ぽんぽんペイン!
※主人公がひどい目に会います。ご注意ください。
失敗続きでも私はめげずにパンの酵母を探していた。
野苺にアプリコット、サクランボに桃にプルーンに……これまでいろいろな果物を試した。
今日はすももから取った酵母だ。鍛冶屋の家の裏庭に植えられているすももの木に一個だけ取り忘れられた実が残っていた。
もう季節も終わりかけて熟しすぎたすももは触るとぷよぷよと柔らかくて、酵母を培養する前から少し危なっかしい雰囲気を漂わせていた。
これも駄目かなー、と思いつつパン種に使ってみたんだけど……。
わっ、何これ! すっごく膨らんでる!
もしかして、これは期待できるかも……?
焼いてみた。
窯から出てきたパンはぷっくり膨らんでいて、パカッと割ったら──すごい、柔らかい! 全粒粉のパンなのに、ふっくらしてる!
嫌な臭いもちっともないわ。それどころかいい香り! 香ばしい!
味見してみた。
……すごい、おいしい! 何もつけなくてもそのまま食べられるわ。
こ、これはパンの革命だわ……!
私は感動に震えた。
今日という日をこの世界におけるパンの記念日として後世に記録しておかなければならない。
気分を良くした私は後々パン種を増やしては村中に配った。このパン種はやがて近隣の村々にも伝わって、他のパン種を駆逐してこの国独自のパンとして定着していくことになるんだけど、それはまた別の話。
お昼前にメグの妹が玉子を届けてくれた。いつもはゆで卵やオムレツにして食べているんだけど、今日は一緒にトリュフも持ってきてくれたの。
野生のきのこって怖いけど、これは間違えようのないキノコだ。
「ありがとう。はい、今日の分。新しい服でも仕立てるといいわ」
「あっ、ありがとうごぜえますだっ」
お駄賃をはずんであげたらベスはスキップしながら帰って行った。
私は卵を割って、殻に黄身だけ残して白身と分けた。
それから湯煎でたっぷりとバターを溶かして、そこに生トリュフを削り入れて、さらに溶いた卵の黄身をグルグルと流し入れた。
バターの白と卵の黄色が渦巻いて回る中にトリュフの黒が泳いでいる──美味なるものの黄金のトライアングルだ。こんなの、絶対おいしいに決まっているんだから。
私はパンを籠に盛って、特製バターを添えて、ウキウキしながらテーブルに並べた。
「今日のお昼はパンにこれをつけて食べましょう」
でもアレクは心配するような顔で、言った。
「日本の卵は次亜塩素酸ナトリウムで消毒されてるから生でも食べられるのであって、異国で同じことをするのはお勧めしないね」
「なによ、男のくせに細かいわね」
「卵は生で食うもんでねえべ」
メグも同じ顔でそんなことを言った。
「なによ、図体でっかいくせに繊細ね」
「……」
論破された二人は押し黙った。
「では、いただきます!」
私は生トリュフ玉子バターを自慢の焼き立てパンにたっぷり乗せて、食べた。
「……!」
食べた。
「……!」
もう一個食べた。
「……っ!」
お、おいしい……。生まれ変わってから食べたパンの中で一番おいしい……。
舌が溶けちゃいそう……。
頭がどうにかなっちゃいそう……。
言語能力が馬鹿になっちゃって上手く表現できないわ……。
二人とも渋いものでも食べたような顔で私を見ながら、何もつけずにパンだけ食べている。
やれやれ……。これを食べないなんて、二人とも人生を三回くらい損しているわ!
私はディップを独り占めしてたくさん食べた。
至福の時間だった……。
パンは上手く焼けたし、トリュフは香り高いし、卵だって食べられる。
だんだん生活が充実してきたわ。とんでもない未開の世界だけど、私、何だかやって行けそう!
──この時はまさかそんなことになるなんて、誰も想像もしていなかった。
「うううう……」
脂汗が止まらない……。
さ、寒い……震える……。
目を閉じているのに目の前が真っ白で、何も見えない……。
今の私が鏡を見たらアレクのように真っ白に違いない。全身から血の気が引いているのが自分でわかる。引いた血の気ってどこに行っちゃってるのかしら?
