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第一話

 雨の匂いが空気に溶け込んでいた。灰色の雲が低く垂れこめた空の下、生徒会長綾瀬千尋は静かに屋上の扉を押し開けた。


 濡れたコンクリートの上、制服の裾を揺らしながらひとりの少女が佇んでいる。橘玲奈――彼女はフェンスに寄りかかり、しとしとと降る雨をじっと見つめていた。


「……校則違反よ、橘さん」


 千尋の声に、玲奈はゆっくりと振り返る。濡れた前髪の隙間から覗く瞳が、どこか寂しげに揺れていた。


「見つかっちゃいましたね、生徒会長」


 玲奈は悪びれる様子もなく微笑んだ。その無邪気さが千尋を困惑させる。


「ここは私の秘密の場所なんです」


 玲奈が手を広げると、雨粒がその指先に溶けて消えた。千尋は思わず息をのむ。屋上の冷たい空気が、なぜか熱を帯びたように感じた。


「……早く戻りなさい」


「生徒会長も、私を咎めるだけで帰っちゃうんですか?」


 玲奈の瞳が千尋を捉える。逃げられない。千尋は理由のわからない鼓動を抑えながら、玲奈のそばへと歩み寄った。雨が、ふたりの距離を縮めるように降り続けていた。


「橘さん、次の書類を整理しておいて」


 生徒会室で千尋が指示を出すと、玲奈は「はいっ」と元気よく返事をした。周囲の生徒たちが「さすが玲奈、仕事が早い」と笑う中、彼女は軽やかに動き、柔らかく微笑んでいた。


 ――本当に、あの屋上にいた子と同じ人間なのだろうか?


 千尋は、ふと視線を彷徨わせる。玲奈はいつも明るく、誰とでも親しく接している。しかし、千尋が見たのは違う顔だった。冷たい雨に濡れた寂しげな横顔。


 気のせいだろうか。


 「先輩?」


 玲奈の声が近くで響く。気づけば目が合っていた。千尋は咄嗟に目を逸らし、視線を書類へ落とした。


 放課後の廊下、人波の間を縫うように歩くと、不意に玲奈とすれ違った。


 「……!」


 指先が、かすかに触れた。ほんの一瞬、玲奈のぬくもりが千尋の肌に残る。振り返ると、玲奈は微笑んでいた。だが、その瞳の奥には、やはり何かが隠れていた。


 夜の帳が降りる前、千尋は無意識に屋上への階段を上がっていた。扉を押し開けると、そこにはすでに玲奈の姿があった。


「やっぱり来ましたね、生徒会長」


 フェンスに寄りかかりながら、玲奈は微笑む。その表情はどこか嬉しそうで、千尋は言葉を失う。


「どうしてここに?」


「ふふ……先輩なら、また来ると思っていました」


 玲奈は軽やかに言うと、傍らのコンクリートに腰を下ろした。千尋は一瞬迷ったが、その隣に立つ。


「この場所、好きなんです。風が気持ちよくて、誰もいなくて。……まるで世界にひとりきりみたいで」


「そんな風に思うなんて……寂しくない?」


 千尋の問いに、玲奈は少しだけ視線を落とした。


「……昔から、ひとりの時間が長かったんです。母が忙しくて、家に帰っても誰もいないことが多くて」


 ぽつりとこぼれた玲奈の言葉に、千尋は胸が詰まる。


「それで、転校の話が出たときも、別に驚かなかった」


 玲奈の声は、あまりにも静かだった。


「転校……?」


「まだ決まったわけじゃないんです。でも、そうなったら……ここも、私だけの秘密の場所じゃなくなりますね」


 千尋は言葉を飲み込んだ。玲奈の言葉の端々に、どこか諦めのような響きを感じた。


 「……それなら、今日からここは、私たちの場所にしない?」


 不意に、玲奈の目が丸くなる。そして、ゆっくりと微笑んだ。


「先輩がそう言うなら……秘密を共有ですね」


 その笑顔が、雨に濡れた屋上の風景よりも、ずっと儚く、愛おしく感じられた。


 放課後の教室、窓の外には朱色の夕焼けが広がっていた。千尋はペンを走らせながらも、ふと手を止める。机に頬杖をつき、思い出してしまう。


 玲奈の微笑み、風に揺れる髪、指先がかすかに触れたあの瞬間。


「……何を考えてるの、私」


 小さく息を吐き、ペンを握り直す。それなのに、視線の端に玲奈の姿を探してしまう。


 翌朝、校門で玲奈を見つけた。明るく笑いながら友人と話す姿が、妙に眩しく見える。


「おはようございます、生徒会長」


 玲奈が千尋を見つけ、駆け寄る。その瞳がまっすぐで、千尋の胸がざわついた。


「……おはよう」


 いつも通りに返したはずなのに、どこかぎこちない。玲奈は不思議そうに首をかしげる。


 授業中、玲奈の横顔を盗み見るたびに、千尋は自分が何を求めているのかわからなくなる。友達以上の気持ち? でも、恋とは違うはず――。


 けれど、玲奈が誰かと楽しそうに笑うたび、胸の奥が苦しくなるのは、どうしてだろう。

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