何も成さなかった女の話
ベアリー侯爵家の長子は、女だった。
その数年後に、もう一人子が生まれた。これも女だった。
長女が六歳――お披露目の年齢になっても男児が生まれなかったため、彼女は次期当主と目されるようになった。当時のベアリー侯爵夫人が病に倒れたせいもある。
次期当主となった長女にはまず、婚約者が宛てがわれた。婿入りする予定の婚約者と、長女の相性はそう悪いようには思われなかった。
ただ、互いに積極的に仲を深めることもしなかった。なにせ長女は当主教育で忙しく、時間がなかったから。
あるいは、婚約者への気持ちは大してなかったのかもしれない。所詮は大人たちが勝手に決めた相手なのだから。そのように決められただけの人、だった。
ベアリー侯爵は後継者教育という名目で長女を厳しくしつけた。侯爵自ら課題を課し、女だからと軽んじられることがないよう失敗は一つも許されなかった。不幸であったのは、長女にはその課題をこなす忍耐強さと優秀さがあったことかもしれない。
一方で、次女は顧みられることはなかった。侯爵は淑女教育は妻の領分だと思っており、しかし夫人は病でその采配をできなかったからだ。
次女には家庭教師がつけられ、形式的な教育はなされた。不運であったのは、次女には美しさと自分を演出する力があったことかもしれない。次女は親に顧みられない哀れな娘として侍女や使用人を味方につけ、自分のことをちやほやする人間だけを周りに置いた。
この関係が変わったのは、まず、ベアリー侯爵家にもう一人の子供が生まれたときだろう。
療養を経て体調が戻った夫人は、息子を産んだ。長女とは十歳の差がある息子は体が弱く、侯爵夫妻はとにかくこの息子にかかりきりになった。
もう一つは、次女が長女の婚約者をたぶらかしたことだ。
息子にかかりきりの夫妻と、男爵領一つの采配をすべて任され、そして侯爵本人の余暇を作るために領地運営の取りまとめを課された長女はこのことにしばらく気が付かなかった。
長女の婚約者も、婿入り先に息子が生まれたことに不安を抱いていたのかもしれない。長女が当主にならないのかもしれないという不信感。そこに美しい次女が付け入り、あっという間に骨抜きにされてしまった。次女と結婚したところで何か手に入れられるということではないのだが、恋に目がくらんだとしか言いようがない。
この事態が明らかになったのは、長女の婚約者がしびれを切らしてベアリー侯爵家に突撃し、長女とは結婚をしないと宣言をしたせいである。晴天の霹靂としか言いようのない侯爵夫妻は驚いたが、事態を収拾させるために長女にすべての責任を擦り付けた。お前が手綱を握っていなかったのが悪いと。
あるいは侯爵夫妻にとって、都合がよかっただけなのかもしれない。先に生まれただけの長女ではなく、ようやく設けた息子に当主を継がせる名目として。
結果として、長男のお披露目と同時に長女は後継者から降ろされた。一方、次女は特に旨味のない姉の元婚約者との結婚を拒否した。そのころ、彼女はすでに王太子をも篭絡していたから。
婚約解消のきっかけが元婚約者側にあったこと、醜聞が身内の間で収められたことで、次女には目に見える瑕疵がないとされた。よって、王太子の婚約者にもすんなりと収まった。
そのころにはもう、次女はただ長女を見下すだけだった。後継者から降ろされ、婚約者を失い、親から見放された姉。
対して自分は王太子の婚約者となり、もはや当主を継ぐ弟よりも地位は勝る。次女はこれまでの鬱憤を晴らすように姉に強く当たった。
長女は後継者の座から降ろされたが、学園に通いながら経営の手伝いはさせられていた。もしかすると、自分はこのままいいように使われ続けるのではないか、という不安が大きかった。侯爵は気づいてしまったからだ。長女に仕事を任せておけば、自分は愛息子の成長を近くで好きなだけ見られるということを。
だが、じきに長女には新たな婚約者が宛てがわれた。
それこそが、シャール侯爵。当時は次期当主だった、若い学生である。
ベアリー侯爵家の長女が次期シャール侯爵夫人となるべく婚約が結ばれたのは、端的に言えば次期当主が不出来であったからだ。
当時のシャール侯爵は健康に問題があり、早めに当主の座を退くことを考えていた。だが息子にすべてを任せきりにするのは心配である。よって、領地運営の教育が施された長女はうってつけだった。
