天気雨の時にしか会えないあの子に願うこと
一方の空は晴れて鮮やかな青をしているのに、もう一方には薄灰色の雲が立ち込めていた。
そんな光景がオフィスの待合室の四角く並んだ窓から見えた。
──来た。
弾かれたように立ち上がる。
「どうした? 遠山」
隣の先輩が怪訝そうに眉をひそめた。
「あ、ちょっと……えっと、と、トイレ?」
「なんで疑問形なんだよ」
あと10分で商談始まるぞ、と先輩は厳しい顔で腕時計に視線を落とす。
確かに、準備に長い時間と労力を費やした大事な商談だ。
でも、今を逃したら、今度は一体いつになるのか。
「大丈夫です」
この“大丈夫”には何の保証もなかったが、言い終わる前に待合室を飛び出していた。
廊下で知らない社員にぶつかりかけて睨まれ、慌てて頭を下げながらエレベーター……いや、非常階段を探す。
目指すは屋上。
ここは商談先の会社のビルの10階だ。地上階に降りるより上に行く方が早いはず。
14階の上まで駆け上がる。オフィスワーク中心の身体にはきつい。
ここに来て一瞬、屋上への扉が施錠されていたらどうしようと不安がよぎったが──杞憂だった。
肩で息をしながら外への重たい扉を押すと、普通に開いた。
屋上には建物の設備関係の何やらが色々あるが、人はいない。車の音や、空を飛ぶヘリコプターの音が聞こえる。まだ、空は明るい。
大気は少し冷えて、僅かに湿り気を帯びていた。どこか砂埃のような、土臭い匂いが鼻をかすめた。
──雨の匂いだ。
ぽつ、と何かが優しく頬に当たる。
手のひらを上に向けた。ぽつぽつと、感じる。
天を見上げる。
明るい、けれど、静かに小雨が降り出した。
──頼むぞ。
念じるように目を閉じた。
打ち合わせまであと……5分くらいか。
不安はあったが自信もあった。それでも胸はばくばくと音を立て、呼吸は少し乱れている。じっとりと汗も滲んでいた。
──約束は守ってくれるだろう?
そう思った瞬間、耳から音が遠のいた。
温度が、空気が変わる。
固く閉じていた瞼をそろそろと開けた。
緑色。
濃い草木の匂い。葉擦れの音。足元のコンクリートはいつの間にか湿った土になっている。
幹が信じられないほど太い樹だ。
注連縄が巻かれた背の高い樹の前にいた。
空は明るくて、濡れる前に乾いてしまうような弱い雨がしとしとと降っている。
ふうっと息を吐く。
どうやらうまくいったようだ。
腕時計を見ると、表示されるデジタルの数字はぴたりと止まっていた。スマートフォンも同じだ。電波もない。
「──ユズキ」
探そうと思ったら、先に呼ばれた。
振り返ると黄色いワンピース姿の少女。
肩までの赤茶けた髪、白い肌、黒目がちの大きな瞳。小学生くらいに見えるのに、纏う雰囲気に幼さみたいなものはない。
驚きと懐かしさが同時に湧き上がる。
「久しぶり。全然変わらないんだな。ちふる」
「ユズキは大人になった」
少女──ちふるは笑った。
「ユズキがここに来たってことは」
「うん」と頷く。
「願いを叶えてもらおうと思って。約束だろ?」
ふふ、とちふるは笑顔を返した。
「待ってたよ、いつ来るかなって」
「早かった? 遅かった?」
「早いよ。ユズキの感覚で言うなら……」
ちふるは考えるように斜め上を見る。
「5日くらいかな」
「はやっ」
軽く笑いながら近くのちょうどいい岩に腰掛け、ネクタイを緩ませる。
「でも天気雨って、なかなか出くわさないもんだよな。一度あったけど、その時は願いがまだ決められてなかった」
「今は決まってるんだね。だから来た」
「うん」
ぴょんと片足跳びでもするように、ちふるが目の前に来た。
「あの時、わたしと一緒に遊んでくれたお礼だよ。でも叶えられるのは一つだけ。さあ何を願う?」
黒い、艷やかな瞳がきらめいた。
「死んじゃった大切な人を生き返らせる? 大金持ちになる? 好きな人と結ばれる?」
