求む! 健康で文化的な最低限度の生活
私は自ら身を引いた分別ある女として表舞台から綺麗に退場した。
聖女の後ろ盾となった侯爵家も安泰だ。これで仕送りの心配はないわ。
願い通り聖女を手に入れた王室も私に感謝していたし、愛する人と結ばれた王子様も喜んでいた。
聖女も「人の男を寝取る売女」なんて悪評から逃れられた。だって私が率先して彼女を王太子妃の座につけようと画策していたのは誰もが知っているし。
派閥もきっちり引き継いだから、困ったことがあっても彼女たちが助けてくれるはずだ。多分。
それに存外のことに、彼女は私に後ろめたさを感じているみたいだ。あの様子なら多少ワガママを言っても無理を通してくれるでしょう。
え、聖女に王妃としての資質はあるのかって?
そんなもの、どうでもいいじゃない。お妃教育はこれから誰かがするでしょ。彼女は王子様が好きみたいだし、恋の一念で一生懸命勉強するだろう。
そもそもこの世界における人類のトップは国王でも聖職者でもなくて聖女なのだ。その聖女の礼儀作法をあげつらうような真似をしたら、その瞬間から彼は人類に対する反逆者だ。族滅されても文句は言えない。王妃として多少心もとなくても文句を言う人は誰もいない。
だから後のことは心配ない。知ったことじゃない。
価値観の違う相手とは結婚できない。無理にしたって不幸になる。
相手の身分が高ければ幸せな結婚、お金持ちなら幸せな結婚なんて言う人は世間知らずの素人ですわ。どんな田舎町にだってそういう安易な考えから生まれた不幸な結婚の例はあるでしょうに。
では価値観とは何かというと、例えば倫理観とか、例えば衛生観念とか、例えば食事の好みとかだ。
家柄の違いなんてのは前時代的だけど、そうは言ってもやはり生活習慣が違う相手と一緒に暮らすのは難しい。ゴミ屋敷でゴミに埋もれて育った男と部屋の隅の塵一つ許さない家庭で育った女が結婚したら、女の方は早晩耐えられなくなるに違いない。
そして今のたとえ話の綺麗好きの女がこの私だ。
この世界の文明度は前世で言えば中世の真ん中辺りだ。つまり、はっきり言って生活水準が低い。
人間の意識も低くて、どんなにイケメンの高位貴族だって同じ服を何日も着回している。当然洗濯なんてしていない服を。
新陳代謝の活発な年頃の令嬢たちは吹き出物だらけだし。
貴族はみんな体臭をごまかすために香水を──おっとごめんなさい、香水なんてまだないから髪に香油を塗りたくっている。
召使いたちなんて歯も磨いていない。だからみんな虫歯だらけだ。農民なんて二十歳を過ぎたら歯が半分も残っていないらしい。ヒッ……。
石造りのお城だってその石は磨いた大理石じゃない、ただの石だ。特に美観に優れた建築物ではない。
一応庭はあるけどあるだけで、花も野の花が咲いているだけ。花壇らしい花壇もない。
調度品だって面白くもないし掃除も行き届いていない。窓の桟を指でなぞって埃を確認するなんて、昭和の嫁いびりみたいなことをしてしまったわ……。
ろうそくの明かりで照らされたパーティー会場は薄暗くて陰気で、陰謀と陰口とで満たされている。
ドレスは野暮ったいしベッドは硬いしトイレだって汚い。
食事だって酷いものなのよ……。貴族ならいい物を食べていると思う? では現実をご覧ください。
まず主食のパンは硬くて変な酸味がある。多分パン種にビールかワインの酵母を使っているんだと思う。
野菜は全然種類がない。調理法は茹でるだけ。味付けは塩だけ。
肉はひたすら甘い味付け一辺倒。焼いたのも煮たのも、砂糖が貴重だからってふんだんに使っているの。おもてなしの意味と財力を見せつけるために。味は二の次──というかみんなその甘いだけの肉を本当に美味しいと思って食べているのよ、信じられない!
それに出汁の概念がない。スープの味は単調だしソースも貧弱だ。肉を焼いた時に出た肉汁に塩を加えて煮詰めたものが一番気の利いたソースなの……。
パーティーに出て、舌に合わない料理をおいしいおいしいと褒めながら食べなきゃならないのが本っ当に苦痛だった。
その食事のマナーもね……。前世で食事用のフォークが発明されたのって、確かルイ何世かの時だっけ? 少なくとも近世だったはずだ。
そう、この中世的異世界にはフォークなんてまだない。じゃあどうやって食べているかというと、て、手づかみなの……。指先でつまんで食べるの……。お寿司じゃなくてベタベタのお肉を! 中国人なんて紀元前から箸を使っていたのに!
私はそれがどうしても受け入れられず、特別に作らせたフォークで食べていたものだから、家族や召使いたちからは変な目で見られていた。
でもそれも家庭の中だけの話ね。パーティー会場でそんなものを使うわけにはいかず……。周りに合わせて仕方なく手づかみで食べていた。もう嫌よ、パーティーなんて出たくない!
