この世界の片隅で
私たちの谷に春が来て、お風呂の窓ガラスが外された。また冬になったらよろしくね。
私たちの一日は入浴から始まる。昨夜の汗を流して、お湯の中から世界を眺める。電信柱も電線も街灯も信号もない。あるのは山と森と湖だけ。ときどき空の遠いところを名前も知らない鳥が飛んでいくのが見える。
不便な世界だけど、景色だけは本当に綺麗だ。
毎日の食事の準備も結構大変だ。かまどに火をおこすにも手間も時間もかかるし、ガスや電気と違うから火力の調節だって難しい。
それでもまあ、食べないとおなかが空くからね。村の畑で育てられた野菜中心のメニューに、ジャガイモにラーメン。たまにはパンも焼いてみる。水道からは清らかな湧き水が流れ続けている。
それから家を掃除して、窓を拭いて、庭に植えたお茶の木の様子を見て。時間があれば散歩する。健康には清潔と食事と運動がかかせないものね。
田舎道の風はさわやかで、空はいつも透き通っている。その道を私たちは寄り添って歩く。もうリードは求めない。指を絡ませて、時には視線も絡ませて、私たちは並んで歩く。
時間をいっぱいに使って生きる中でのこんな何気ない一瞬も、きっと私は忘れない。
私たち今、幸せな生活をしているわ。
それからまた夏が来て、今日は私の誕生日だ。
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
アレクは夏の花を布でくるんだ包みをくれた。
私は花束を受け取りながら笑った。
「どうしたの?」
「いえ、去年は喧嘩していたなって思い出して」
「あの頃はこんな関係になれるとは思ってもみなかったよ」
「私だって、貴方のことをこんなに好きになるなんて思わなかったわ」
「未来のことはわからないものだね」
「お互いのこともね。あの時はそれで語り合ったもの。ま、今は知っているけど」
「じゃあ僕が今から何をするかわかるかな?」
「あら、なにをしてくれるの?」
「実はもう一つ、君に受け取ってほしいものがあるんだ」
「嬉しいわ。なにをくれるの?」
「うん。その前に、少し長くなるけど……いいかな?」
「今は貴方の授業を聞くのも好きよ」
「ありがとう」
そしてアレクは私を長椅子に誘った。本当に長くなるみたいだ。
隣り合って腰かけて、アレクの話が再開した。
「──そう、もう半年以上前になるかな? 僕は隣村の銀山の跡を見に行った。思った通り、そこには鉱滓──品位の低い銀の鉱石が捨てられていた」
「え、銀ってもう採れなくなったんじゃなかったの?」
「残りがゼロってわけじゃないんだよ。鉱石の精錬は採算性との戦いだ。例えば銀貨1枚分の銀を採るのに銀貨5枚のコストがかかるとしたら、採らない方がいいだろう?」
「それもそうね」
「この世界の精錬法はまだ未熟だからね。そこで僕は男爵に許可を得て、電解精錬での回収を試みた」
「でん……?」
「銀を含む金属を陽極にして硝酸の中で通電すると陰極に純銀が析出するんだ」
「電気なんて、この世界にあるの?」
「例えば鉛蓄電池だね。希硫酸に鉛と酸化鉛を入れてつなげると電位差が生じて電気が流れる。希硫酸は硝石と硫黄を密閉容器に閉じ込めて加熱して得られた気体を水と反応させるとできる。ただ、鉛はともかくとして目的を達成するのに充分な量の硫酸を作るには硝石が足りないので、僕は発電機を作った」
「……それこそそんなものできるの?」
「磁束の中を導体が横切ると誘導起電力が生じる。要するに磁石と金属、この場合は銅線があればいいんだが……ところがこの世界には磁石らしい磁石がない」
「やっぱり駄目なんだ」
「僕は借金して銅を買ってきた。その銅で細い銅線を作って鉄芯に巻き付けた。この銅線に電気を流すと電磁石になる」
「電気を作るための磁石に電気が必要なの? 堂々巡りのような……」
「そこで鉛蓄電池だよ。水車動力で回転する発電機に、最初だけバッテリーからの電力を供給する。その電気で電磁石が稼働して発電が始まる。一度発電し始めてしまえばその電気で電磁石を賄える。自家発磁式直流発電機だ」
「はー、なるほど……?」
「硝酸は鏡を作る時に使ったね。こうして僕はこれまでのやり方では取り切れなかった銀を効率的に回収した」
「すごいじゃない。その銀はどうしたの?」
「経費を差し引いて残りは男爵に進呈したよ」
「あら、それは男爵様もお喜びになったでしょう。それで、そんなことをして貴方になんのメリットがあったの?」
「うん……。さっき陽極側に不純な銀を使ったと言ったね。銀や鉛は硝酸に溶けてしまって、下には銀の搾りかすが残る。陽極泥と言うんだけどね。これには硝酸に溶けない金属が含まれている。例えば金だ」
「え、金? あるの? 銀の鉱石じゃなかった?」
