表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第一章―邂逅―

 空から魔法少女なんてものが降っては来ない退屈な世界に、俺は生きていた。

 魔法や錬金術なんてものが実在する世界でもなければ、異形の化物が闊歩する荒れた世界でも無い。至極穏やかでなだらかで平坦で、だからこそ、少しばかり飽きが来るような、そんな世界に俺は生きていた。

 いや、或いはこの世界の何処かにはそれらファンタジアの存在の証左が隠されているのかも知れないけれど、少なくとも現代日本のしがない大学生に過ぎない俺には、それを確認する術さえも無い。巷で流れる都市伝説の類を、いやいや有り得ないと一笑に付しながらも、それでいて心の奥底ではそんなものがあれば面白いだろうなと、小さな期待の欠片を抱きつつ受け入れて仕舞うような無気力状態に、俺はすっかりと、憑りつかれていたのだ。

 だから彼女に関するあの無根拠な噂話を耳にした時も、似たように笑いながら面白がった。

 曰く、此度その下世話な噂話の餌食となった彼女、波止場舞風は、狐憑きである。

 その波止場舞風という学生は、俺の通う大学では少しばかり名の知れた存在だった。

 名の知れた存在と言うと遠回しな表現に聞こえるかもしれないけれど、そもそも俺は彼女に会ったことが無いのだ。会ったことが無いからこそ俺は彼女について伝聞でしか知らないし、けれど噂を耳にする頻度が矢鱈と高いから、やっぱり彼女は名の知れた存在なのだと思う。

 まず取り上げられるのは常に、彼女の人目を引く美貌についてだった。

 その目鼻立ちのはっきりとした端正な顔立ちは、ややの幼さを残しながらもどこか妖艶さを纏っていた。背の辺りまで伸びた長い黒髪には、幾筋か青いインナーカラーが走っている。

 次いで語られるのは、奇天烈な彼女についての忌憚のない奇譚の類と相場は決まっていた。

 戯れに話しかけてきた学生に会話の必要性を問うて論破したり、深夜のキャンパスに巫女装束で侵入を図ってみたり、図書館の階段の踊り場で寝そべってみたり。

 そういう奇行とも愚行ともつかない彼女の破天荒は、文字通り枚挙に暇がない。

 まぁそのすべてが事実という証拠があるわけでなし、疑わしい箇所は残るものの、いずれにしてもそうした物語によって、俺は波止場舞風を知っていた。

 伝聞が形作った幻想を、噂が導いた虚像を、波止場舞風と呼んで差し付かえないのならば。

 ここまでつらつらと言い連ねてきたけれど、そもそも俺は彼女に興味を持ってなどいなかったし、当然彼女は俺のことなんて知りもしない。

 実際に姿を見たのだってただの一度も無かったわけだし、そんな俺からしてみれば、第一に波止場舞風なんて学生が実在しているのか、それすらも怪しいわけである。

 而して、そんな彼女が所謂狐憑きであるという噂話は、酒の肴という一時の気晴らしに相違なかった。だがそれでも、酔いもしない生ビールを何杯も喉に流し込むという単調な作業の過程に在っては、一種のスパイスとしての効果を発揮してくれてはいたのだ。

「僕もさ、実際にそんな馬鹿げたことは無いだろうと思って、疑ってかかってたんだよ」

 懇切丁寧にその噂話を伝えてくれた魚蔭晋太郎は、すっかりハイボールに頬を赤らめながら、でもね、と言葉を繋いだ。居酒屋の喧騒の中で、不思議と彼の声は通って聞こえる。

「でもね、僕は見てしまったんだよ。視界の隅に彼女が映ってちらと視線を投げた時に、本当に偶然にね」

「随分と勿体つけるじゃないか」

「うん、だって未だに半信半疑なんだ。僕は幻覚を見ていたのか、それとも何かの偶然が積み重なって、僕にはそう見えたのか」

 空になったジョッキをかたりとテーブルの上に置き、さて次は何を頼もうかなと、見慣れたメニューを指でなぞる。反対に魚蔭はジョッキの持ち手を固く握りしめたままテーブルの上のツマミを凝視していた。

