7 香奈と静江のしっそう
トイレの中には、突然の静寂が訪れていた・・・。
「静江・・・?」香奈の小さな声が響く・・・。
香奈は、さっき迄、指にどんなに力を入れて引いても動かなかった、トイレのスライド式のロックに手を掛けた。
その指は動かなかったロックを力一杯掴んで疲れきってたのと、異様な事が続いた緊張で震えていた・・・。
それでも香奈は、恐る恐る掴んでるトイレのロックをグッと横へと引いた。
すると、もう外から押さえ付けられて無かったロックは、思いのほか軽く動き、ガチン!と音を立てたので、香奈は体をビクン!っとさせ身を引いた。
トイレの中には、身を引いた香奈の靴音が響いた・・・。
身を固め、外の様子を探るのに少し待った香奈が、もう一度トイレのドアに近付く。
すると今度は、トイレの中に香奈の衣擦れの音がした。
トイレの中には、自分が立てる音しか無いのだと、香奈は思った。
トイレの個室に入って閉じ込められてる間に、いったい何があったのだろう!?
香奈はそう思いながら、そっとドアを少しだけ引いた・・・。
すると、キュッっという小さな音を立てて、ドアは簡単に開いた・・・。
香奈は、そっと扉の隙間から外を覗いた・・・。
「静江・・・?・・・どこ?」
静江の姿は見えない・・・。
香奈は、彼女がトイレから走り去ったとは思えなかった。
そんな音も足音も、全くしなかったからだ。
なのに・・・静寂に満ちた狭いトイレの中なのに、静江の気配が感じられない・・・。
有り得ない事に、自分以外は誰も居ないとしか思えない・・・。
その時だった・・・。
「・・・す・・・けて・・・」
微かな静江の声が聞こえた・・・。
「静江?・・・」
香奈は更に扉を開いた。
「か・・・な・・・たすけ・・て・・・香奈・・・」
静江の声は狭いトイレの個室の中で反響して、どこから聴こえて来るのか分からなかった・・・。
香奈は思い切って、トイレの個室から出た。
「静江?どうしたの?・・・私を怖がらせてるの!?」
香奈は恐る恐る辺りを見渡すが、誰も居ない。
更に踏み出して廊下へと続く方へと体を向け、そちらを見ても、出入口の扉も閉まっていた・・・。
「たすけて・・・!」
また、静江の掠れた小さな声がした。
その声のする方向は有り得ない方向だと香奈は感じた!
だから体を強張らせた香奈の背筋は一瞬で冷たくなった・・・。
それは彼女の右後ろ・・・洗面台のある右の方向・・・。
もしかして・・・と、香奈が振り返り鏡を見ると、この中学校の見慣れた学生服を来た、知らない男の子が鏡の中に見えた・・・。
(鏡に男の子が映って・・・!?いや、違う!!)
香奈には、彼がどう見ても鏡に映ってるように見えなかった!
自分の近くにその対象となる者が居ないからでは無い・・・鏡の中に別世界が在るようにしか見えなかったからだ・・・!
それも、けして美しくも、楽しくも無い世界・・・。
暗く・・・悲しく・・・憎悪に満ちた世界にしか見えなかったのだ!!
香奈は驚き!逃げようとした!!
しかし「助けて・・・っ!」と、今度はハッキリと静江の声がした!
それも、紛れもなく鏡の中からだ・・・!!
鏡の中には、最初の少年の他に、女子の学生服を着た女の子が2人現れた。
その3人は、沢田と、堂島と、水間だったが、それは香奈には分からなかった。
香奈の家で静江と2人でネット検索した事など、思い出せもしなかった。
そんな事より、もっとずっと大切人な友人が、そこに現れたからだ。
鏡の中。前に立って居た3人をスーっとすり抜けて近付いて来た静江と香奈は目が合った!
「たすけて・・・香奈・・・たすけて・・・!」
香奈の体は、わなわなと震えた!
