えっ、私が悪役令嬢なの? ところで悪って何かしら
多分インフルエンザだったと思う。風邪を引いた五歳の私は高熱を出して寝込んだ。
ひたすら辛くて苦しい息の下、熱に浮かされて夢と現実の区別がつかなくなった私は、ひたすら辛くて苦しかった最後の数か月を思い出していた。
その記憶の中の私は日本の女子高生で、闘病生活の果てに若年性のガンで死んだ。
それが自分の前世の姿であることに気づいたのはずっと後のことだったけれど。
今の私はこの国の諸侯でも最も力を持つ侯爵家の長女だ。
そして十六歳の私は国王陛下の嫡男ルキウス殿下の婚約者となっていた。
殿下はまだ正式に立太子されてはいないがいずれは王太子に、ひいては国王になることを確実視されている。
つまり私は将来の王妃ということで、私の人生は順風満帆──と、誰もに思われていた。
つい最近までは。
風向きが変わったのは一か月前のことだ。
この国に聖女が誕生した。
聖女というのはこの世界において神の権能を行使することを許された唯一の存在だ。
聖女は傷や病を癒し、豊穣を約束し、あらゆる災いから人々を守る。聖女がいるだけでその国は栄える。
聖女は同じ時代に一人しか存在しない。この国に、という意味ではなく世界中で、だ。全人類の中で同時に一人しかいない。
それがこの国に出現した。世界のどこかにいた聖女が寿命を迎えて彼女に役割が移ったのだろう。
聖女ルミア、十五歳。庶民の出身でファミリーネームはない。
神殿に迎えられた聖女を見て誰もが息を呑んだ。
彼女は街角のどこに隠れていたのかという美少女だった。光を形にしたような金髪で肌は抜けるように白く目は青、目鼻立ちの整っていることと言ったらそこらの令嬢ではとても対抗できない。小柄で細身だけど顔が小さくてバランスが良い。そのくせ胸はしっかりある。
そして性格は明るくて優しくて誰からも好かれる、という……まるで物語の主役ね。ちょっと盛り過ぎじゃないだろうか。
貴族社会に紹介された聖女はたちまち人気者になった。なかなかのやり手で、同世代の身分のある男たちが次々と篭絡されている。
いや、篭絡と言っては聖女に悪いかもしれない。何しろ聖女というのは大変に希少な存在なので、男たちの方が放っておかないのだった。別に彼女から言い寄ったわけではない。
聖女の生家は普通の庶民で、彼女は貴族的な教育なんて受けたことのない普通の町娘だ。立ち居振る舞いが高等貴族の好みに合っているかどうかは疑問だが、何しろ聖女というのは国王よりも偉いのだ。ブランド好きの彼らとしてはコレクションに加えておきたいということなのだろう。聖女なんかより彼らの方がいやらしい。
それはいい。問題は、彼らは身分が高いだけに当然婚約者がいるということだ。私の婚約者様もその中にいるし。
聖女は傍目には相手のある男性を複数はべらせて気を持たせる泥棒猫にしか見えないわけで、貴族の女性たちは一様に気分を悪くしていた。
まあ、聖女ってすごい美少女だしね。彼女たちが嫉妬するのはわからないでもない。
ちなみに当の聖女の気持ちはどうなのかって言うと、その瞳は王子様を熱い視線でとらえていた。私の婚約者ってイケメンだからねぇ。
それはともかく、聖女登場の影響を一番受けたのが私だった。
聖女というのはあまりにも尊い存在なので、国家権力としてはなるべく自陣営に引き込みたい。宗教国家なら一生神殿に籠りきりだし、君主制国家であれば高位貴族の奥方、それこそ王妃にだってなる。
現王室としてもできれば彼女を将来の王妃にしたいわけだ。でも第一王子の婚約者は私なわけで、既に両家の合意のもとになされた婚約が障害になっている。私の家って大きいから王室も無下にできないのよね。わが国には側室制度もないし。
なら聖女は第二王子の婚約者にしてそちらを王太子にするかって言ったら、そういうわけにもいかない。王位継承順位を乱すのはどう考えても将来の禍根となる。それに憚りながら、第二王子様って出来が悪くていらっしゃるしね。
私の立場は一気に微妙になった。
実家の侯爵家とその派閥はあくまでも先に結ばれた私の婚約を推し進める構えだ。
一方で対立する派閥は聖女を擁して婚約者をすげ替えようと狙っている。
王室におもねる人々はどちらかの派閥についたり日和見だったり、いろいろだ。私の父に聖女の動向を注進に及ぶ者もいれば、「婚約を辞退しろ」と圧力をかけてくる人もいる。
そして今頃になって私はようやく気がついた。