「……それで、何が見えたって?」

 カチカチとライターで煙草に火を点けながら、俺は彼に続きを促す。

「―――尻尾なんだ」

 暫しの沈黙があって、彼はそう言った。

「尻尾?」

「午後八時過ぎ、当然外はもう暗かったわけだけれど、僕は調べ物があって図書館にいたんだ。何を調べていたんだっけな、そう確か、講義の課題で必要な文献を探しに行ったんだったか。まぁでもそれはこの際どうでもいいね。何れにしても閉館の時間になってしまって、でも僕はそれに気が付かないで書庫の中であれこれ探し回っていたんだけれど、巡回していた警備員さんが閉館だと伝えてくれてね、僕は慌てて身支度をしたんだ」

「……それで?」

 白く煙を吐きながら、俺は彼の語りに耳を傾ける。

「僕は一階にある書庫にいたんだけれど、荷物を抱えて、急いで階段を降りようとした。そこにね、いたんだよ、彼女が。波止場舞風が」

「恰も彼女が幽霊か何かみたいな言い草じゃないか」

「驚いたんだよ、その時は。閉館時間を過ぎても残っていた学生がいるってことは、確かに今思えば有りえることなんだけれど、でも何というかこう、残り方というかさ」

「残り方、ねぇ……」

「だって不自然なんだ。彼女は階段の踊り場で窓の外を眺めていた。何を見ていたのかは知らない、でも何かを見下ろすようにして立っていたんだ。身じろぎもしないで、ね」

「それだけ聞くと誰かを待っていたんじゃないかと思うけどな。例えば誰か連れが御手洗にでも行っていて、それを待っている、みたいな」

「……確かにそうなのかも知れない。でも、そうだとしても僕は彼女に違和感を覚えた」

「違和感」

「うん。知っていると思うけど、ウチの大学図書館って何故か気取っていてドイツ式に階数を数えるだろう? つまりエントランスがある零階は日本的には一階、それで僕がいた一階は、日本的には二階にあたる。二階だと丁度外に街灯が立っているくらいの高さで、夜になるとそれに照らされて窓枠すらも影を持つ。だから彼女も街灯に照らされて影を持っていたんだけれど、その影がね、何だか妙なんだよ」

「妙って?」

「……彼女の腰の辺りからね、尻尾が生えていたんだ」

 魚蔭は残っていたハイボールを一気に煽ると、ぷはと大きく息をついた。

「僕は目を疑ったよ。確かに彼女がスカートみたいなものを履いていたのなら、なんかこう、有り得るじゃないか、スカートの裾の膨らみでそう見えてしまうことが、有り得るじゃないか。でも彼女は一般的なズボンを履いていた。それどころか、彼女の腰からは尻尾なんか生えてはいないんだよ。でも影を見るとそこにちゃんと尻尾がある。如何にも狐の尻尾然としたものが」

「見間違いじゃないのか?」

「二度見どころか三度見、四度見しても、僕の目に映るものは変わらなかった。僕は怖くなって慌ててそこから逃げ帰ったけれどね。ねぇ頼政、僕はあの噂が真実なんじゃないかと本気で思うよ。彼女は狐憑きなのかも知れないと、本当にそう思うよ」

 普段あまり物事に動じない魚蔭がぶるりと身震いをしたのを見て、俺は別段彼が作り話をしているわけでは無さそうに見えた。或いは彼がその作り話の精度に自己陶酔して武者震いするような狂人であったのならば話は別だけれど、少なくとも俺にはそうは思えない。

