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元悪役令嬢は静かに暮らしたい

「ふう……」

 手を伸ばすとちゃぽんとお湯が跳ねた。


 私の朝は入浴から始まる。流しっぱなしのお湯は一日中適温で、いつだって入れるもの。

 お風呂は西向きに開いていて、視界の果ての湖面が空を映して青い。

 電気もガスもガソリンも──便利なものは何もない世界だけど、そういった余計なものが入り込まないおかげで、風景だけは本当に綺麗だ。


 私の家は村の一番西外れにある。ここから急な下り坂になっている上にお湯が湧いていて、住居が湿気るというので村人たちは嫌がって、誰も家を建てなかったのだ。

 くっ、このお湯の価値がわからないなんて……これだから異世界人は。でも、おかげで私がお湯も景色も独占できるというものだ。


 隠居先を決めて、家が建つまで一か月。引っ越してきてから二か月が経った。聖女に婚約者を譲った私は悠々自適の生活に入っていた。

 不労所得で毎日温泉三昧の隠居生活よ。十六歳にしてFIREを実現したわ。


 お湯の中で思いっきり伸びをした。あー、くつろぐ。

 元々の生活水準が低いから、都でもここでも本質的な差がないのよね。温泉がある分、むしろこっちの方が上?


 この生活を知ってしまったら、もう人間関係が面倒くさいだけの宮廷生活なんてまっぴらだわ。


 お風呂上りにはのどかな農村を散歩してみたりする。

 ほてった体に谷風が涼しい。湯上りにはぴったりね。


 ここは谷間の村で東西に細長い。この村の向こうには山しかないし、その山の向こうには何もない。この国のどんづまりだ。

 南にずっと行けば地図上は海に当たるはずだ。西側の湖の、さらにずっと遠くにはもしかしたらまた違う国があるのかもしれないけど、この村からその想像上の国に行くルートは発見されていない。


 この世界って前世と暦が違うんだけど、今は日本で言えば三月頃かな?

