勇気の夜
ずいぶん冷えるとは思っていた。
朝起きたら窓の外は真っ白だった。
玄関から外に出ると山の木々も家々の屋根も雪の下で、陰翳と相まって二色しか見えない。世界がまるで水墨画だ。
村の男たちが総出で雪をかき始めた。わが家からはアレクとジャック君が、メグの家からは父親と弟がこちらへ向けて道をつけている。
「よっこい、よっこい……歩きにくいべー」
メグがまだ道のついていない雪をまたぎながら大股でやってきた。
「おはよう。よく降ったわね」
「おはようだべ。東組の方はもっと深けえからな、こうなっちまったらもう村から出られねえべ」
薪の上にも雪が降りかかっていた。カン、カンとぶつけて落として、男たちが雪かきをしている間に朝食を用意した。
食後に私たちは並んで外を眺めた。小雪が続いていてせっかくつけた道がまた白くなっている。
ダイニングはストーブが燃えていて暖かいけどね。窓にガラスが嵌っていて良かった。
「今日はなにもできないわね」
そういうとアレクは山の向こうを眺めた。隣村の方向だ。
とうとう馬車工場も稼働し始めて、あちらの村はかつてない活気に湧いている。どうなっているか気になるのかな?
「男爵に呼ばれていたんだけど、これじゃ行くのは無理だね」
「あら、何か用事があったの?」
「うん、実は引っ越しを勧められていてね」
「……え? どこに?」
「男爵家に。ここから通うのも大変だろうからということでね。まあ片道2時間はかかるからね」
アレクがとんでもないことを言い出した。
そうしたら隣にいたジャック君もアレクに続いた。
「ロードがあちらに移られるなら僕もついて行きます」
「剣術の方はどうするんだい?」
「あちらから通います。山道の昇り降りも訓練になるでしょうし丁度いいです」
「徒歩ならかなりの運動量だしね」
「ご成功、おめでとうございます。これでご実家にも胸を張ってご帰還なされますね」
二人とも、何を言っているの……?
会話する二人の背中が急速に遠ざかっていくように感じた。
いつまでもここにいるとは限らない、というその時が唐突に来てしまった。
「メグ……。どうしよう……」
泣きついたらメグは溜息をついて肩をすくめた。
「どうもこうもねえべ。だからこうなる前に体で引き止めれっつったんだべ」
「だってぇ……」
「男がこうと決めちまったら邪魔するもんでねえ、応援するのが女だべ」
「でもぉ……」
「まあまずは本音のところでどう考えとるんだか確かめることだべな。ほいで出ていくつもりなら諦めるんだべ」
「うー……」
掃除に戻ってしまったメグを視界の端にぼんやり認めながら、私はダイニングの椅子に力なく腰掛けていた。
『男がこうと決めたら邪魔するもんでねえべ』
メグの声がリフレインする。実際、メグは騎士が旅立つのを見送ったんだった。
私は……。
私は……。
……。
私は、それでも私は──邪魔する!
だって私は悪役令嬢だから!
私はいつだって自分ファースト、自分の気持ちが最優先なの!