「……ちょっと興味がわいてきたな」

 吸殻をごしごしと灰皿になすりつけながら、俺はそう言った。

「俺は彼女と面識がある訳でもなければ、彼女のことを知っている友人もいない。だが何とかして真相を知りたいものだな」

「僕はもう辞めておいた方がいいんじゃないかと思うんだ。若し仮に、万が一にだ、彼女が本当に狐憑きだったとしたら、君はどうするつもりなんだ?」

「どうするも何も、狐憑きってのがそもそも害を為すものなのかさえ俺は良く知らない。寧ろ民俗学専攻のフィッシュの方が詳しいんじゃないのか」

「僕も詳しくは知らないんだ、狐憑きについては。でもさ、明らかに普通では無いじゃない。普通じゃないってことは異常だし、触らぬ神に祟りなし、なんて言葉もある。僕から彼女に関する噂話をしておいてなんだけれど、僕はある意味で警告のつもりで話したんだ。僕も君も、彼女には、波止場舞風には関わらないほうがいい」

「……まぁ、酒の席で出任せを言っているようにも見えないし、フィッシュは本気でそう言っているんだろうけどなぁ。何だよ、退屈な日常にひょこっと愉快なツラしたモグラが顔を出したと思ったら、棍棒を持ったままそれを叩くことも許されないってか」

「その例えには苦笑いで返すしかないけれど、でもそういうことだね。少なくとも僕は、唯一の親友である君が危ないものに近寄っていくのを傍観しているつもりはないからね」

「何だ、それ」

 さぁこの話はこれきりだよと、魚蔭は強くも無い酒を次々と注文し始めた。

 そこからの雑談は多岐に渡った。

 彼が最近始めたという麻雀の話、俺の趣味の釣りの話、今期のアニメは何を見るべきか、なんて論評会みたいなこともしたが、結局波止場舞風に関する話題が再び俎上に現れることは無いままに、閉会となった。

「じゃあ僕は明日が早いからそろそろ失礼するけれど、頼政は明日の講義は?」

「四限だけだな、確か。水曜日だよな?」

「そうだね、じゃあ朝はのんびりか」

「朝に眠って昼に起きる。素晴らしい一日の始まりだ」

「羨ましいよ、全く。それじゃ、また連絡する」

「あぁ、今回は千鳥足で電柱にぶつからないで帰るんだぞ」

「あはは、気を付ける。あ、じゃあ最後に一言だけ」

「ん?」

「波止場舞風に、関わっちゃだめだよ」

 そう言い残すと、魚蔭はそそくさと帰っていった。

「波止場舞風、ねぇ」

 ぼそりと呟いてから、俺も帰路に就く。

 学生街という事もあってか、午前零時を回ったとはいえ道を行く人の数はそう少なくはない。居酒屋は軒並み明かりを灯しているし、カラオケはギラギラとネオンサインが輝いている。

 ここから借りているアパートへは、大きな都立公園を抜けていくのが最も近道だろう。

 少しばかり口寂しかった俺は、道中コンビニで酒を買いそれを啜りながら、その公園へと足を踏み入れた。

 風が吹いている。それも晩秋の憂いを含んでやや重たい風が吹き抜けていく。

 紅葉はとうに過ぎ去り秋の残滓とも言える黄色い葉が数枚、木々について風に揺られていた。

 公園の中には、俺以外に誰もいないようだった。

 無機質な電灯が道を薄暗く照らし、人工的に作られた小川がさらさらと流れる音だけが聞こえた。

「……ちょっと怖いか」

 人間は本能的に暗闇を恐れるというが、確かにそうなのかも知れない。

 だが寧ろ真暗闇のほうがマシなような気がする。

 少しばかりの光源がある所為で、照らされていない部分の暗闇がより一層際立ってしまう。

 歩道に沿って植えられた植込みの隙間から何かが覗いているような、そんな錯覚があった。

 早く帰って風呂でも浴びようと、自然と急ぎ足になる。

 歩道と並行して流れる小川を遡るようにして歩き、その源となっている小さな池に辿り着いた時、不意に声がした。

「何時までそうしているの?」

 女の声だった。

 その声は、頭上から降ってきたように思えた。

 驚きなのか、それとも恐怖なのか、或いはその両方か、足が動かなくなった。

 その場に立ちすくんだまま、俺はじっと息を殺す。

「ねぇ、何時までそうしているつもりなの?」

 再び声が降った。声はやはり、頭上から聞こえてきている。

「恐怖で声も出せないの?」

 変わらないで、声はそこからし続けていた。

「……誰だ」

 声は出せた。だが、顔を上げる度胸を、俺は持ち合わせてはいない。

「気になるのなら臆せずに顔を上げて御覧なさいな。別に伊勢物語みたいに取って喰おうというわけではないのだから」

 言われて、ゆっくりと、恐る恐る顔を上げる。

 声の主は、小池の向こう岸に植わっている大木の枝が、橋のようにして池の上に跨って伸びてきている箇所に腰かけていた。遠くにある電灯が、微かに彼女の顔の右半分を照らしている。