 この村の主な作物はジャガイモと豆、ときどき蕎麦。そろそろジャガイモの植え付けが始まっていて、村人たちが段々畑で背をかがめて働いているのが見える。

 私も庭に作った小さな畑に豆を蒔いたりしてみたの。


 私今、丁寧な暮らしをしているわ。




 私だけじゃなくて村全体がこんな感じで、時間がゆっくり流れている。

 あんまりにも刺激がないものだから、ちょっとしたニュースでもみんなすぐに飛びつく。

 干していたジョディーのショーツが風に乗って飛んで行ってしまったとか、ジョズの家の犬が子供を五匹産んだとか、そんな話題でもその日の夕方には村中誰もが知っている。


 だから行き倒れが救助されたなんて、村を揺るがす大ニュースは朝のうちに村人たちの間を駆け巡った。


「今、馬小屋で寝かせるそうだべ」

 朝食中の私に我が家のメイドのメグは面白くもなさそうに言った。メグは近所の農家の娘で、訛りが強くて何を言っているのか時々わからない。

「腹が減って動けなくなっちまっただけみてえなんだな。イモ食わせたって話だぁ」

「ふーん、そうなの」

 私にとっても特に面白い話ではない。生返事で答えた。


 この村へ来る道は二本しかない。メインの道でも荷車が一台ようやく通れるかどうかという山道で、もう一本は獣道みたいな峠道だ。

 行き倒れの男はそちらから来たようだ、とメグは言った。

「何をしに来たのかしらね」

 こんな何もない村に。メグは私の呟きを拾った。

「さあ……。イモの買い付けにでも来たんでねえべか?」

「この時期に? 駄目な商売人ね」


 この時点では私には興味のない話題だった。


 ところで、侯爵家にいた頃には私付きのメイドというのがいた。メグと違ってメイドとしての教育をきちんと受けた、忠実な女たちが。

 でも、彼女たちって将来は私と一緒に王宮に入ってそのまま王妃付きの侍女になろうかという、できる女たちだった。

 いくら侯爵家だってそんな気の利いたメイドがホイホイ用意できるはずもない。私のメイドたちは全部聖女に譲り渡してしまって、私は身一つでここに来た。

 本音を言えば、隠居生活にできる女なんていらないの。息が詰まるわ。

 ここに来てから雇ったメグは巨体の田舎娘で、彼女たちと違って雇い主への忠誠とか敬意といった心は皆無だ。


「こっち来んでねえべや! あっちさ行くべ!」

 そのメグがけたたましい大声をあげている。体も大きければ声も大きいのよね。朝食後の安息の時間を邪魔しないで欲しいわ。


 声は門の方から響いている。私は窓から身を乗り出して聞いてみた。

「何の騒ぎ?」

「あ、ご主人、顔を出さねえでけろ!」

 メグは顔だけこっちに向けて叫んだ。門の向こうにいる男を押しとどめているようだった。

 相手は全身藁と埃にまみれた薄汚れた男で、着ているものもボロボロだ。あー嫌だ嫌だ、見ているだけで体が埃っぽくなりそう。


 その浮浪者は私を見て何故かとてもびっくりしていた。

「あれ、君は……」

 知らないわよ。


「誰、それ」

「例の行き倒れだべ」

「行き倒れ? それが何の用?」

「腹がくちくなっちまったら、今度は風呂さへえりてえって押しかけてきたんだべ」

「はあ?」


 私の大切なお風呂に、どこの誰とも知れない男が?

 ダメ、絶対。


「メグ、家に入れちゃ駄目よ!」

「もちろんだべ。ほれ、さっさとけえれ!」

 メグは男をののしりながら、長い棒の先に布を結び付けて高いところで振り回していた。

「それ、何してるの?」

「オヤジと兄さを呼んどるだ」


 多分それが合図になっていたのだろう。川向こうの畑にいたメグの父と兄が橋を回って駆けて来るのが見えた。

 昔傭兵をしていたという父は長い槍を持っているし、兄の方は鎖の先に鉄球のついた棒(?)を持っている。

「ちょっと待って、それ本気の奴じゃないか!」

 二人の剣幕に恐れをなした浮浪者は慌てて逃げて行った。




 ……というのが今朝の話だった。

 昼下がり、その男がもう一度やってきた。

 と言っても最初は同一人物とはわからなかったけれど。


 今度の彼はずいぶんとさっぱりしていた。この村はあちこちからお湯が湧いている──私の温泉以外にもね。

 どうやらそのどれかで体を洗って来たようだ。服も少しはマシなものに着替えているし。


 これが本当にあの行き倒れと同じ人だろうか。背の高い、輝くようなプラチナブロンドの青年は、涼しげな笑みを浮かべながら貴族としての礼を取った。


「久しぶりだね、レディ・セシリア」


 ……あれ? 私を知ってるの?

 言われてみればこの人、何だか見たことあるような……?


 考えていたら隣のメグがほんのり頬を染めて叫んだ。

「はれぇー、いい男だぁ!」


 うん、思い出した。トレント公爵家の第四子、アレク様だ。こんなイケメンが他に何人もいるわけない。確か王子様と同い年だったはずだから、私より一つ年上かな?

 兄と交流があったから、実家で何度か顔を合わせたことがある。この世界の男の人にはまるで興味がなかったせいで、口を聞いたことはないけどね。


 とにかくそのアレク公子、一年前に『世界を見に行く』と書置きして出奔──要するに家出してしまっていた。

 三十年ほど前、当時の公爵家には令嬢しかいなくて、なんだかんだあって王弟殿下が婿入りされた。つまりこの方は私の元婚約者様のいとこに当たる。王位継承権も高い順位でお持ちだった。


 そういう身分の方だったから、公爵家はもちろん大騒ぎだったし、社交界でもずいぶん噂になったものだ。

 それが何故こんな地の果てに?


 私としても適当にあしらってしまえるような相手ではない。……既に失礼をしたような気もするけど知らんぷりしておこう。

 私は久しぶりに貴族らしい言葉を使った。


「お久しぶりですわ、ロード・アレク。しかしもうお体はお清めになられたご様子ですし、よろしいのでは?」

 もちろんお風呂には入らせない方向で。でも彼は食い下がってきた。

「湯船に浸かりたいんだ」


 女の一人暮らしの所帯に押しかけてお風呂に入らせろなんて、厚かましいというかデリカシーがないというか常識がないというか……。

 この方ってこういう人だったのね。


「申し訳ございませんが、お断りいたします」

「当然タダとは言わないよ」

「お金なら困っておりませんわ」

「はは、僕はお金に困っているんだ。でも、代わりにもっといいものを進呈しよう」


 そう言って彼は肩にかけていたズタ袋から布包みを取り出した。

 その中から出てきたのは四角い、豆腐を半分に切ったくらいの大きさの、キャラメル色の……正体不明の物体だ。


「何ですの、これ」

「これは遠い異国の『Secken』という物さ。これを使えば汚れがよく落ちる。特に油汚れには覿面(てきめん)だ」


 secken、secken……って、せっけん? 嘘、どんなに探しても見つからなかったのに!

