私は、私
私は誰だっけ?
ここはどこだろう?
私は知らないところをさまよっていた。
家の中……だと思う。技術力が高くて、床、壁、天井のすべてが水平で直角でまっすぐ。それに隅のつなぎ目が見えない。
その壁は知らない素材でできていた。触れてみたら布と革の中間のようだ。本当に何なのかしら、これ。
床は木のようだけど、ワックスでもかけているのかよほど丹念に磨いてあるのか、ツヤツヤしている。
というか、この光源は何? ろうそくでもランプでもない。未知の白い光で照らされて、屋内だというのに昼のようだ。
壁には一枚の鏡が掛かっていた。見たこともない大きな鏡だ。
私は鏡を覗き込んだ……
鏡の中の私の顔は──『私』だった。
はっ。
目を開くと天井が見えた。見慣れた木目の、少し煤で汚れた天井だ。
そして視界の両側から、アレクとメグが心配そうにのぞき込んでいるのも見えた。
「大丈夫?」
「変なもんでも食ったんだべか?」
私はすぐには答えないで、髪の毛を探って引っ張ってみた。
頭皮に感触があった。うん、やっぱり私の髪だ。
その髪を自分の目の前に持ってきてみた。うん、亜麻色の髪だ。生まれた時からの自分の髪。そういえば兄も弟もこんな色の頭だ。あれー、何で私は自分のことを黒髪黒目だと思っていたんだろう。
「うん、平気。大丈夫よ」
私は体を起こした。手を握ったり開いたりしてみた。うん、私の手だ。思っていたより指が長い。
「……夢でも見ていたみたい。私、自分のことを背が低いと思っていたの」
「君は女性としては背が高い方だよ。平均より……えーと、前世の単位で言えば10センチは高い」
「それに髪の毛も黒くて目も黒くて、肌も汚くて」
「ご覧の通りさ」
アレクはもう一度鏡を見せた。鏡の中の私は、うん、やっぱり私。
「どうしてそんな風に思い込んでいたのかしら」
「僕は専門家じゃないからはっきりしたことは言えないけど、恐らく自我同一性が揺らいでいたんじゃないかな」
「あいでんてぃてぃー?」
「自分と自分がバラバラになってしまっている状態だ。前世の影響を受けすぎていたんだろう」
「あー、うん。多分それ」
ゆっくりと立ち上がってみたら、なんだか視点まで高くなったようだった。
どれだけ前世に引きずられてたんだろう、私……。
生まれ変わって十七年も経って、私はようやく『私』になった。
どうやら私はずっと前世の記憶に引っ張られていたようだ。前世の亡霊に憑りつかれて頭がおかしくなっていたと言ってもいい。恐ろしい話だ。
まあ、前世を思い出したのは五歳の時だったしね。五歳の私よりも十五歳の私の意識の方が強くても、それは仕方がない。
でも、前世の影響も悪い事ばかりではない。前世を思い出していなかったらこんなに綺麗好きじゃなかっただろうし。
ということは普通の令嬢と同じくこの世界では普通の、はっきり言って不潔な生活をしていたことだろう。恐ろしいわ……。
もし前世の記憶を取り戻していなかったら、私は生まれ相応の嫌な女に──いえ嫌な女と言っては可哀想ね。周りからチヤホヤ育てられて特に何も疑問に思わない、思慮の足りない女に育っていただろう。元婚約者様を見ていたらわかるけど、きっとそうなっていた。
前世の私は食べることが大好きでバクバク食べまくっていて、でも上には伸びないで横にばかり大きくなっていた。ブサイクな固太りのチビだった。
そのせいなのか、根っこのところで自信がない性格だった。卑屈で、いつも人の顔色をうかがっていて……。
だったら痩せればよかったのに、それもできなかった。多分ストレスで過食に走るという悪循環に陥っていたのだと思う。
前世を思い出した卑屈な私はずる賢かった。目上の人の前ではその人のお気に召すように振る舞っていたし、目下の人には寛容で公平に接していた。愛されるということは何よりも強い武器だと知っていたから。この村に引っ込む前の私が飾らずに接したのは母と弟くらいなものだ。
前世を思い出さなかった傲慢でおバカな私はきっと、愛してもいない王子様を争って聖女と対立していただろう。
それじゃまるで、本当に悪役令嬢じゃない!