 彼女のことを、俺は知らなかった。

 見知らぬ女が深夜に一人、木の枝の上に腰かけて語りかけてくるというのは、魚蔭に言わせるまでもなく、異常な事だった。

「お喋りするのは今の貴方とは初めてだものね、驚くのも無理ないわ」

「どういう……?」

「いいから、挨拶くらいさせなさい。初めまして、私、波止場舞風」

 そう言うと彼女はぱっと枝から飛び降りて、俺の前に立った。

 成程確かに噂に違わぬ美貌の持ち主ではあったけれど、いやいや、今はそれどころじゃない。

 波止場舞風。

 まさしく先程魚蔭と噂話に興じていたあの波止場舞風が、どうしてか、深夜に俺と接触してきたのである。それも何故か、向こうは俺を知っている風だった。

「人違いなんて筈は無いけれど一応確認したいから、貴方も名乗って貰っていいかしら?」

「……流鏑馬、頼政」

「そうね、知ってる。貴方は流鏑馬頼政」

 彼女はじろじろと、まるで値踏みでもするかのように俺のことを眺め始めた。

「ずっと見てたのよ、貴方の事。でも貴方ったら全く気が付いてくれないんですもの。いえ、本当は気が付いていたのかも。気が付いていたけれど、気が付かない振りをしていた、とか」

「俺は、その、君のことは風の噂で知ってはいた。面識もないし、何なら実在するか疑ってさえいたが……」

「ふーん、風の噂、ね。ま、それでもいいけれど、何れにしても私は貴方に大事な用があって会いに来たの。いいえ、会いに来た、というのは正しくないのかも知れないわね。正確には、連れ戻しに来た、のかしら」

「おいおい待ってくれ、俺には何が何だか……」

「……まぁ、そうでしょうね。何も覚えていないし、何もかも忘れているのでしょうし。でも貴方が忘れてしまっていても、私は貴方のことをちゃんと覚えているわ」

「いや本当に何を言っているのか、微塵もわからないんだ」

「だからそれを責めたりしていないじゃないの。それよか、何時までもこんなところでお喋りさせる気? いい大人なんだから、何処か別の場所へ連れて行ったりできないの?」

「連れてくって、何処へ行きゃあいいんだ」

「そうね、じゃあまずは明るい場所へ。出来れば貴方の家がいいのだけれど」

 そういうと波止場舞風は俺の手をぐいと掴んで引きながら、こう言った。

「こっちでしょ、貴方の家って」

 何故かまともな抵抗も出来ず引きずられるがままに俺は彼女を自宅へ連れ帰ることになった。なったというか、なってしまった。普通自宅に女性を招くとなればそれなりにどぎまぎするものだろうが、然しこの意味不明な状態でそんな正常な反応が出るわけもない。同じどぎまぎだとしても、この場合は生存本能に関わる方の、恐怖心からくるどぎまぎに相違ない。

 更に恐ろしいことに、何故か彼女は俺の自宅の合鍵を持っていた。

 だから俺は、やはり文字通り引きずり込まれるようにして、家へ押し込められたのである。

「相変わらず男の一人暮らしって感じね」

 手慣れた手つきで俺の家の電気を点け、物が散乱した惨状を見ながら彼女はそうぼやいた。

「あのさ、何で俺の家の合鍵持ってんの?」

 至極当然なことを尋ねると、彼女はそれこそ至極当然のような顔をして言う。

「当たり前じゃない、だって貴方のことを監視していたのだもの」

「その、監視しているのが当然だみたいな顔辞めてくれ。さっきも言ったけど、俺は君の事を風の噂でしか知らないんだ。だから、君は俺に何もかも説明する義務があると思うんだが」

