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鏡よ、鏡

 窓にガラスが嵌ってからもアレクは忙しそうにしていた。向こうの村と行ったり来たりしたり、「称賛は押すと割る」とか本気で意味のわからないことをブツブツ呟いていたり。かと思ったら畑の方をひっくり返してみたりしていた。何をしているんだろう。


「ちょっといいかな」

 その日の朝、出がけのアレクはソワソワしながら尋ねてきた。ウキウキしているようにも見える。どうしたんだろう。

「なぁに?」

「お小遣いをくれないだろうか」


 ……突然変なことを言い出した。


「なんなの、欲しいものでもあるの?」

「うん。銀が欲しいんだ」

「それなら……」


 確かここに入れておいたと思ったんだけど……あった、あった。私はチェストの引き出しから銀貨を一枚出して、アレクの手のひらに乗せた。


「はい、これでいい?」

「うん、これが欲しかったんだよ! ありがとう。それから君、ジャムを作っていたよね」

「ええ」


 板ガラスより前にアレクがガラス瓶を作ってくれていた。せっかくなので私は砂糖とハチミツがたっぷり入ったリンゴジャムを作った。

 リンゴに限らず果物全般がそうなんだけど、この世界では品種改良がまだ全然進んでいなくて、前世のものよりずいぶんと小ぶりで、酸っぱい。ジャムにするにはちょうどいいけど。


「分けてもらってもいいかな?」

「どうぞ」

「ありがとう! これで何とかなりそうだ。それじゃ行ってきます」


 ジャムの瓶をひとつあげたら、アレクは嬉しそうにそれを抱えて家を出た。

 銀貨とジャム? 何かの符号?

 本気で意味がわからない。何なんだろう。


 ──ということがあったのが一昨日のことだった。

 今日のアレクはお昼過ぎにはもう帰ってきた。布に包まれた平らな板を抱えて、何だかニコニコしている。


「あら、お帰りなさい。今日は早いわね」

「うん、用事が済んだんでね」

「工場のこと? もうあっちの人だけでもできるでしょ。行かなくてもいいんじゃないの?」

「板ガラスやランプはね。他の物を研究していたんだ」

 と言ってアレクは持っていた包みを掲げた。


「なに、それ」

「君のために作ったんだ。この世界にあるもので何とかするのは大変だったけど、ようやく満足できるものができたよ」

「私のため? あら、それはありがとう。なにかしら」

「この世界にはまだないものさ。これを作るために僕はまず硝酸を作った」


 アレクはもったいぶって中身を言わなかった。それにしても称賛って、何のこと?


「称賛?」

「日本語はやめてくれないかな? 硝酸ね。代表的な強酸だよ」

「押すと割れるとか言ってなかった?」

「日本語はやめてくれないかな? オストワルト法ね。あれは触媒に白金を必要とすることを思い出したから諦めた。この世界では無理だ」

「はあ。よくわからないけど、じゃあどうやって作ったの?」

「古典的な手法に頼ったよ。皮なめし用のミョウバンと硝石を混合して蒸留すると硝酸が得られるんだ」


 あ、久しぶりに始まっちゃった。

 やれやれ、仕方ないか。私はアレクのオン・ステージに付き合ってあげることにした。


「硝石って、なに?」

「硝酸カリウムの自然結晶だよ。アンモニアを古細菌が分解するとできることがある。ほら、夏になる前にコンポストを作ったよね。あれは実は硝酸カリウムの培養法とそっくりなんだ。あるんじゃないかと思って探してみたら、見つけられた」

「それで畑の方をひっくり返していたのね。ジャック君の真似かと思ったわ」

「僕は彼のようにはできないから自分のできることをするよ。それで、次に馬の尿を加熱してアンモニア水を作った。粗製だけどね」

「なにそれ、臭そう」

「実際とても臭い。さて、硝酸水溶液に銀貨を入れると銀が溶けだして硝酸銀水溶液になる。この硝酸銀水溶液にアンモニア水を加えると銀のアンモニア錯イオンが生じる」

「……なにそれ、魔法の呪文?」

「化学の言葉さ。高校で学んだだろう?」

「私そこまで習う前に死んじゃったし」

「……申し訳ない」

「別に気にしなくてもいいけど。過去のことだし」

「過去のことか。そうだね、僕ももう前世のことはほとんど思い出せない。人の顔や名前、住んでいた町や通っていた学校のことは日々色あせてゆくばかりだ。親の顔も、それどころか自分の顔も忘れてしまった。思い出そうとしてももう今の顔に置き換えられているんだ。思い出せるのはこういう知識ばかりだね」