うん、私は元婚約者様を愛してはいなかった。お風呂うんぬんを置いておいても、王子様ってタイプじゃなかったのよね。なんというか、高貴な身分に生まれついた人特有の傲慢さがあるというか……。
いえ決して悪い人ではなかったんだけどね。ここは階級社会だからそういうのが当然だったし。それに生まれた階層とは無関係にそういう人はいるし。無意識に人をランク付けして侮る感じの人。
聖女なら王子より格上だから大切にしてもらえるだろうけど、私なんて侯爵令嬢だったから、下に見られている感じがありありと伝わってきていた。いくらおバカな私でもいい気分はしなかっただろう。
聖女とケンカしたって勝てるわけがない。馬鹿な私は結局は婚約を破棄されて、都から追放されて、どこかに幽閉されたことだろう。温泉が湧いているのだけがとりえの、世界の果てみたいな寒村とかにね。
そしてある日その村に一人の貴公子が現れる。どこかの公爵家の家出息子が、温泉を求めてやって来るの。
確信がある。違う私もきっと同じ人に恋をした。
これは運命なんだ。
自分と自分が一致した今ならわかる。私ってとっくにアレクのことが好きだった。
そして自分が自分になった今だから自信を持って言えるんだけど、私って自分でもびっくりするほど男性の顔にこだわりがなかった。
毎日見るものなんだから綺麗な顔じゃないと嫌だって意見はわかる。
毎日のおしゃべりがつまらないのは嫌だからトーク力を重視するっていうのもわかる。
他にも地位とか家柄とか財産とか、それは人それぞれにこだわりがあるわよね。
で、私の好みを言えば、信頼感ね。人柄と能力の両面で「この人になら自分のすべてを任せても大丈夫」っていう信頼がなければ相手として見られない。たとえば父や兄のような、ね。
今まで気がつかなかったけど、私って実はファザコンだったみたい。でも父や兄では恋愛にはならない。
父や兄以外の男性で、この世界にアレクほど信頼できる人っている? 人格面でも能力面でも。
アレクは何を言っても何をしても、私のすべてを包み込んで受け止めてくれた。
大きな樹のように頼りがいがある、理想の男性だ。
それに現実的な話として、この田舎の家で暮らしてくれる人ってアレクくらいしかいないと思う。
え、ジャック君? 年下はちょっと……。
将来もし誰かと結婚、なんて話になったとしても、私はこの温泉から離れるつもりはないからこの家で暮らすことになる。
それで相手の男性は、仮に一度は来てくれても田舎暮らしが嫌になって出て行ってしまうかもしれない。タナー男爵の奥さんみたいに。
前に母が言っていた通り、アレクより条件のいい相手が現れることなんて絶対にない。同じ価値観を持っていて、田舎暮らしがへっちゃらで、財産や家柄目当てじゃなくてありのままの私を見てくれて、私のわがままを何でも叶えてくれる男性なんて、他にはいない。
アレクを逃したら私に次はない。
……でも、アレクの方は私のことをどう思ってるんだろう。嫌われてはいないと思うんだけど。
いやでも、それもこの家にいるための手段としての態度だったら?
それに、逆に考えてみたら……。
散々アレクのことを話がつまらないだの意味がわからないだのと言ってきたけど、ね。
もしかして、私ってアレクにとっては物足りない女じゃない?
だって私はアレクの難しいお話をちっとも理解できない。きっとアレクはああいう話題で会話のできる相手を求めているだろう。
他の女性よりはマシだと思うけど……。でも、ただうんうんうなずくだけなら誰でもできるし。
ああ、ちゃんと勉強しておけばよかった。いえアレクの話は明らかに前世の私の履修範囲を超えているんだけど、それにしても。前世の私って食べることしか興味がなかったから……。
やっぱり今の私とは別人だわ。
あー、聞いてみたい!
でも女の方からそんなことを言うなんて、そんなはしたない真似できないわ!
うー……。
な、なんとか……。
なんとかアレクの方から「愛している」と言わせることって、できないかしら?




