眠れない夜
明かりを消してしまうと本当に真っ暗だ。
真っ暗だけど、気配というか体温というか、部屋の隅に確かにアレクがいるという感覚がある。
信じられない、同じ部屋の中に同世代の異性がいるなんて……! 未婚のレディが、ありえないんだけど!
別棟の一線や床板の線どころじゃない、淑女として越えちゃいけないラインを大きく越えてしまっている。
ど、どうしよう、襲われちゃったりしたら逃げ場がない。声でも上げてエマがやってきたりしたらとんでもない大騒ぎになる。
でも、一応抵抗した方がいいのよね?
正解がわからない……。
緊張するわ……眠れるかしら?
アレク、信じているからね……!
……信じているけど、万が一のことを考えてシミュレーションしておこう。
えーっと、私がしどけなく眠っていたらアレクがベッドの上に上がってくるでしょ? 腕なんか押さえられちゃったりして……。そこからどうやって逃げるかって言ったら……。
……あ、詰んだ。
……え、本当に逃げ場なくない?
ど、どうしよう……。
こうなったら、もう……。
……あ、駄目だ。今日の下着、かわいくない……。
ど、どうする……?
どうしよう…………。
…………。
……。
(スヤァ……)
……。
……私はベッドの上でグーっと伸びをした。爽やかな眠りだった。
あー、よく寝た。普段と変わらなかった。まあアレクに女の子の寝込みを襲うような度胸があるわけ──おっと失礼、貴公子がレディに無礼を働くわけがなかったわ。
「おはようアレク、朝よ」
窓の雨戸を押し開けながら声を掛けたら、床の上で丸まっていたアレクは眩しそうにこちらを見た。
「……ようやくウトウトし始めたところなんだ。申し訳ないがこのまま眠らせてくれないだろうか」
「ちょうどいいから隠れておいて」
「助かるよ……」
私はまた雨戸を閉じた。ガラスなんてないから窓は板張りの雨戸だ。雨戸を閉めていたら真っ暗だもの。昼も夜も関係ないわ。
でも、いくら暗いからってアレクがいるところで服を脱ぐ気にはならなかったので、脱衣場で着替えた。
それから私は外に出て、パン窯に火を入れた。焼きたてのパンを食べてもらおうと思ったのだ。
朝食は簡単にパンとバターと果物、それと緑茶だけのコンチネンタル式にした。
「どうぞ、お召し上がりになって? わたくしの自慢のパンですのよ」
「では……」
エマはパンを手に取って、その感触に驚きの表情を見せた。ふふ、効いてる効いてる。まあ淑女だからすぐに表情を繕ったけど。
そのパンを二つに割ってまた驚いて、口に含んだ瞬間驚きはもはや隠しようもなくあらわになっていた。
「え……。何ですの? これ……」
私は得意満面の笑顔で答えた。
「パンですわ」
「いえ、それはお伺いしましたけれど……これが本当にパンですの?」
「これが本当のパンですわ」
「素晴らしいですわ……」
エマは本当においしそうにパンを食べて、二つ目に手を伸ばした。私はそんなエマの様子をニコニコしながら見守った。
エマはナプキンで口元を拭いて、居住まいを正した。
「失礼ながら、セシリア様ともあろうお方がどうしてこんなところに──と思っておりましたけれど……。浴室も、御不浄も、それからパンも。ここは都よりもずいぶんと進んでおりますのね。何故セシリア様がお戻りになられないのか、少し理解できたように思います」
「貴女にはご理解いただけると思っておりましたわ」
「それにここでは令嬢たちに悩まされることもございませんし」
「……貴女には見透かされているような気がしておりましたわ」
柔らかいパンの布教に成功した私は快くパン種を分けてあげた。メイドはパン種の入ったガラス瓶を大切そうに抱きしめていた。彼女にもパンを食べさせてあげたら衝撃で震えていたからね。きっとエマの実家でも広めてくれることだろう。
朝食後、エマはいよいよ帰ると言った。ああ、何だか残念だわ。いっそエマもこの村に引っ越して来ればいいのに。
その時エマは一つ打ち明けごとをした。
「実は、ある方にここに参ると申し上げたら、セシリア様には都にお戻りになるおつもりがおありかどうか、確かめて欲しいと頼まれておりましたの。無理ではないかと申し上げたのですけれど」
「あら、どうしてですの?」
「セシリア様はきっとお辞めになりたくてご婚約を解消されたように思っておりましたので」
「貴女だけには見抜かれているような気がしておりましたわ。それで、どなたのご依頼でしたの?」
「レディ・エレアノールですわ」
え……公爵令嬢? 意外な名前が出てきた。
「セシリア様がいらっしゃらなくなって、ずいぶんとお寂しそうですのよ。近頃はお辛いこともあって、すっかりふさぎ込んでしまわれて……。よろしければお手紙だけでも差し上げてくださいませ」
「ええ……。そういうことでしたら、今度結婚式がございますでしょう? わたくしも出席することになっておりますので、その折に機会を設けてお会いさせていただくことにいたしますわ」
「是非そうされてくださいませ」
荷物とおみやげを馬車に積み込んで、いよいよ出発と言う時になってエマは何だか戸惑っている様子だった。どうしたんだろう。
「あら、どうなさいましたの? なかなかお会いできないのですから、おっしゃりたいことがあったらおっしゃって?」
「いえ……。こんなところでまさか、と思ったのですけれど……」
エマはそれでもまだ言いにくそうにしていた。
「何ですの?」
重ねて促すとエマはようやく意を決した様子で口を開いた。
「──セシリア様、もしかして、お好きな方でもおできになりましたの?」
「はえっ?」
へ、変な声が出た! 嫌だわ、せっかく淑女らしくしていたのに。
「ど、どうしてそんなことを思われましたの?」
「都にいらっしゃった頃よりもずいぶんとお幸せそうに見えましたもので」
「……まさか! この谷の空気が合っておりましたのよ、きっと」
「そういうことにしておきますわ」