 確かに、言われてみれば、前世で見た昔ながらの製法で作られたせっけんに似ているような気がする。

 もしかして、本当に本物なの?


 ……こ、これがあれば、手洗いや入浴はもちろんのこと、洗濯だって綺麗にできる。


 今までは洗濯には灰の上澄み液を使っていた。かまどの灰を桶に入れて、お湯を注いでかき混ぜて、一晩置いておくと灰が沈む。その上澄み液には汚れを落とす力があるそうで、洗濯に使う。

 でも、上澄みって言ったってしょせんは灰の上澄みだから、何となく濁っている。この液体で洗濯していると白い服もだんだんベージュ色と灰色の中間みたいなぼんやり汚れた色になる。汚れは落ちるのかもしれないけど、汚れる。

 せっけんならそんなことはないはずだ。


 悩む……これは悩む。

 そうだ、尋ねてみよう。

「まあ……そのような珍しいものを、どちらでお求めになられましたの?」

 入手先がわかればこの話はお断りしてそこから買えばいい。

 ところが彼はさわやかに「僕が作ったんだ」と答えた。


 嘘、嘘……どうやって作ったの?

 実は以前、私もうろ覚えの知識で作ろうとしたことがある──せっけんは確か油に苛性ソーダを入れてかき混ぜたらできたはずだ。でも、苛性ソーダを探したけど見つからなくて、諦めた。というか苛性ソーダって、具体的に何?


「ど、どうやって?」

「え? オリーブオイルとTansan-Natriumで」

「たん……?」

「えーっと、海藻を焼いた灰から取れるんだ。重曹でも作れなくもないよ。油脂のエステル結合をアルカリで加水分解したものがせっけん成分だからね」

「今なんて?」

「あー……。要するに油にアルカリ──えーと、塩基……説明が難しいな。その、酸と中和する物質を入れて加熱したらせっけんになるんだ。やろうと思えば木灰からでも作れる」

「身近な材料でできましたのね……」

 何だかガックリしてしまった。


「とにかく、これを差し上げるから風呂に入らせてもらえないだろうか」




 ……結局、私は折れた。大切なお風呂に男を入れるなんて正直嫌だけど、せっけんの魅力には抗えなかった。

「メーグー、お兄さん呼んで!」

「へえ」

 お風呂には入らせたけど、メグの兄を呼んで扉の外で見張らせた。変なことをされたら嫌だし。メグの兄は鋭い目つきで、いつでも抜けるように腰の剣に手を添えて番をしていた。

「baban-ba-banban-ban──」

 ああ、私のお風呂から変な声が聞こえる……。落ち着かないわ。


 それにしても、お風呂に入りたがるなんて珍しい人ね? この世界の男たちと来たらバスルームを歯医者さんの入り口のように恐れているというのに。


「やあ、ありがとう。堪能したよ」

 一時間も経ってようやく彼はお風呂から上がった。

 うっ、眩しい。イケメン度が五割増しで光り輝いていらっしゃるわ。なんてことないただの布で髪を拭う仕草すら様になっているんだもの。


 メグの兄は畑仕事に戻ったし、メグは何だか恥ずかしがって逃げてしまったので、私は彼と二人きりになった。

 ……まあ、身分のある方だし、変なことはしないだろう。多分。


 彼はニコニコとご満悦だった。

「最高だったよ。素晴らしいロケーションだね」

「お褒めに預かり光栄ですわ」

「それに何と言っても泉質が見事だ。ぬるりと滑らかで、それでいて体中にしみ渡るようだ。これほどのお湯はなかなかないだろう」

 あら、わかってるじゃない、この人。案外気が合ったりして……いやいや、違うでしょ!


 気を取り直して聞いてみた。

「それにしても、アレク様って不思議なことをご存知でいらっしゃるのね。どちらでせっけんの知識を学ばれましたの?」

「それはね……」

 公子は何だか難しい顔をした。

「こんなことを言って理解してもらえるかわからないけど、僕には自分のものじゃない記憶があるんだ。産まれる前の、前世の記憶が」


 ……え?


「そこではこういったものは日常的で」

「嘘……どこ? 地球? もっと違う世界?」

 私は彼の言葉をさえぎって尋ねた。


「Nipponって国だけど。……まさか君も?」

「日本人よ!」

 私はとうとう日本語で叫んだ。


「なんてことだ……」

 彼は呆然としていた。こっちもよ。

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