初めての海
「あら、何かしら?」
往来から少し離れたところに旅人たちが集まっている。どうやら水が湧いているようだ。手ですくってのどを潤したり、水筒に水を汲んだりしている。
「行ってみようか」
「生水なんて飲んでも大丈夫なのかしら……」
私たちも道を少し外れて水分補給に向かった。
まあ私は口の中で味を確かめて、ぺっと吐き出したけどね。今の私は生水を飲み下すほど自信家じゃない。
「変な味だべ……?」
湧き水を飲んだメグは首をかしげている。
水には味はないけど何というか、甘くもしょっぱくもないスポーツドリンクみたいな風味がある。マグネシウムが含まれた水特有の感覚だ。
「つまり、海が近いようね」
説明するとアレクも味を確かめて、しかめっ面をした。
「さっぱりわからない。君の舌はどうなってるんだい?」
それから一時間もかからなかった。多分三十分程度だろう。街道沿いの川は次第に太く、深くなり、岸に跳ねる水の音も何だか重い。強い潮のにおいが漂うその先に港町があった。
私の村と一緒で、ここから先には別の国があるのかどうか知られていない。当然交易ルートなんてものもないから、貿易港として整備されてもいない。ただの漁村だ。
そしてその小さな村の先に海が開けていた。
水平線が遥か彼方に広がっている。海には何艘かの小舟と、空には雲が浮かんでいるだけで、その他には島も鳥もなーんにもない。見渡す限りの海だ。
「海だわ……」
「海だね」
「これが海だべか……」
「これが海なんだべ……?」
生まれ変わってから初めての海だ。
私たちはほとんど呆然と海を眺めた。旅をしていたアレクだけは珍しくもないという顔で見ていたけど。
まだお昼前なんだけどさっそく宿を確保して馬車を預けておいて、私は浜辺に降りた。
せっかくなので避暑地らしく乗馬服から白のワンピースに着替えてきた。
水着なんてないので海に入るつもりまではないけど、私はサンダルを脱いで、スカートをつまんで、裸足で水際に立った。
あはは、指の間を波と砂がすり抜けてゆくわ。懐かしい感触ね。真似をして海に入ろうと靴を脱いだメグは砂浜の熱さに飛び跳ねていた。
後ろを見ると、半分崖みたいな急斜面に沿って家並みが山の上へと続いている。私の村の畑よりさらに傾斜がきつい。
そんなところにへばりついて建っている家だから、一軒一軒がとても小さい。六畳一間とキッチンくらいしかないんじゃないかしら。
せっかくなのでちょっと社会見学に行ってみることにした。
不揃いな階段が家々の間を縫うように岩肌に刻まれている。私はアレクの手を要求して先導させた。
海風が吹き上げて麦わら帽子が煽られる。私はワンピースの裾を気にしながら登った。
中腹辺りの通路に、別に展望台ってわけでもないのでしょうけど壁と手すりがあって、海を臨めるようになっていた。
うわー、遠くまで見える……。波が正午の光にさざめいて、世界が黄金でできているみたいだった。
「綺麗ね……」
うっとりしていたら隣から声を掛けられた。
「き、君の方が綺麗だよ」
私は思わず発言の主を見た。びっくりしちゃった。アレクは海じゃなくて私を見て、何だか固まっていた。
「え?」
「えーっと……太陽が、その、髪に……光が透けて、きらめ……輝いて……。海よりもき、綺麗だ」
え、突然どうしたの……この人。らしくなさが極まっているわ。あまりにも言い慣れていないものだからカチコチしてるし。顔真っ赤だし。
というか話の流れとかなしに突然そんなことを言われても困惑するだけよ。私の髪に光が当たっても黒が茶色になるだけだし。お世辞にしたってもう少し表現を選んだ方がいいんじゃないかしら。
……でも、脈絡はないけど、女の子を相手にそんなことが言えるようになるなんて! 成長したわね、アレク……。
これは人類には小さな一歩だけど、アレクにとっては偉大な進歩だわ。子供の成長を喜ぶ母親みたいな気分でつい微笑んでしまった。
「そう、ありがとう。嬉しいわ」
たくさんの小舟が浜に引き上げられるようにして停められている。
漁師の男たちは魚を舟から下ろしたり、重ねたトロ箱を担いで運んだりしている。
漁家の女たちだろう。みんなで浜辺に椅子を引っ張り出して魚を捌いたり、干したり、塩漬けにしたりしている。