「わかってるわよそれくらい。あ、紅茶がいい? それとも珈琲? あでも、確か珈琲は切らしてたんだっけ」

「他人の珈琲の在庫事情を完璧に把握するな。確かに切らしてる、怖いからもうそこに座ってじっとしててくれ、紅茶は俺が淹れるから」

「あらそう」

 そう言うと波止場舞風は本の積み重なったソファーからそれを押しのけ、腰かけた。

 こぽこぽと紅茶を淹れそれを運ぶと、彼女はありがとうと小さく礼を言ってからそれを手にした。

「それで、何から聞けばいい。何から聞けば俺は順序立てて理解できる?」

「さて、何から話したものかしら。今の貴方が何を知りたがっているのか、私はそれを知りたいわね」

「俺は何もかもを君から聞きたいよ。何がわからないのか、それすらもわからないから」

「そっか、そうよね。じゃあ出来る限り順序立てて、何もかもを忘れてしまった貴方に教えてあげなくちゃいけないのね」

「その、忘れてしまったとか、憶えていないとか、それは何なんだ?」

「いいから、それもちゃんと話してあげるから、まずは私の話を聞いて頂戴」

 こほんとわざとらしく咳払いをして、彼女はゆっくりと語り始めた。

「貴方、流鏑馬頼政。私はずっと貴方のことをらいせーって呼んできたのだけれど、それは憶えていないわよね?」

「初めて呼ばれたぞ、その呼び方で……」

「そっか、少し寂しいわね。まぁ仕方のないことなんだけれど、でもこれまでの時間が全て無に帰すというか、存在しなかったことに貴方の中ではなっているってことが、何よりも寂しい」