新しく登場した聖女、聖女に心揺れる王子、そしてその婚約者の私……。
「あれ、今の私ってもしかして、いわゆる悪役令嬢じゃない?」
うーん、まさか自分の身にこんなことが起きるとは……。人生って何があるかわからないわね。転生って面白いわ。面白がってばかりもいられないけど。
悪役ねえ……。そもそも悪って何なのかしら? この世界にはキリスト教も仏教もないんだけど。
もし宗教的戒律に対立するものを悪と定義するならば、神に直接仕える唯一の存在である聖女の敵対者、反聖女である私こそが居ながらにして悪ということになる。
……いやいやそういう宗派で変わる悪ではなくて。私はこの世界の一般的倫理から導かれる普遍的な悪について知りたいのだ。
辞書を引いてみた。
「悪ね。あか……あき……」
実際は日本語じゃないから五十音順じゃないけどね。異世界ジョークです。
さて、辞書の悪の項目には『善意の第三者を自己の利益にかなうために使用すること』と書いてあった。
……はい、よくわかりません。辞書なんだからもうちょっとかみ砕いて説明して欲しい。
「善意のー、第三者……。ほうほう、なるほど」
項目をたどって意味を調べてみると、どうやら『事情を知らない人を自分の都合で利用すること』が悪ということになるらしい。
自分の都合ねぇ……。私のやりたいことって言ったら……。
…………!
その時私の脳裏に天啓が閃いた。
「貴女、少しよろしいかしら」
「……はい」
私は王宮の廊下で聖女を呼び止めた。聖女は警戒を隠せていない。まあ仕方ないか。彼女からしてみたら私って恋敵だものね。
「わたくし、貴女にとっても興味があるのですわ。ね、お話しましょう?」
「え、あ、あの」
私は戸惑う聖女の腕を取って連行した。
王宮内の侯爵家の居室には既にお茶のセットがされていた。私は席に座るように促した。聖女は怪しみながら従った。
「直接お会いするのは初めてですわね。わたくしはセシリア、侯爵家の長女ですわ。ねえ、貴女のお父様って何をしていらっしゃるの?」
「は、はい、私の父はパン屋で──」
家族の話から庶民の暮らしについて話が弾んで、なごやかににこやかに、本当にどうでもいい世間話をするだけで簡素なお茶会は終わった。
「今日は楽しかったわ。またご一緒いたしましょう」
「は、はい」
聖女は戸惑いつつ帰っていった。
今はまだ何もするつもりはないのだ。ヒロインを攻略するにはまずは好感度アップから、と相場が決まっているものね。
この日を皮切りにとにかく私は聖女を構いまくった。聖女の警戒が解けるまで、敵意なんてありませんよと最大限の親しみを込めて。
忠告もいろいろとした。
「ねえ、貴女、廊下を大股で歩いてはいけませんよ」
聖女の、庶民の歩き方は貴族の常識からするとちょっとはしたない。これから先も王宮で暮らすつもりなら改めてもらわないといけない。
「は、はい……。あの、どうすればいいんでしょうか」
「わたくしの真似を致しなさい。背筋を伸ばして。そう、頭を空の上から糸で吊るされているように。肩の力を抜いて。手はお腹の前で重ねて。左手が上ですわ。足は小股でつま先から下ろして、かかとをつけてはいけません」
聖女は言われた通りに真似をした。でもまあ、急にはできないよね。歩き方がぎこちない。
「あの、これだと、早く歩けないんです、けど」
「そうですわ。貴族の女性はゆっくりと、しずしずと、雲の上を踏むように歩くのです。──ねえ、貴女はいずれは国家の要職につくことになりますのよ? ここでの振舞い方を身に着けていかなければなりませんわ」
「はい。あの、どうすれば……」
「わたくしにお任せなさい」
私は聖女に礼儀作法の講師をつけた。私も学んだ一流の教師だ。
聖女は見た目や性格だけじゃなくて頭や勘も良くて、一か月も頑張ったら人並み以上に仕上がってきた。そろそろ他の子に紹介しても良さそうね。
というわけで私は続けざまにティーセレモニーを開いた。私と聖女だけじゃなくて、貴族の令嬢を招いたお茶会だ。
何しろ私は次期王妃候補なので、取り巻きみたいな子がわんさかいる。その取り巻きたちを順繰りに──聖女の役に立つ順に少しずつ招いた。
最初の客は伯爵令嬢のエリザと子爵令嬢のエマだ。
エリザは私の兄の婚約者でもある。兄が将来の国王の側近ならエリザは将来の王妃、つまり将来の私の腹心になることを期待されている。