「金と銀とは様々な性質が似ていてね。自然界ではしばしば一緒に存在するんだ。この陽極泥も本当にほんのわずかだけど金を含んでいた。さて、アンモニア水に塩を充分に溶かし、二酸化炭素をその水溶液に通してやると、重曹が沈殿して塩化アンモニウムという物質が残る。ああ、二酸化炭素は貝殻や石灰石を焼くと生じるんだ。ちょうどたくさんあったからね。で、塩化アンモニウムを硝酸に加えて加熱すると王水という物質が生じる。この液体は金を溶かす性質を持っている。僕は陽極泥を王水に加えて金の溶液を作った。ここに水素を通すと金は真っ先に還元されて沈殿する。水素を得るには水を電気分解すればいい。半年頑張って、ようやく5グラムほどの金を得た」
「はぁー……」
ため息が出てしまった。アレクは今日もあまりにもアレクだ。
「相変わらずの魔法ね」
「科学さ」
「それで、なんのためにその魔法が必要だったの?」
「このためさ」
アレクが懐のポケットから取り出したのは、光を弾いてキラキラ輝く小さなリングだった。
金の指輪だった。
椅子から立ったアレクは私の前に跪いた。そして私の手を取って、薬指に指輪をはめた。
「レディ・セシリア。僕と結婚してくれないか?」
ひゅっ。思わず息を呑んだら変な音が出た。
「君は僕の心の止まり木、魂のゆりかご。君なくしてどこに命の置き場があるだろう」
「わ、私そんな……貴方が褒めるような女じゃないわ」
だって私は悪役令嬢だもの。悪役らしく自分ファースト、全部自分のためにやってきた。
「貴方の想像の中の理想の私とは、違う……」
「世界中の誰にとって違っても──」
アレクは私の手を取ったまま立ち上がって、私の目をまっすぐに覗き込んできた。
澄み切った瞳は静かな、しかし確かな決意を秘めていた。
「君が違うと思っても、僕にとってはそうなんだ。……僕は家を捨てた身で、何の資産も持っていない、貴族としては死んだも同然の男だ。君には見合わないかもしれないけれど……でも、僕には君が必要なんだ」
そこでアレクはじっと押し黙った。真剣な顔で私の返事を待っている。
私も椅子から立った。そして取られた左手を胸の前に引き寄せて、アレクの熱がこもった指輪を指先で撫でた。
「……私は貴族としては既に引退した体で、世捨て人も同然の女よ」
「知ってる。それでも僕は」
「私ね、生まれ変わったって気づいた時からこの世界に馴染めなくてね。特に男性には。……もしも貴方がいなかったら、結婚したいなんて気持ちにはならなかった」
アレクはわずかに顔をしかめた。苦しそうな、あるいはもどかしそうな顔だ。
「君が言いたいところは多分理解できていると思う。でもご存知の通り、僕は察しが悪いんだ。お願いだ、もっとはっきり言ってくれないか?」
そんなことは──この世の誰より私が一番知っている。
ここで「女の口からそんなことを言わせるつもり? 察して」なんて言うほど私は愚かじゃない。人生にはもっと大切なことがある。
私はアレクの要求にこたえた。
「つまり──私と結婚して!」
「ありがとう。もちろん、喜んで受けるよ。……本当にありがとう」
私はアレクの腕の中に抱き寄せられた。ああ、腕が、胸が力強い。
そして彼の熱い口づけに、私は同じ熱さでこたえた。
それから私たちは婚約の報告のため実家に赴いた。母に驚かれたり兄に納得されたり父に泣かれたりしたけれど、それは全部別のお話。だって恋の物語は成就したところでおしまいにするべきだもの。秘すれば花、これ以上を語るのは無粋ってものよ。
それにしても、ああ、本当になんて世界なんだろう。社会制度は未成熟だし、身分の壁は厳しいし、貧富の差は激しい。でも王侯貴族だってそんなに大層な生活をしているわけじゃない。家は隙間風が吹くし窓は雨戸だし道路は舗装されていない。電気もガスもないし上下水道もひどいし料理だっておいしくない。洗濯もしないしトイレもおまるだし、その上誰もお風呂に入らない!
あの進歩した世界からこんな未開の世界に生まれ変わってしまって初めは途方に暮れたけど、どちらの世界がいいかと尋ねられたら今の私は迷わずこちらを選ぶ。どんな進んだ文明よりも愛する人がいることの方が大切だ。
だから、未来のことがわからなくてもこれだけは自信を持って言えるわ。
文化レベルが中世でも住居が世界の隅っこでも、私たちはいつまでも幸せに暮らしました──ってね!
これにてこのお話は完結いたしました。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
このお話は拙作短編『えっ、私が悪役令嬢なの? ところで悪って何かしら』を長編に改稿したものです。
元々短編で完結していた話で続きは考えていなかったのですが、何だか話が膨らんで、書く前に思っていたボリュームの倍になってしまいました。何故か毎回そうなります。私の考えが軽いのです……。
とはいえ、女性向けはいつも短編ばかりで長編を書いたのは初めてですが、なかなか楽しい体験でした。
いずれまた女性向けの長編を書いてみたいと思います。
その時はまた皆様にお会いできると幸いです。
末筆ではございますが、重ねて感謝申し上げます。
ご愛読ありがとうございました。




