所には古くて大きな木の扉がある。蔦が絡まり苔に覆われ、しかしきれいに磨かれたいつからあるのか分からない扉。
錠前がかけられているが、ここへくる人たちはみんな、扉を開ける自分だけの鍵を持っているらしい。
それはそのまま鍵の形をしていることもある。幼子が大切そうに抱えていたぬいぐるみが鍵だったこともある。老女が持つ古い指輪だったり、スーツ姿の青年が翳したのはスマートフォンだったし、血を流したままの軍人はヘルメットを外して鍵にしていた。
鍵を開けて森に入ってゆくと、みんな透明な蝶になる。少女は何度もそれを見送る。
森の中心には巨大な樹が聳え立っていた。きらきらと輝く花が咲き、実を結んで、また新しい命として目覚めて森の外へと落ちていくようだった。
少女はあの花が蝶だということを知っている。いずれ自分もそこへ行くのだと知っているけれど、まだ扉は開けないのだった。
ある人を待っている。いや、あいつがこないように、見張っているのだ。
おじさんが、話しかけてきたのはいつのことだったろう。少女には時間の感覚というものがもうずいぶんと曖昧だった。
自分がこの境界に留まってどれくらい経ったのか。百人を見送ったのか、千人を見送ったのか。季節が変わることもなければ腹が減ることもなく、ただ人がきては去り、きては去りを繰り返す中で、少女はただ扉のそばに立ち続けていた。
そのおじさんはどこかのタイミングでやってきて、ふと少女の隣に立って、なんとなくそこにいた。
五十歳くらいだろうか。白いものが混じった髪に、人のよさそうな目尻の皺が警戒心を解く。おじさんは、少女が地上にいた頃の、自分のお父さんと同じくらいの年格好だった。
おじさんも扉を開ける気がないようだ。少女のそばでぼんやりしているのは、何か理由があるのかもしれないし、ないのかもしれない。少女は特に聞かなかった。
「誰かを待ってるの?」
先に尋ねたのはおじさんのほうだった。少女はちょっと馴れ馴れしいなあと思った。でも腹は立たなかった。なんとなく憎めない感じがするのは、お父さんを思い出すせいなのだろうか。
「そう、待ってるの」
「誰を?」
「百歳のお爺さん」
少女の答えに、おじさんはちょっと驚いたように目を見開いた。目尻の皴がなくなって少し若くなったように見えた。
「百歳? なんだそりゃ」
「共に白髪の生えるまで、って言うでしょう。知らないの?」
少女は大人っぽく知的に聞こえるように落ち着いた声で言った。
「約束したの。でも私、たくさんの人と一緒に先にここへきちゃったから。あいつが百歳になってここへくるのを待ってるの」
おじさんは困ったように、扉の向こうに見える大樹を見上げた。周りを透明な蝶が優雅に飛び交い、さわさわと光を揺らしている。
「百歳にもなってたら、そいつがきても君は分からないんじゃない?」
からかうような口ぶりだった。少女は気を悪くして、ぷいとおじさんから顔を背けて答える。
「分かるわよ。あいつのことは私が一番よく知ってるんだから」
おじさんは知らないのだった。今までどれだけの人がここへきて、少女がどれだけの人を見送ってきたか。老いた人も、若い人も、知らない顔ばかりだったけれど、誰一人あいつではなかった。
あいつがくれば絶対に分かる。白髪頭になっていようと顔中が皺だらけだろうと、枯れ木みたいになっていたとしても、あいつはあいつで、少女には分かるのだ。
「信用ならないなあ」
おじさんが笑った。少女は腹が立っておじさんの顔をじっとりと睨んだ。その瞬間、奇妙な感覚が胸をよぎった。懐かしくてちょっとくすぐったくて、何か遠い記憶が喉元まで出かかってつっかえているような。
「百歳にならずにそいつがきたら、どうするんだ?」
「何してるのよ馬鹿って、追い返す。森になんか入れてあげないの」
「それはちょっと困るかな……」
おじさんは腕を組んで、うーんと唸った。
少女は固まった。その仕草を知っていた。
無理難題を言った時のいつもの仕草。大人ぶって腕を組んで唸って、それでもべつに怒ったりはしないで、こちらが折れるまで一緒に困ってくれる、あの仕草。
「……あっ」
おじさんは、あいつだった。少女がずっと待っていたあいつだった。五十年ほど生きてからここにやってきた、あいつだった。
少女は頬が熱くなるのを感じた。これほど長く待っていたのに。絶対に分かると思っていたのに。何人を見送っても自分はちゃんと見分けられると確信していたのに、気づかなかった。さっぱり気づかなかった。
しょんぼりと肩を落とした少女の頭に、おじさんはそっと手を乗せた。
小さな子供をあやす触れ方じゃなかった。年上が年下を哀れむような感じでもなかった。いつも同じところに立っていた二人の距離の、対等な手つきだった。
「俺もっと早く会いにきたかったんだけどさ」
おじさんは何でもないように「そういうわけにもいかなかったもんな」と言った。
「これでも結構がんばったんだよ?」
そりゃ百歳には届いてないけどさ、と笑いながら。
少女の胸に何かがじわりと広がって世界の輪郭が溶けていく気がした。泣いて悲しむことでもないし、怒って喚くことでもない。ちょうど嬉しいと淋しいの真ん中だった。
あいつを待ち焦がれていた自分と、あいつがここへきてほしくない自分の真ん中にいた。
おじさんはゆっくりと少女の手をとった。その手に引かれて、少女は久しぶりに足を進めた気がした。たぶん、五十年ぶりくらいに歩き出した。
「それなりに冥土の土産はたくさん仕入れてきたから、大樹までの道で話そうぜ」
少女がおじさんと一緒に扉の前に立つと、錠前が「かちり」と鳴ってあの大きな扉が開かれた。
二人で森に入った瞬間、少女にはあいつが見えた。懐かしい、あの頃のあいつが、少女の知っている通りの姿で隣にいた。
本当はずっと、少しだけ怖かった。
このまま待っているうちに自分が自分だったことも、あいつのことも、すべてが記憶の彼方に混じってしまって、戻れもせず森にも入れず境界を永遠に彷徨う亡霊にでもなってしまうんじゃないかって。
でもあいつは、少女がそうなる前にちゃんときてくれたのだった。
幸いなことに、死者には待ちすぎて焦がれるような感覚がない。五十年が五十年として積み重なることはなく、少女の時間はここにきた瞬間のまま留まっていた。
待つことは苦痛でも何でもなかった。それでもやっぱり、きてくれたことが嬉しかった。
「……百歳まで生きてほしかったのになあ」
照れくささを紛らわすように少女は言った。
「もう半分は一緒に過ごせばいいだろ」
そう答えるのを聞いて、少女は嬉しそうに笑った。
少女と少年が森を駆けてゆく。
後ろで扉が静かに閉まると、彼らの輪郭はふわりと溶けて透明な蝶になった。境界に風が吹いて、悠久の苔を優しく撫でてゆく。
いつか花が咲き、実を結んで、再び目覚めるまで。今度はともに夢を見る。