何よりお風呂! 入浴の習慣がほとんどないのよこの世界! 夏なんて、もう……ね。
前世を思い出した瞬間から私は周りの不潔さに耐えられなくなった。せめて自分だけでも抵抗しようと毎日の入浴は欠かさない。
……でもね、お湯を沸かすには薪が必要なわけで、一応都会の都では周りには木なんか生えてなくて、薪は遠くから運ばれてくるものだった。要するにただお風呂に入るだけでもとてもお金がかかった。
私一人のためにお風呂の支度をするというのは非難の的だった。私の評判は贅沢な浪費家で、それどころか神経症の患者だと噂されていた。
住んでいる人間たちも程度が低い。男たちは有り体に言えば下品で野蛮、女だって暇さえあれば陰口ばかり。他人を見下したり中傷したり笑いものにしたり、そういうのが一番の娯楽なのだ。
そんな感じだから、この国で一番高貴な王城だって、二十一世紀の日本から生まれ変わった身としてはまったくレベルが低い。お城で王妃様になれる? そんなので喜べと言われても困る。
正直に言ってねえ、王子様と結婚するのって気が重かったのよ。どんなに相手がイケメンで身分が高貴でも、価値観が違うから。なーにが人生順風満帆よ、冗談はやめてほしいわ。
生まれてしまった家が家だから仕方ないかとか他の男と結婚するよりは比較的マシだろうとか自分をごまかそうとしてはみたけど、毎日鬱々として本当に病気になりそうだった。
都合よく身代わりが出現してくれて本当に良かった!
持ってるわ、私……。神様に愛されてるわ、私……。来ちゃったかな、私の時代……!
「あはっ、あはははっ! 自由最高! 自由最高おおおお!」
田舎のポツンと一軒家の真ん中で、開放感で頭がおかしくなった私は踊りながら大声で叫んだ。
ここでは誰も私に差し出がましい口を聞く者はいない。私くらいの身分になるとこういう場合でも普通は召使いやら侍女やら護衛やらがゾロゾロついてくるものだけど、無理を言ってお断りした。「一人になりたいのです」とか「彼らにも生活があるでしょう」とか言って。
だって余計なことを言われるのは嫌だし、言動を逐一報告されるに決まってるし。正直邪魔。
もう「ですわ」なんて気取った喋り方をしなくてもいい。庶民みたいに大股で歩いたっていいし髪を結ばなくてもいい。フォークを使ってもいいしお風呂に入ってもいいし一日中ダラダラ過ごしたって咎める者は誰もいない。
それにここには私を嫌な気持ちにさせる不潔な人たちもいない。歯槽膿漏で口の腐った伯爵も痔の痛みで座るたびに泣きそうな子爵も水虫で無意識に靴の底を擦り続ける男爵も、ぜーんぶおさらばよ!
私の隠居先は侯爵領の飛び地のド田舎だ。住み慣れた都からも私の実家の侯爵領からも他領をいくつもまたいで遠く離れたこの世の果てだ。
何故こんな僻地を選んだのかというと、なんと! ここには温泉が湧いているのでした! 誰も活用してないけどね。なんてもったいない……!
せっかくだから私が使ってあげることにしたのだ。
私の自慢の温泉はもちろん源泉かけ流し。屋根はあるけど一面だけ壁がなく、明媚な湖が眺められる。西向きで、日暮れ時には夕日が湖面を赤く染めて、とても綺麗だ。温度は湧出口で43℃くらいで浴槽内では40℃くらいかな? 泉質は柔らかく、肌にぬるりと貼りつくよう。透明で臭いもない、私好みのお湯だ。もうね、朝昼晩と一日三回入ってるの。
周り中森だから薪もタダ同然で使い放題だ。燃料に事欠かないので料理もしたいだけできる。かまどの使い方にも慣れたし、毎日自分好みの味付けの自分の食べたいものだけを自分で作って食べている。
寝室とお風呂の掃除は自分でやっているけど、それ以外も近所の農家の娘を一人雇ってメイドにしていて、毎日掃除させている。物覚えはちょっと悪いけど、雑巾がけを嫌がらないだけでも及第点だ。服だって毎日洗濯させているしね。
そうなの、洗濯も手洗いで大変なの。だからこの世界だと普通は洗濯も毎日はしない。私はするけど!
家は実家に建てさせたし仕送りもある。それに事情が事情とはいえ私が婚約破棄された形なのは確かなので、王室からは慰謝料をいただいている。これが結構な金額なのよ。ムフフ。仮に仕送りが途絶えても当分暮らしに困りそうもない。
都でつべこべ言われながら汚れに怯えて暮らすより田舎で一人暮らしした方が絶対にマシだ。
私は悪役令嬢なのだから、周りのすべてを利用して自分の生きたいように生きるのだ。
布団もふかふかなのに換えたいしトイレも水洗にしたいし下着も肌触りを良くしたい。生活のクオリティ向上のために改善したいことはいくらでもある。
あー毎日が忙しいわ。未来への希望を持った忙しさだわ!
さあ、今日もお風呂に入って掃除して、もっと布団に適した素材の研究をしなきゃ。
私の快適な異世界ライフはこれからだ!
ここまでが再掲部分です。
この後もよろしくお願いいたします。