次期シャール侯爵は、そのことをわかっていた。長女に任せていれば自分は遊んでいられるということを。
長女にとっては仕事を丸投げしてくる相手が父から夫に代わるだけであったが、なんの権限もない行かず後家よりはまだ当主夫人の方が待遇がまともであることは容易に想像つく。
だから、当初は問題がなかった。二人の関係は深くはならなかったものの、悪くはなかった。
それを面白く思わなかったのは次女だ。落ちぶれたはずの、もはやなんの力も持ちえないはずの姉が侯爵家の夫人になる。それすら許せないと彼女は思った。
取られたのは短絡的な手段だ。王太子の婚約者となり増長していた次女は、家で横暴に振る舞うようになっていた。そして、癇癪を起こしたふりをして、長女の顔に伝導ランプを押しつけた。
長女の顔には、大きな火傷が残った。次女が部屋に閉じ込めたためすぐ冷やすこともかなわず、傷は悪化した。
ベアリー侯爵は流石に次女を叱り、治癒師を手配した。
――だが傷は一朝一夕で治るものではない。
令嬢の傷は醜聞だ。人目に晒さないため、ベアリー侯爵は長女をしばらく休学させることにした。といっても、休養するのは王都のタウンハウスのままである。そこに、次女は次期シャール侯爵を手引きし、長女の傷を見せた。
治らない傷ではないのに。白い肌が赤く爛れ、化粧もできなくなった長女を一目見て、次期シャール侯爵は顔を歪めた。あの醜い女が自分の婚約者であることに初めて嫌悪感を抱いた。
そうして、長女が休学している間にと、次女はおともだちの子爵令嬢を紹介した。次期シャール侯爵はこうして婚姻前から不貞に走ったのである。
長女の顔の傷は薄っすら残るくらいのままだった。治癒師への高額な報酬を惜しんだ両親のせいである。化粧でなんとか隠せるくらいになると、次女は長女の傷が治ったと大騒ぎし、反省の泣き真似すらした。
反省しているのだから許してやりなさい、と言われた長女に拒否権などない。化粧を落とした顔を見せたとて、お前は顔で嫁ぐのではないのだからとすら言われた。そこまで治したいのならシャール侯爵家の金で治せばいいと。ベアリー侯爵夫妻にとって、もはや長女はベアリー家の資産ではなかったのだ。
次期シャール侯爵の不貞も、傷の治った長女を見て一時は収まった。だが、結婚してしまえば素顔を見る機会などいくらでもある。
学園を卒業して、次期シャール侯爵はシャール侯爵家当主となり、ベアリー侯爵家の長女はシャール侯爵夫人となった。
初夜こそは傷痕も化粧で隠し通せた。しかし夫人の素顔を見た侍女の一人がシャール侯爵に漏らしてしまえば、あとは転がり落ちるようだった。
シャール侯爵は騙されたと憤り、夫人を屋敷に閉じ込めた。そして本人は堂々と、学園時代の不貞相手と付き合うようになる。
夫人は仕事を手につけることすら許されなかった。大事な旦那様を騙した傷物の女だったから、使用人たちにも無下にされ、無意な日々を送った。そのうち腹が膨らんでも、シャール侯爵は顔も見せなかった。
それでも、危機感は募らせていたらしい。あの悪女の子供が万が一にでも後継になってしまえば。それはシャール侯爵にとっては家の乗っ取りのようにも感じられた。間違いなく己の子であるにも関わらず。
「なら、いなくなってもらえばいいのだわ。そうでしょう?お姉様はあなたを騙した大罪人なのですもの。大丈夫ですわ、お医者様なら手配をお手伝いさしあげてよ」
だから、その甘言に乗った。
その頃、まだ学園生だった次女からは、王太子の心が離れ始めていた。
姉への報復に夢中になって王太子をおざなりにしていたせいだろう。あるいは、ベアリー侯爵家と縁続きになってもなんの旨みがないと王太子が気づいたか。その心の隙をついて、裕福な伯爵家の娘は王太子の手を取っていた。
次女は王太子を許せなかったし、ストレスの捌け口であった姉がいなくなったことでも荒れていた。当てつけのような提案を鵜呑みにした侯爵が何をしても構わなかったのだろう。むしろ、望んでいたのだろう。
そうして、出産時に適切な処置を施されなかった夫人はそのまま死んだ。
一人で、産んだ息子の顔も見られず、ただ冷たくなって。
その尊厳は最後まで踏み躙られ、墓の下に葬られたのだった。