「……その話っぷりだと、俺と君とは知り合いなのか?」

「知り合いってレベルじゃないわよ、生まれた時からずっと一緒だった。私の実家に戻れば、小さい頃の私とらいせーとが一緒に映っている写真が一枚や二枚出てくると思うわ」

「所謂幼馴染って奴か?」

「そうね、それが正しいのかも」

「なら猶更不思議だな。仮に俺と君とが幼馴染だったとして、たかだがそれだけしか記録が残ってないなんて不自然じゃないか? 少なくとも俺側には過去の記録なんかないし」

「……その写真は私が必死に隠して守り通したものだもの。他のは全部、焼かれちゃった」

「焼かれた? 火事にでも遭ったってことか?」

 そう問いかけると彼女は、ふるふると首を横に振った。

「焼かれたのよ、人為的に。貴方が故郷を去ってすぐに、みんなが」

「……何だか穏やかじゃないな」

 俺は煙草に火を点けながら、彼女の語りが真実か否か、それを見極めようとしていた。

「それに故郷ってのも気になる。俺の生まれは東京で、他所で暮らした覚えはないぞ。引っ越しだって大学に来るのにあの家は遠いからって一度したきりだし」

「じゃあ逆に聞くけれど、らいせー、貴方は過去のことをどれだけ憶えてるの?」

「どれだけって、至って普通の人生さ。小中高と地元の公立に通って大学だけ私立に来た」

「そうじゃなくて、過去の友達とか、未だ付き合いあるの?」

「高校の奴らとは未だ繋がってるよ、だけど小中の奴らとは全然だなぁ」

「……本当に?」

「こんな時に見栄張ったり嘘ついてどうなるんだよ」

「いえ、私が言いたいのは、本当に小中の記憶はあるのかって、そういうことよ」

 言われてみて、はたと気が付く。

 確かに小学校中学校と地元のを卒業したはずだし、それなりに友達と仲が良かった気もする。

 だが誰一人として、顔も名前も声も、思い出せない。時間が経って色褪せたとか、そういうことではない。連続する記憶にぽっかりと穴が開いているような、そんな印象がある。

 いや、そもそも俺の記憶は連続しているのだろうか。

 幼少期の事はうっすらと覚えてはいるけれど、物心ついてからの記憶が、あまりにも脆い。

「……思い出せない、かもしれない」

「そうでしょうね」

 彼女はずずと紅茶を啜ると、じっと俺を見た。

「だって、記憶が無いのではなくて、そもそもそんな事実が存在していないもの」

「……どういうことだ?」

「残念だけれど、らいせーが優秀過ぎて小学校と中学校を飛び級した、なんてオチじゃないわ」

「誰もそんなこと言って無いだろ」

「少なくとも貴方は東京の小学校中学校を卒業したわけじゃない。貴方は私と一緒に故郷の学校に通っていたわ。世間一般で言う学校とは少し違っているとは思うけれど」

「俺には全く記憶が無い。君と出会っていた記憶も無ければ、その、故郷とかいう場所の想い出もない。だが確かに過去の記憶が怪しい、それは認めようと思う」

「いいことね、貴方が素直であればあるほど、私も話しやすくなるわ」

「そりゃどうも」

「だから、ちゃんと改めて伝えようと思うわ」

「何を」

 そう問うと波止場舞風はまっすぐに俺の目を見据えながら、告げた。

「貴方はね、らいせー。故郷を追放されたのよ」

 やはり穏やかでは無かった。

 何を言っているのか、半分も理解できていないように思えた。

 彼女は嘘を吐いているのだろうか。だがあの目は、嘘を吐いているように見えなかった。

 少なくとも彼女が俺にそんな嘘を吐くことで如何なる利益があるのか、少なくも現時点の俺には見いだせなかった。

「……追放、ねぇ」

 そう声を絞り出すと、彼女はそっと俺の手に触れた。

「疑われても仕方のないことだと思うわ。貴方が貴方を守るために構築した偽りの記憶は、そう容易く壊れるとも思えないもの。でも信じて頂戴、私はずっと、貴方の側にいるから」

 何故だろうか。妙な懐かしさと安心感がある。

 美女に手をさすられているというシチュエーションの所為なのだろうか、それとも彼女が見せたあの悲しげな表情が、俺をそんな気にさせたのだろうか。

 手を振り払う気にはならなかった。

 せめて最後まで、彼女の話を聞いてみようと思いもした。

 だから、俺も改めて問いかける。

「すべてを、話してくれ」

 彼女は少しばかり驚いたような顔をして、小さくこくりと頷いた。




 流鏑馬頼政。

 それが俺の名前だった。

 名を持たぬ神社で代々神主を務める流鏑馬家の生まれで、その後継ぎと目されていた。

 だがとある事件によって俺の両親は命を落とし、俺は罪を背負って故郷を追われた。

 波止場舞風。

 彼女は俺の幼馴染だった。

 彼女もまた事件に巻き込まれた当事者の一人で、けれどその事件の責が俺に課されることに不信を感じ、俺を探して故郷から出てきたという事だった。

 俺の過去の記憶が無いのはあの凄惨な事件の記憶を封じ自己を守るため、らしい。

 二時間近く語り続けた彼女の話を要約すると、そんなところだった。

「それで、その事件ってのは一体全体何だったんだ? ただの交通事故とか、そういう話じゃなさそうなのは見えてきたが……」

「……事件と呼ぶべきなのか、それとも事故なのか。正直に言うと、私もわからないの。誰も教えてくれなかったし、その話をすることそのものが故郷では禁忌とされていたわ。でもね、らいせー。私も未だ全貌は掴めていないのだけれど、それでもきっと貴方の存在が不可欠なのだろうってことは薄々と思うの」

「全貌も何も、具体的に何が起こったのか、ということさえ俺は未だ知らないぞ」

「……実際の所、私にもよくわからないわ。貴方の御家が代々管理していた神社が崩壊した、ってことくらいしか、物的な損害は無かったのだもの」

「なのに禁忌扱いされるのか?」

「だって、場所が場所だし……」

「言っちゃあ何だけど、神社が壊れることって何処の御社でも有り得ることじゃないのか? それこそ廃神社なんて言葉は日常でもよく聞くし、それらしき場所だって見たことあるぞ」