彼女は大変に有能でしっかりした子だ。とても私と同い年とは思えないくらいに。十歳くらい鯖を読んでいるに違いない。彼女ならきっと聖女の力になってくれることだろう。
それとエマ。彼女は貴族としてはほとんど例外的に性格が良い。あまりに清らかなために心の捻じ曲がった令嬢たちから嫌悪されているくらいだ。彼女なら陰湿な貴族社会の中でも聖女の心の支えとなってくれるだろう。
「彼女が聖女ルミア様。二人とも、仲良くして差し上げてね」
「よろしくお願いいたします」
「かしこまりました。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「は、はい」
二人に聖女を紹介するとエリザは粛々と、エマは戸惑いながら答えた。
そういう感じで次から次へと派閥の子たちを呼んで、最後には公爵令嬢、エレアノールさんも招いた。
彼女は私の取り巻きではない。むしろ世間的にはライバルということになっている。同世代の令嬢たちの中では強い力をお持ちの方だ。
「エレアノール様、貴女には特にお願いいたしますわ。聖女様をよろしくお引き立てくださいませ」
「私でよろしければ。微力ながらお力添えさせていただきますわ」
私が頭を下げるとエレアノールさんは言葉とはうらはら、意図を感じさせない表情で頷いた。
まあ彼女は馬鹿じゃないから「よろしく」の意味を正確に理解してくれたものと思う。きっと聖女とも上手くやっていくことだろう。
さて令嬢たちには充分に顔も売ったし、次は男社会への紹介だ。
つまりパーティーに出てもらう。
今度はドレスをプレゼントした。貴族の服はもちろんオーダーメイドなので仕立屋を呼んで、流行のデザインで、一番いい生地を贅沢に使った。ダンスもまた教師をつけてレッスンは万全だ。
そして今日はいよいよ聖女のデビュタントだ。王子様が聖女の手を引いて会場に現れると音のないざわめきが響き渡った。
エスコート役は王子様にお願いした。ダンスのレッスンを始めた頃、私は聖女に王子様を紹介したのだ。
「もうご存知でしょうけど」
にこやかに微笑む私を二人とも微妙な表情で見ていた。(どういうつもりなの?)と顔に書いてある。
「だって、聖女のデビューですもの。一番高貴な方でなければお相手は務まりませんわ」
ダンスが始まった。ホールの真ん中に舞う若い二人は本当にお似合いで、見物する貴族たちは熱いため息を漏らした。
踊りながらお互いを見つめる二人の視線もまた熱かった。ダンスを練習する中で随分と仲が近づいていた。私は壁際でなるべく気配を消していた。
デビュタントの翌日、聖女を侯爵家に招待することができた。二人のダンスを見た父がようやく折れてくれたのだ。
私は聖女に接近を始めた頃からずっと父の説得を続けていた。
「我が家のためにはこれしかないのですわ」
という私に父は難色を示した。
「しかし、それではお前の立場は……」
私は首を横に振った。
「そんなことはよいのです」
侯爵家の謁見室で私は父に聖女を紹介した。聖女は淑女の物腰で父に挨拶してから、私に尋ねた。
「今日はお父上をご紹介いただきありがとうございます。どのようなご用件でしたでしょうか?」
私は微笑みながら聖女の肩に手を置いた。
「貴女、わたくしの妹になりなさい」
「え? あの、それはどういう意味でしょうか?」
「文字通りよ。貴女は侯爵家の娘になるの」
父は私の言葉を首肯した。
「そういうことだ。今後の君のことはすべて侯爵家が支援しよう」
聖女は侯爵家の養子になった。
そして王室と侯爵家の話し合いの結果私と王子様の婚約は解消されて、代わりに聖女と王子様の婚約が結ばれた。併せて王子様は正式に立太子された。
立太子と婚約を祝う式典は盛大に催された。
式の後、二人きりの部屋で聖女は何とも申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの、何もかもお世話になってしまって……。本当に良かったのでしょうか?」
「ええ、もちろんよ。でもわたくしはここまで。陰から貴女の活躍を祈っておりますわ」
これが政治的に最良の選択だった。私一人が泥をかぶって、後は聖女も王子様も王室も侯爵家も丸く収まった。
そしてすべての栄誉を聖女に譲った私は中央から姿を消した。
こうして王子様を聖女様に押し付けた、おっと譲り渡した侯爵令嬢は失意の中田舎に引っ込んでおしまいになったのでした。めでたしめでたし、っと。
──全て計画通り!