「よし、じゃあ牡蠣殻を分けてもらえないか話をしてくるよ。──すまない、少しいいだろうか」
意気込んで出かけたアレクだったけど……。
「ああ? 何だぁ?」
「こかぁお貴族様の来るとこでねえっぺ。のけてけれ」
「牡蠣だぁ? んなもん売りもんになんねえっぺや」
「おので探すっぺ」
忙しそうに駆け回る漁師の男たちはけんもほろろで、まるで相手をしてもらえなかった。
仕方ないので今度は女たちに聞いてみようとしたアレクだったけど……。
「ご婦人方、少しいいかな?」
「ひぇっ」
「はれぇー、お、おっとこ前だぁ!」
「恥ずかしいっぺぇ……」
アレクが慣れない営業スマイルで話しかけようとしたら、女たちは若い子からおばあさんまでみんな逃げてしまった。
「あ、あの……」
なすすべなく見送る瞳がなんだか寂しげだった。
私はメグの兄を連れてどこかに捨てられていないかしらと探してみたけれど、牡蠣の殻はどこにも見当たらなかった。
メグの兄は最初から聞きに行く気がなかった。私の後ろにじーっと控えていて圧力が凄い。
……あ、これ、護衛しているんだ。別にいいのに。
「ほぉー、ハクいスケだっぺ……」
「なあなあ、今夜暇け? おらと遊ぶっぺや」
「ふふーん、おらと仲良くしたかったら、それなりの男でねえとなあ」
「それなりって、何だっぺ?」
「んだべな……こん中で一番強ぇのは誰だべなー?」
「おらだァ!」
「おらだっぺ!」
「ほうほう。候補がいっぺえおらっしゃるべえな。だったら実際に力比べしてもらわんとな」
「よっしゃ!」
「おらの強さを見せたるっちゃ!」
別行動で聞き込みに行かせたメグは漁師の若者たちにナンパされていい気になっていた。何を聞くはずだったか忘れているわね、あれは……。
「もう……しょうがないわね。すみませーん! ちょっといいですかー?」
私は港に座り込んで作業している漁家のおばさんたちとおしゃべりした。一緒に鯵なんか捌かせてもらいながら。
「──なるほど、そういうことでしたか! 今日はありがとうございました!」
「こっちこそ助かったっぺや」
「またおいでだっぺ」
「息子の嫁に来ねえっぺか?」
「アハ、今度紹介してください。それじゃまた!」
私は女たちに手を振って三人のところに戻った。
「お待たせ。大体わかったわ」
「君、貴族だよね? ちょっとコミュ力強すぎない?」
「庶民としてもやっていける気がするわ」
さてさて、それぞれの理由で調査のできない三人の代わりに聞き込みした結果をまとめると、こうだ。
牡蠣はその辺の岩場にいくらでもいるけど、養殖しているわけじゃないし取りやすいところにはそんなにいないので、結構面倒くさい。
それに全然日持ちしないから、保存技術が未発達なこの世界では売り物にならなくて、その日自分の家で食べる分しか取っていない。食べごたえがあるから食べてはいるみたいだけど。
牡蠣を獲るのは夕食に一品添えたい子供たちの仕事なのだとか。
牡蠣殻は他の生ごみと一緒に海に捨ててしまっている(!)ということだ。
「そういうことか。やはり君に来てもらってよかった。それじゃどうしようか?」
「うーん……」
私は腕組みして首をひねった。
そりゃ自分たちで獲ってきたっていいんだけど、四人でやっても限界がある。慣れない岩場で足でも滑らせたら目も当てられないし。
なるべくなら村人たちを動員して集めてもらいたい。どれだけ必要になるのかもわからないし。
それにもし本当にコンクリートだかセメントだかができるのなら、今後もずっと牡蠣の殻が必要になるかもしれない。
考えて……私は一計を捻りだした。
「メグ、お兄さんと油を買ってきて」
「へ?」
「多ければ多いほどいいわ。できればオリーブオイルね。塩と卵も。卵はあればでいいわ」
「またとんちんかんなこと言い出したべな」
「おいしいものを食べさせてあげるから」
「ただちに行ってめえりますだ! ほれ兄さ何しとるべや、急ぐべ!」
「おう」
メグはお兄さんを引っ張って走って行った。
「アレク、私たちは金網を買いに行くわ。貴方、荷物持ちをしてちょうだい」
「何を思いついたのかな?」
「この前もしたでしょう? バーベキューパーティーよ」