 そしてアレクは頭を振って、気を取り直したように言葉を継いだ。


「このアンモニア性硝酸銀水溶液に還元糖を加えて穏やかに加熱すると──ああ、還元糖は例えばブドウ糖や果糖だ。ショ糖……砂糖は非還元糖だけど、果物の酸を加えて緩やかに加熱すると加水分解されてブドウ糖と果糖になる。転化糖というんだけどね。つまりちょうどリンゴジャムが代わりになる」

「よくわからないけど、それでどうなるの?」

「ごめんごめん。すると銀が沈殿する。平たく言うと銀メッキになる」


 呆れてしまった。


「なんだかもう、本当に魔法ね」

「この世界の住人の理解だと神の御業だね。おかげであちらでの僕は聖女の同類だと思われているよ」

「この村の人たちもそう思っているわ。それで、その魔法で今度は何ができたの?」

「この反応を銀鏡反応と言うんだけどね。銀鏡反応でできるものと言ったらもちろんこれさ」


 アレクは包みの布をさっと取り去った。

 それはどうやら板ガラスに銀メッキを施したもののようだった。歪みなく部屋の中を映して返すそれは、要するに、かが、み……


 私はとっさに視線をそらした。


 視界の端っこでアレクは嬉しそうに鏡を私に向けている。


「特にアンモニア水の精製が上手くいかなくてね。ずいぶんと時間がかかってしまった。女性には必須だろう? でもこの世界には性能の低い金属鏡しかないからね。君へのプレゼントだ。受け取ってくれると嬉しい」

「……」


 やめてよ、ずっと自分の見た目からは目をそらしていたのに。

 直視できなくてやっぱり顔を背けていたら、視界の端のアレクがいぶかしそうな顔を作った。


「どうしたの?」

「……自分の姿なんて見たくないわ」

「どうして」

「だって……何度見たって私はチビでデブのブサイクなんだって、気分が落ち込むもの」

「チビ……? 君は女性としては背が高い方だと思うけど。決して太っているようにも見えないし」


 アレクはおためごかしを言った。お世辞にしても何を言っているんだろう。目がおかしいんじゃないかしら。


「やめてよ」

「……待ってほしい、君が何を言っているのかわからない。鏡は持ってる?」

「もちろんよ」


 こんな前世的な鏡じゃなくていわゆる銅鏡だけど。大きさは直径で15センチくらいしかないし、金属の色がついているし、曇っていて映りも良くないけど。自分の顔がよく見えなくてちょうどいいの。


「見てないの?」

「毎日見ているけど」

「だったら何故……自己認識がおかしいのか? ごめんよ、君に触れる無礼を許してほしい」


 アレクは私の髪を一房手に取って、目の前に突き付けてきた。


「これが君の髪だ。黒く見えるかな?」

「もちろん、黒……」


 く、なかった……。柔らかに光を弾く亜麻色の髪がアレクの手のひらの上にあった。


「え……これ、本当に私の髪?」

「もちろんだとも」


 髪を受け取って引っ張ってみた。

 頭が引っ張られた。

 本当に私の髪の毛みたいだ。


「これが君の顔だ」


 アレクは私の顔の前に鏡を持ってきた。ああ嫌だ、どうやってもまっすぐになってくれないちぢれっ毛の黒髪なんて見たくは──


 ……鏡に映っていた人物は黒髪ではなかった。縮れ毛でもない。憧れのサラサラストレートだ。

 腫れぼったい一重の黒目──でもない。すっきりと大きな目で、瞳はハシバミ色。まばたきしたら鏡の中の人物もまばたきした。

 鼻ぺちゃでもないし下ぶくれでもない。ニキビもそばかすもないし地黒のガサガサ肌でも下唇の厚いへの字口でもない。知らない人が私を見つめていた。


「……これ、誰?」

「君だよ」

「ねえ、メグ」


 アレクはどうもおべっか使いだったみたいだから、当てにならない。私は隣にいたメグに聞いてみた。


「何だべか」

「私って、こんな顔だったっけ」

「何言っとるだ。ずっとその顔だべ」


 メグはそう言うけれど、これは私の顔ではない。


 でも、鏡を覗き込んでいるのは私で……。


 私は、私で……




 私は────誰?




 わけがわからなくなった私はひっくり返って椅子から落


あけましておめでとうございます。

新年ですので気分も新たにタイトルを更新してみましたが中身は変わりません。

今年もよろしくお願い申し上げます。

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