「どれも魅力的だ。ちふるって本当にすごいんだな」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らすちふるに「でも」と否定の言葉を続ける。
「どれでもない」
「えっ」とちふるは声を上げた。
「そうなの? 初めて会ったときは、死んだおじいちゃんを生き返らせてほしいって大泣きしてたのに」
「何年前の話だよ」
その時のことを思い出して小さな笑いが出た。
そうだ。
ちふると初めて会ったのは、祖父の葬式の日だ。
まだ「死」というものの実感なんてなく、大好きな祖父に二度と会えないのだという事実が小学生の自分には受け入れられなかった。何も考えずに過ごしてきた自分のすぐ隣にぽっかりと知らない世界が口を開けたみたいで、悲しさよりも恐ろしさがあって、ずっと泣いていた。
葬儀場からの帰りの午後。親の車に乗ろうとした時、天気雨が降り始めた。
ふと気がつけば今と同じ境内みたいなところにいて、今と変わらない姿のちふるがいた。
ちふるは言ったのだ。
「わたしと遊んでくれたら、一つ、どんな願い事でも聞いてあげる」と。
「でも結局ちふるは聞いてくれなかっただろ」
「それは……」
ちふるは居心地悪そうに視線をそらした。
「子どもの願いは聞いちゃだめって言われてるから。子どもの感情任せのお願いは危ないこともあるからって」
誰にそう言われてるのかは知らないが、あの時もちふるはそう言い訳した。
「ユズキが大きくなったら叶えてあげるって意味だったの。10何年くらい経つのなんて、あっという間だと思ったから」
「ほんと、時間の感覚が違いすぎるよな」
ちふるは「ごめん」と困ったように笑う。
「で、おじいちゃんじゃないんだね。今のユズキのお願いは」
「うん、時間も経ったしさすがに受け入れられたよ。今さら蘇ったらみんな大騒ぎだ。そういうことは、願わない」
「お金もいらないの?」
「幸い今はわりといい職場にいるから、生活には困ってないんだ。あまり大金を手にすると犯罪に巻き込まれるかもしれないし、人生おかしくなりそうだし」
ふんふん、とちふるは神妙な顔で頷いている。
「好きな人もいないんだ?」
「……いるけど」
ちふる相手に恥ずかしがる必要もないだろうが、ちょっと口籠ってしまった。
「まあ、そういうのは……自分の力で何とかしたい派だから」
「ユズキは欲がないの?」
ちふるは不思議そうだ。
「叶えるのに何の制約も代償もないのに」
「欲がないわけじゃなくて」と笑う。
それから足元の土を眺めた。
「あるんだ、一つ。自分じゃどうしようもなくて、でもどうしても叶えたいこと」
「なになに?」
ちふるは勢いよくこちらの顔を覗き込んだ。
何でも願え、と言わんばかりだ。
彼女が何者なのか、今もって理解できない。
理解はできないが、確かな力があるということには疑いがなかった。
ちふるを見て、息を吸い、決めていた願いを口にする。
「ちふるとの記憶を消してほしい。俺の中からちふるのことも、この場所のことも全部」
少しだけ、声が震えた。
「……え?」
ちふるはきょとんとして首を傾げる。
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ。俺は君を……どんな願いも叶えられる存在っていうものを、忘れたい。きれいさっぱり」
ちふるの首は反対側に傾いだ。
「なんでなんで? 全然わかんない。わたしのこと疑ってるの? そんなことできるはずないって」
「疑ってないよ。でも」
雲は薄れ、空の明るさが増している。雨はほとんど止みかけていた。
「御伽噺みたいに、願いが叶ってめでたしめでたし、はい終わり、とはならないから、俺達は」
「……」
「ここで何か願いを叶えても、その先でまた、願いが生まれるかもしれない。そしたらまた、期待してしまう」
奇跡が起こることを。
そのうちに願いを叶えるための努力をすることも忘れて、ただ天気雨が来ることを待つだけになるのかもしれなくて。