「それでは今日はこれで失礼します。お二人とも、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
「また明日ね」
夕食を食べてしまって、楽器の授業を終えて、ジャック君は自分の部屋に帰った。
そして私たちも自分の部屋へと退散するというその時に、私はアレクに告げた。
「今夜は私の部屋の鍵、かからないから」
「どうしたんだい?」
「壊れたの」
い、言ってしまった……。
私は自室のベッドに腰かけてカチコチに固まっていた。
どうしよう……。まだ夜は始まったばかりだというのに既に心臓が苦しい。体中から血の気が引いて、絶対顔が真っ白だ。
私は宣言した通りに寝室の鍵を開けておいた。ランプの火は今日は消さない。ド、ドキドキする……。
あああ落ち着かないわ。どうしよう、軽くメイクでも──いやいや、ないわ。
代わりと言っては何だけど、念入りに髪をとかした。
そして私は以前作った下着を棚の奥から引っ張り出した。生成りの亜麻の柔らかな、この世界では先進的なデザインのセクシーランジェリーを。
ま、まさかこれを着る日が来るとは……。
無限の、永遠に近い空白の時間が流れる。
どうしよう。アレクはまだ来ない。どうしよう、来ても来なくても困っちゃうんだけど。
ど、どうし
ドアの外でガタガタと音がした。
き、来ちゃった……。
目の前が真っ白になるような緊張感で息が苦しい。
い、今にもそのドアが開いて──
……。
…………。
「?」
入ってこない。気配は部屋の外に留まったままだ。
私はランプを掲げてドアを薄く開いた。
アレクがいた。
部屋の前に椅子を置いて、毛布を羽織って陣取っていた。
何をしているんだろう。
「……こんばんは」
「やあ」
「なにをしているの?」
「いや、一応見張りをと思って。誰も来ないだろうけど」
こういう人だった。
もう……。何だか肩の力が抜けてしまった。
「どうせなら中で見張りなさいよ」
「え? いや、それは……」
「いいから。許します」
手を引っ張って立たせて部屋に招き入れて、鍵をかけたらアレクは首を傾けた。
「あれ、壊れたんじゃなかったの?」
「今直ったの。お茶でもいかが。冷たいけど」
「いただくよ」
アレクに椅子を勧めて、私はベッドに腰かけた。
両手でカップを温めてお茶を飲む。やっぱり冷たい。当たり前だけど。
熱源が欲しいわ。人肌でいいから。
「……」
無言の時間が続く。アレクも両手でカップを包んで、チビチビと少しずつお茶を含んでいる。
私は気になっていたことを聞いてみた。そう、確認しておかないと。
「……出て行っちゃうの?」
「えっ」
アレクは跳ねるように顔を上げて私を見た。
心底ビックリしたという顔をしていた。
「え、どこへ? 君が出て行けというなら仕方ないから考えるけど」
「だって、工場が上手くいって……。ここから通うのは大変だし……。それに、ご実家にも顔向けができるじゃない。いつまでも家出したままじゃ、いられないでしょ……」
「何だ、そんなことか」
アレクは首を振った。
「実家には帰らないよ。成功したから帰るとか、そういう話じゃないんだ」
「なんで? いつか言っていたじゃない。平民になろうとしたけど反対されたから家を出たって。今の貴方なら貴族のままでもやっていけるでしょ?」
「僕が成功したというならね、君のおかげだ。実家は関係ない。戻ったところで……」
アレクは目をそらして壁の方を見つめてしまった。
「……ねえ、ちゃんと聞いていなかったけど、ご実家で何があったの? お父様と関係が悪かったの?」
「いい悪いで言えば悪かったけどね。……期待していたなら悪いけど、ドラマチックな話は何もないよ」
「私はゴシップ的なことには興味がないの。貴方のことだから聞いているの」
「……。……知っての通り僕の父は王家から婿入りした、現陛下の弟だ」
「そうね。それは誰でも知っているわ」
「父は何と言うか……自意識過剰な人でね。個人的な資質は多分あったんだろう。実際先の戦争では従軍もして勇敢なところを見せたそうだ。それがかえって悪かったのか……はっきり言えば思い上がっていてね。自分の方が兄陛下より優れていると、自分の方が王にふさわしいと、ずっとそう考えていたんだ。きっと子供の頃から、ずっと。陛下には長いことお子様がいらっしゃらなかったからそれも拍車をかけたかもね」
王家のお子様方は年が若い。国王陛下の長男の元婚約者様は公爵家の四男のアレクと同い年だ。
前の王妃様との間に子供ができなかったからだ。それが二十数年前、ようやくご懐妊されたものの大変な難産で、結局母子揃ってお亡くなりになってしまうという悲しい出来事があった。
「でもね、多少能力があったところで残念ながら人間性が最悪だ。感情のコントロールができない人で、目先の自分の利益、自分の考え、自分の気持ち、そういったものが満足されないと烈火のごとく怒りだす。王になれなかったことへの不満でいつもイライラしているせいで臨界点は異様に低い。口から出るのは自分の自慢話か人の悪口ばかりだ。やたらと攻撃的で人を貶めるようなことを好んで言う。自分の経営が失敗すれば誰かに覆いかぶせる。人の事業が成功していれば妬んで妨害する。地位と権力だけはある人だから誰も逆らえない。家臣たちは皆戦々恐々としているよ」
え……、そんな絵に描いたような駄目な貴族が本当にいるの?