「意味が違うのよ、あそこだけは。あそこはね、らいせー。何を祀っていたと思う?」

「何かしらの神様なんだろうよ、神社なんだし」

「あんなものが神ですって⁉」

 波止場舞風は突然に叫んで、立ち上がりながら捲し立てた。

「あれはね、らいせー。神でも何でもないわ。確かに神話的で伝説的な存在だけれど、あれは神でも何でもないのよ。強いて言うのなら祟りそのものよ。あれさえいなければ、私だって、普通の人間として生きていくことが出来たのかも知れないのに……」

「落ち着けよ、そう泣きそうな顔をしないでくれ」

 まぁ座ってくれと彼女を宥めながら、然し彼女のあまりの豹変ぶりにこれは只事じゃないと直感した。愈々と、これは二択を迫られている。

 一つは、彼女が狂人であること。彼女が自身の妄想に取りつかれて、何故かその舞台に俺が巻き込まれているという可能性。

 二つは、彼女は真実を述べているという可能性。彼女の態度や話しぶりから虚言を言い連ねているようには思えないし、何より妙な説得力がある。

 だが未だ完全にどちらかを判断することは出来ない。もう少し情報が必要だった。

「それでじゃあ、その、祀られている神話的で伝説的な存在ってのは、一体何者なんだ?」

 波止場舞風はごしごしと目元に浮かんだ涙を拭うと、薄く赤に腫れたそこを隠しながら言う。

「―――九尾の狐」

「九尾の狐?」

「えぇ、恐らく貴方が想像している通りの、妖怪みたいなあれよ。あれはこの世界に実在するし、そしてあの神社では神にも似た存在として祀られていたの」

「随分と胡散臭いな、急に」

「……信じてくれないの?」

「だってそうだろう? 科学が発達していない中世ならいざ知らずだ、現代日本だぞここは。九尾の狐、なんて空想上の存在が実在しているだなんて、俄かには信じられない。仮にそれが居たとして、だ。それを祀っていることそのものにどんな問題がある?」

「……問題」

「あぁ。宗教とか信仰については明るくないけれど、それを信じることそのものには大して罪なんぞ無いように思える。実際の所、実害も無い訳だろ?」

「……そうね、そうよね。貴方は何もかも忘れているのだものね。だったら私たちに課せられたものがどんなものだったのか、忘れて仕舞っていてもおかしくないわよね」

「課せられたもの、ね」

「じゃあ証拠を見せてあげる。証拠を見せてあげるから、その、電気を消して頂戴。月明かりだけにして」

 そう言うと彼女はふらふらと立ち上がった。

「一体何をするつもりなんだ」

「いいから、言われたとおりにして。電気を消して、締め切ったカーテンを開けて頂戴」

「わかったよ……」

 言われるがままに電気を落とし、そしてカーテンを開ける。

 何をしでかすつもりなのだろうか。成り行きに任せて話を続けてきたは言いものの、俄かに雲行きが怪しくなってきた。

 その証拠とやらを見ないで放り出したって問題は無いのではないかと、そんな至高が脳裏を過る。

 然れど、と思い直して顔をあげる。今宵は満月である。……そう、満月であった。

 微塵も欠けぬ満月が、己の姿を誇示するように煌々と夜空を白銀に照らし出していた。それを讃えるように無数の星々が瞬き、晩秋の冷気がその美しさに磨きをかけている。春の予感は遠く、ならいっそ春など迎えないでこのまま時が凍ってしまえば、とさえ思う。

 思わず壮麗な満月に見惚れていると、背後からしゅるりと衣擦れの音が聞こえた。

 慌てて振り返ろうとすると、いいって言うまで待ってと口調荒く制止された。

 するするという妙に艶っぽい音がして、少しすると、いいわよ、と告げられる。

「……マジかよ」

 波止場舞風は人間である。否、少なくとも人の形をしていた。

 だが明らかに人間には見えぬ箇所があった。

 頭頂部からは長い黒髪を掻き分けるようにしてぴょこりと二つ獣の耳が生え、腰の辺りからふさりとした長い尾が垂れている。瞳は赤く染まり、じっと獲物を睨みつけるような眼差しで、俺を見据えていた。