「俺にとって人生は長いから。この先も何があるかわからない。何でも叶えてくれる存在を知ってるっていうのは……あまりいいことじゃないのかもしれないって思ってる。それに」
緩めたネクタイを締め直した。
「世間ではよく言うんだよ。『うまい話には裏がある』って。昔話とかでもよくある。欲張ると、いいことにはならない」
泣きそうな顔のちふるは、見た目相応の少女のように、脆くも見えた。
「代償はいらないんだってば」
「それはわかってるけど。でも、何か不幸があった時に、“あの時願いを叶えてもらったせいだ”って思いたくなるかもしれない」
「ユズキはネガティブすぎる。なんで悪い方にばっかり考えるの」
「分をわきまえてると言ってくれ」と笑う。
「でも結局、そんなもんだよ。奇跡が起きても起きなくても、それをどう捉えるかが大事で。俺には、身の丈に合わないものは不要なのかなって。平凡だけど、そこそこ満たされてるんだよ、俺」
ちふるは黙って足元の小石を軽く蹴飛ばした。その灰色の小石が俺の靴に当たる。
「ユズキは本当に大人になったんだ」
俺を見る黒い瞳が、潤んで揺れた。
「やっぱり、違うんだ。時間の進み方が、わたしとは」
「……そういうことなのかもね」
「わたしには、わからないや」
儚げに笑う。
手を伸ばし、「ごめん」とその頭を撫でていた。赤茶けた髪の手触りは柔らかい。
「でも聞いてくれるのかな? 俺のお願いは」
「聞くよ」
ちふるの声だけがした。
いつの間にか髪に触れる感触はなく、辺りは白く染まるほどに眩しくなってきた。雨は既に止んでいる。
「だって、約束だから。約束は守るから」
どこからともなく聞こえる。
「ちふる!」
立ち上がって見回すが、すべてが白に覆われていく。少女の姿はどこにもない。
「俺……どんな願いを叶えてもらおうかって考えてた時、すごくわくわくした。辛くて、本当に叶えてもらいたいって時もあった。今だって、本当は……」
胸が締め付けられる。その先が続かない。
「……面倒な大人になって、ごめん」
でも、「ありがとう」と大きな声で伝えた。
「──ふふ」
寂しげでいて、ほんの僅か嬉しそうな笑い声を耳に残し、視界は全てが真っ白になった。
──音。
高く、空気を切るような。
青空の中、白い飛行機が飛んでいた。
何となく湿っているが、清々しく晴れている。
屋上だ。風がネクタイをはためかせている。
──あれ。
時計を確認する。
商談まであと3分を切っていた。
トイレに、と先輩に告げたような気がするが、なぜこんなところに。
考える暇もなく、急いで屋上を後にする。
雨上がりの匂いが微かに鼻の奥に残っていた。
§
結果的に商談は成功を収め、先輩と大きな契約を一つ取ることができた。
会社での評価も上々、調子に乗って俺は、前から気になっていた同僚の女性に告白し、無事付き合うことになった。
そして2年後──その女性と結婚する運びとなった。
「なんか天気微妙になってきたね」
せっかくの式なのに、と式場に向かうタクシーの中、窓の外を眺めて彼女が呟く。でもその表情には幸せが滲んで見えた。
予報は晴れだった。そのとおりに空は晴れているのに、端から雲が迫ってきている。
「あまり晴れたら暑いし、これくらいでいいんだよ」
「まあそうだね」と言い出しっぺのくせに大して気にした様子もなく、彼女は背もたれに身を預けた。
だらりと垂れたその手を握ると、彼女はこちらを向いて恥ずかしそうに微笑んだ。
もちろん俺は俺なりに努力をした。それが実った結果なのだと思う。
でもそれとは別に、やはり運も良かったのだろう。
タクシーの窓越しにもう一度空を眺める。
神様か仏様か何か他のありがたい存在がいるのかはわからないが──
そんな存在を思う時、天を見上げたくなるのは人の性だろうか。それとも、俺だけか。
誰にともなく、「ありがとう」と呟いた。
完