「対して陛下は人当たりの良さで知られた方だ。人をその気にさせるのが上手く、利害を調整して誰もが得をしたと思わせる名人だ。陛下を嫌う人はいないだろうし、利害の面でも誰もが陛下に任せれば何とかなると考えている。つまり政権は盤石だ。でももし父が国王になっていたら、今頃この国はなかったかもね」
「あの、貴方のお父様をあまり悪くは言いたくないんだけど……。何と言うか、その……そうね、私のところにいた令嬢たちみたいな方ね」
「本当にただつまらないだけの人だよ。もし前世で治療を受けたら何らかの病名がつくだろう。おそらくは自己愛性パーソナリティ障害と診断されるだろうね。心ある人は離れていってしまって、周りに残っているのはおべっか使いばかりだ。でもこびへつらうというのは自分の利益のためにするものだからね。口ではおもねっていても心の中では舌を出していることだろう。利用してやろうと思っている人ばかりで誰からも愛されていない、そういう人だ」
アレクの話を聞いていたら、何だか少し胃が痛くなってきた。
常に自分ファーストで自分が最優先って、まるでどこかの誰かさんみたいじゃない。
おなかを撫でていたらアレクは不思議そうな顔で私を見た。
「どうしたの?」
「いえ、少し耳が痛くて」
「何か重なるところがあったかな? 君はいつも誰かの利益になるように行動しているじゃないか。父とは正反対だよ」
「そうだったかしら?」
アレクの過大評価のおかげで逆に少し落ち着かない。
「君の家は家族全員仲がいいじゃないか。うちとは逆だよ。君が父と同じならそうはならない。……僕の一番上の兄は跡取りとしての教育を受けて貴族社会にもそのように紹介されていたんだけど、父に随分と締め付けられてね。人前で失敗をあげつらわれたりとか。『お前のような者には任せられない』と何もさせてもらえなかったし。親の言うなりに結婚もしていたんだけど、奥様に愛想をつかされて離婚したのがとどめだったね。もうすっかり心が折れてしまって、今は故郷の公爵領に引きこもっているよ」
「ねえ、お父様は何でそんなことをされたの?」
「嫌だったんだろうね。公爵の位を奪われるような気がして」
「……待って、いずれ譲ることになっていたのよね? それが何で奪われることになるの?」
「何一つ他人に譲りたくない人だからだよ」
「理解できないんだけど」
「そういう人なんだ」
貴族は家を継続することが重要だ。一番大切な仕事と言っていいだろう。だからこそご自分も婿入りされたわけなんだし。
それが何でそういう思考になるのか、本当に理解できない。
「次兄は遊び人として有名だったね。子供が産まれて落ち着いたけど」
アレクが言う通りの方だった。何しろアレクのお兄さんだけあってかなりの美形で、それはもう大変におモテになられたそうだ。年が離れているから伝聞でしかしらないけど。
ずいぶんと多くの恋人がいらっしゃったそうだけど、数年前とある子爵家に婿入りされた。当時は「公爵家のご子息が、何故あんな小さな家に」と世間を驚かせたものだ。
「不良の真似事をしていれば父の気を引けるだろう? でも自分の家族ができたら父のことはどうでもよくなったみたいでね」
「ああ……」
「あの兄の心を溶かす人が現れて嬉しいよ。上の二人がそんな感じだから、三番目の兄は自分が次の公爵だと息巻いているよ。父の小さなコピーだね。行きつく先も同じだろう。まあ、似た者同士で仲は険悪だけど」
「それじゃ、アレクは?」
「僕? 僕は前世の記憶のおかげか早い段階から自我があったからね。そんな家族に飲み込まれることもなかった。でもすっかり嫌気が差していたから家を出たんだ。そうだね、仮に今、僕が工場を成功させたと聞いたら父はきっと怒り出すことだろう」
「え……何で? 喜んでくれるんじゃなくて?」
「自分の所有物が自分と関係ないところで成功したら自分が間違っているみたいに感じる人だからだよ」
「ごめん、まったく理解できない」
「それが普通の感性さ。母もすっかり愛想をつかして兄と一緒に公爵領にいるよ」
「……あまり人の家のことをとやかく言いたくないけど、不健全じゃない?」