「即席のコスプレ、ってわけじゃあ無さそうだな……」

「違うわよ、もう。あと、その、あんまり見ないで頂戴。恥ずかしいから……」

 美しかった。その瞬間の彼女は、神話的で伝説的で、幻想的な存在だった。

「う、動かせるのか、それ」

 思わず尋ねる。

「……出来るけれど」

 彼女はひょこひょこと耳を動かし、そしてゆっくりと尾を振った。

「マジか……」

 コスプレでも何でもない。事実として、随意に動かせるそれは彼女の身体の一部だった。

「……本当のことを、言っていたんだな」

「だからそう言っていたじゃない」

「いやすまん、半信半疑だったんだが、これを見せて貰って漸く確信した。君は嘘を吐いてはいないよ。疑って悪かった」

「信じてくれたのならいいわ、それで。もういいわよ、カーテンを締めて」

 カーテンを閉め、電気を点けると、もうそこに耳と尾は無かった。

「見た所月光に反応するのか?」

「えぇ。月明かりに照らされても耳は何とか隠せるのだけれど、尻尾は影に出ちゃうのよ」

「あー成程、それでか」

 先程魚蔭が言っていた話にも合点がいった。狐憑き、だったか。

 狐が憑いているのか、それとも彼女が狐であるのか、それは判然とはしない。

「とにかく、君がその、狐っ娘であることは理解した。実にいい」

「変な目で見てないでしょうね?」

「見てない、見てないとも」

「それこそ疑わしいけれど」

「いやいや……。こほん、さて話を戻すと」

「本当に見てないでしょうね?」

「いいから話を本筋に戻させてくれ」

「ふーん、どうだか」

 彼女はふんと横を向いてから、くすりと笑みを浮かべた。随分と素敵に笑うじゃないか。

 それで、と俺は言葉を継いだ。

「俺はこれから何をどうしたらいいんだ。俺は本当に何もわかっていないと思うから」

「大丈夫よ、一度に全部話して理解して貰おうだなんて、私はそんなに傲慢じゃないわ。でもだからこそ、私の言いつけはよくよく承知して貰いたいわね」

「……少なくとも全体像が見えてくるまで君に従うよ、それは約束する」

「実に結構。それじゃ、まずは大まかな方針って奴を話しておきたいわね」

 彼女は再びすとんと腰を下ろすと、すっかり冷めきってしまった紅茶を一口含む。

「最終的な目標はあの事件の全貌を解明することよ」

「そうだな、それはわかってる」

「けれどいきなり本題に入ることは出来ないわ。この問題は本当に複雑怪奇で、絡み合った糸を一本一本懇切丁寧に解していくような、緻密で慎重な調査が必要なの」

「そういうものなのか」

「それにね、らいせー。怒らないで聞いて欲しいのだけれど、貴方には、その、あまりにも穢れが溜まり過ぎてるの」

「おいおい、人の事を指して汚物扱いは酷すぎるだろ……」

「違う違う、そういうことじゃないの。本来の意味で、貴方の体には穢れが蓄積されてるのよ。だからまずはそれを禊いでからじゃないと、故郷に辿り着くことさえ出来ないわ」

「……事件現場を調査しようにも、そもそもその穢れとやらの所為で現場に行くことすら出来ないってことか?」

「えぇ。だから時間は掛かると思うけれど、まずはその穢れを洗い落とさないと」

「それが禊ってヤツなんだろうが、具体的には何をする必要があるんだ? 禊って聞くと海に入ったりして身を清めるイメージだけど……」

 ちっちっちと、彼女は人差し指を立てて左右に振る。

「相手は九尾の狐なのよ? そんなことじゃ駄目。必要なのはね、らいせー。供物を得ること」

「供物?」

「そ。だからね、らいせー」

「ん?」

 そこまで言うと彼女は大きく胸を張って、言った。

「貴方には、東京を祓って貰うわね」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