私のお腹は電信柱に激突した軽自動車のようなありさまだった。
スカートなんてとっくに廊下の隅に蹴り飛ばしてしまって、ショーツも半脱ぎでおしりを出して、私はトイレの前に突っ伏していた。アレクはそそくさと出かけてしまったし、見ているのはメグだけだもの。
もう今朝から何回下ったか覚えていない。なのに私のお腹はまだ危険な信号を発し続けている。
「どうして、こんなことに……」
「ご主人以外は全員こうなると思っとったべ」
床板の冷たさを全身で確かめている私に冷たい声が降ってきた。どんな顔をしているかは見えないけど、多分愚か者を見る目をしていると思う。
「やめれっつったのに生卵なんざ食うからだべ」
「……食べちゃったものは、しょうがないでしょ」
「ガキじゃあるめえし……それで下ってたら世話ねえべ」
クソガキ呼ばわりされた! こ、このメイド、どうしてくれよう……。
でもひたすら苦痛に耐えるだけの今の私に、何かをする元気はなかった。
「私は……既に、愚かさの、報いを受けて……く、苦しんで、いるというのに、この仕打ち……。うちのメイドは、人の心がない……」
「誰が掃除するのか考えて欲しいべ」
翌朝私はようやく復帰した。まだちょっと調子がおかしいけど、とりあえず止まった。
「トイレを直して!」
アレクを捕まえてトイレの改修を要求したら、彼は狐につままれたような顔をした。
「え?」
「水洗化よ、水洗トイレを作って!」
メグには昨日一日嫌味と文句を言われていた。こ、この屈辱……。水洗だったらあそこまでの辱めを受けなくて済んだはずだ。
「うん、まあ……。それはしないでもないけど、そもそも生卵なんか食べなければ苦しい思いはしなくて済んだんじゃないかな?」
「あー、うるさい! なによ、自分はさっさと逃げたくせに!」
「いや男がいたら嫌だろうと思って気を使ったんだよ」
「うるさいうるさいうるさい!」
どんな美少女だってご飯を食べたらウ〇チするし、ウ〇チしたら聖女だって臭いんだ!
「そもそも何で水洗じゃないのよ、この世界!」
「逆ギレされてもね……。それは都市部の上水道が未整備だからだね」
「いつも思うんだけど、貴方の説明は回りくどいのよ! もう少し噛み砕いて言ってよ!」
「うーん……。そうだね、まず下水の大きさは上水の供給量に比例する。これはわかるかな?」
「それは、まあ。水がそんなにないのに大きな下水を作っても無駄よね」
「逆に水の量が多いのに下水管が細かったら溢れるよね」
都では家庭用水は井戸水で、使用後の水は側溝に流していた。それで充分こと足りた。
「古代ローマの下水道は元々低湿地帯の排水のために整備されたものだったんだけど、上水道が敷設されたときに彼らは上下水道はセットであることに気がついた。それは以後ローマ都市のモデルとなって地方都市にまで同じ設備が設置されていくことになる。でもね、そのローマにしたって庶民の家には上水道が引かれていなかったから下水道もなかった」
「そうなの?」
「水は街角に水道口があって誰でも汲めるようになっていた。言い換えれば、各家庭にまでは配水されていなかった。だから家庭には下水道もなかった。庶民のトイレはおまるで、汚物は自分で大下水溝まで捨てに行っていた。水洗だったのは公衆トイレだけだ。ローマがお手本とした古代ギリシアには上水道はあったけど下水道はなかった。ローマに憧れたロンドンに下水道が敷設されたのは十七世紀、それが古代ローマの水準に達したのは十九世紀だ」
「だから回りくどいんだってば……」
「ごめんごめん。つまりね、下水道には前提として大量の水の供給が必要なんだ。この国の首都にそれはない。だから水洗トイレもない、そもそもその発想が生まれない。そして文明の先端の都市でそれが必要とされていなければ地方までは波及しない」
「うちには水道があるじゃない!」
「いや、だからね、ここには下水道という概念がないからこの家を建てた人も造らなかったんだよ。これから作ろう。ここの水量なら充分足りる」
それからアレクはブツブツと独り言を呟き出した。
「さて、下水道の素材だけど、陶器で何とかなるかな? いや、目地材がない。できればセメントが欲しいな……。この世界の技術力でもできるとなると……ローマンコンクリート──いや駄目だ、火山灰が手に入らない。この辺りには火山がない……」
「えーっと、セメントってないの?」
「ポルトランドセメントか。あれは工業製品だからね……。この世界の技術力では厳しいね。他に古代のセメントと言えば、版築──三和土──そうだ、真砂土ならいくらでもある。つまりケイ酸塩とアルミナの豊富な土と石灰、あとはにがりがあれば原始的なセメントが作れるはずだ」
「にがり?」
「ローマンコンクリートでは海水を入れていたそうだよ。多分にがりの成分が何かの役割を果たしているんだろうけど……マグネシウム……駄目だ、わからない。しかし、何故か釉薬と似ているね? そこに秘密がありそうだ。石灰岩は旅の途中で見たけど……遠いな。国の反対側だ。石灰……うん、そうだ。貝殻を焼いたものでいい。どうせにがりも仕入れなければならないし、ちょうどいい」
「何がちょうどいいの?」
するとアレクは瞳をきらめかせて、言った。
「海に行こう」
というわけで海編開始です。
シリーズ初の続き物です。しばらく旅行する予定です。よろしくお願いします。