「返す言葉もないね。……まあ、そういうわけでね、劇的な理由なんてものはない。誤解とか子を想う親の気持ちとのすれ違いとか、そういうのじゃない。あそこにいても本当に人生を無駄にするだけだから家を出たんだ」
「そうなの……」
「父が求めているのは服従でしかない。あの人が考えを改めるなんてことはないし、僕はあの人に従いたくない。親子の和解なんてものはない」
「……」
「だから帰るという選択肢はないよ。成功したというならなおさらね。もちろん男爵のところに引っ越すこともしない。君の兄上はどうやら上手く取り計らってくれているようだけど、あちらに行って父に知られでもしたら面倒なことになるからね」
「うん。それなら是非、ここにいて。アレクがいなくなったら寂しいわ」
「……嬉しいよ」
厳しい表情だったアレクの顔が私の一言でようやくほころんだ。私もほっとした。
良かった、いなくなっちゃったりはしないんだ……。
でも、そこで心のメグがひょっと顔を出した。
『安心しとる場合でねえべ』
『何が?』
『今回は良かったけんども次も同じとは限らねえべ。本当に出て行くつもりだったなら見送らなけりゃなんねえどもな、そうでねえならためらっとる場合でねえ。今こそ体を使う時だべ!』
『もう、だからなんでいつもそっちの方にいくの!』
心の中で問答していたら、アレクは不思議そうな顔で私を見た。
「どうしたの?」
「あ、いや、何でもないの。こっちの話」
また沈黙が落ちた。
ど、どうしよう。次──次なんてものがあったら困っちゃう。引き止めたいのならそうなる前に行動しないと。メグの言う事はあれでも一理ある。いや一里はないかな? 半里くらいはある。受け入れがたいけど。
ま、待って、まずは意志を確認するんだったよね?
私はゴクリと唾を飲んだ。
それでも悩んで、悩んで……。すごくすごくすごく長い間躊躇して。
私はようやくその言葉を吐き出した。
「私のこと、どう思ってる?」
き、聞いてしまった……。
アレクはいつもと変わらない調子で答えた。
「侯爵家のご令嬢で、今は隠居の身の──」
「そうじゃなくて! 女の子として、どう思っているの?」
「好きだよ」
思ったよりストレートに来た!
「ど、どこが好き?」
「全部」
「具体的には?」
「だから全部。好きって気持ちに理屈はいらない」
……り、理系のくせにぃ!
「逆に聞くけど、好きでもない子のお願いをあんなに何でも頑張ると思うかな」
「……」
私も鈍かったわ。
人と人とはみんな違っていて考え方も感じ方も違うのだから、言わなければ伝わらないことの方が多い。
アレクはちょっと極端だけど、これじゃ私だって大きなことは言えないわ。私たちって似た者同士だったのかもね。
「お願い……。そうね。ねえ、本当に私のお願いなら何でも聞いてくれる?」
「可能なことなら何でも」
「そう……。それじゃ、こっちに来て」
手招きして呼び寄せた。
アレクは言われた通りにこちらに来た。
「座って」
ベッドの、私の隣のスペースをポンポンと叩いた。
アレクは言われた通りにした。
「ねえ、もっとくっついて」
言いながら私はアレクに体を寄せた。
アレクも同じようにした。硬い筋肉の熱が伝わってきた。
「だ、抱きしめて……」
アレクは要望に忠実に応えた。ひゃあああ……。
「……」
「……」
「ここにいて」
「うん」
「ずっと私の傍にいて」
「君が許す限りいつまでも」
「私のこと、好き?」
「好きだよ」
「私もよ。貴方のことが好きなの」
アレクの体に腕を回して力を込めた。
アレクも同じ力で返してきた。
でも、そこで私は停止してしまった。この先に進む、ゆ、勇気が……。
抱きしめる腕に一瞬力が込もった。
かと思ったらすぐに離された。あれ、何で?
アレクを見たらアレクも私を見ていた。
私たちは見つめ合っていた。
そ、そんな真剣な目で見つめられると、ど、動悸が……。
「ここから先は僕がお願いしてもいいかな?」
「お、お願いします……」
「それじゃまずは、目を閉じて」
そう言ってアレクが顔を近寄せてきたので、私は言葉に従った。