それは、どうして静江が鏡の中に居るのか!?という思いと、たった今の静江の不自然で不気味な動きを見たからだった・・・。
「どうして!?静江!?」
「分からない・・・気が付いたら・・・。ううん・・・香奈をずっと待ってたらこうなった・・・。」
「そんな・・・。」
「だって私、さっきまで香奈と一緒だったでしょ?」
「そうだよ!どうしてそれが、こんな事に!?」
「だって・・・それは・・・。」静江はそう言うと、次の言葉を言い淀んだ・・・そして「助けて・・・助けてよ香奈!!」と、縋る思いをぶつけて来た。
「どうやって!?」
「私をここから引っ張り出して。」
すると静江の後ろから「僕も出してくれ!」と沢田が叫び、続けて堂島と水間も「私も・・・出して!」「もう、見捨てられるのは嫌!」と叫んだ!
静江も含めた4人は「こっちに手を伸ばして!私達をみんな出して・・・!!」「早くして!」「出して!!」と声を重ねて香奈に迫った!
香奈は助けたい気持ちと、身を守る本能との板挟みになり、どうしたら良いか混乱した!
「出して!!」「見捨てないで!!」「こっちに近付いて!!」「手を伸ばして!!」
トイレの中は鏡の中の4人の声が共鳴して、香奈の心を圧倒した!!
その声に香奈は耳を塞ぎたくなる!
鏡の中からは黒い靄のようなものが吹き出し始め、向こうの世界の4人の声は、悲痛に願う感じから徐々に妬みを感じさせ、そして今はもう、ひたすらに恨みを感じさせる声へと変化していた!!
「見捨てる気かぁー!!」
低く恨みの隠った沢田の声が香奈を一気に震え上がらせた!!!
堂島と水間が「逃がさない!!」と言うと同時に「こっちに来いぃ!!」と沢田も叫んだ!!
鏡の中から数本の指が飛び出して来た!!
そして「香奈は私を見捨てる気なの!!」と静江の声がした!!!
溺れ死ぬ寸前の人は、他人を水中に押し込み犠牲にしてでも助かろうとする!
その時の必死な表情は、無感情にさえ見える能面の様な不気味なものであると・・・!!
静江の表情は、正にそれであった!!
静江の姿を見た香奈の両目は大きく見開かれ、涙を流していた・・・。
その涙は、恐怖に依るものだったろうか・・・。
それとも、悲しみに依るものだったろうか・・・。
香奈は走っていた!!
一瞬でトイレのドアを開け、体育館へと続く渡り廊下へと出ると、振り返る事無く、体育館へと向かった!!
日常の喧騒を忘れたかの様に静まり返ってた渡り廊下には、ダン!ダン!ダン!ダン!っと、力の限りに廊下を蹴って走る香奈の足音が響き渡った!!
香奈は体育館へ入ると、直ぐに非常口の明かりを目指した!!
体育館から外へと出られる扉の前に着いた時、香奈は「はぁっ・・はぁっ・はぁっ・・」と、不規則に呼吸しながら、その扉のドアノブに両手を掛け、始めてトイレのある方を見た・・・!
あの4人が・・・静江が自分を追って来てないかと恐れたからだ!
薄暗い体育館の廊下や壁、その先に続く、更に暗く見える長い渡り廊下の先に、あのトイレから漏れる白い明かりが遠くに見えた・・・。
遠くに在るのに、香奈にはまだ、それが近くに在るように思え、また身体が震え出すのを感じた・・・!
香奈は全力疾走したのと恐怖心で息が上がり、思い通りに動いてくれない手で、内側からなら簡単に解錠できる筈のドアノブのサムターンを何とか回して解錠し、扉を開け外に出た!!
体育館の中からはピー!ピー!と、防犯ブザーが鳴り、何者かが校舎に無断で侵入した事を告げた!
香奈は体育館から飛び出し、そこから振り返る事なく校庭を走り抜けた・・・!
鏡の中の見知らぬ中学生3人と、静江。
その4人が閉じ込められて居る鏡の中に、自分も引き込まれてそうになった!
4人は自分を鏡の中に引き込もうとした!!
香奈は騒ぎを起こしてしまった事よりも、静江を置いて逃げる自分が怖かった・・・!
いや・・・。
香奈は、自分では、そう思いたかった・・・。
しかし、違っていた・・・。
本当は何よりも、自分を鏡の中に引き込もうとした静江が怖かった・・・!!
だから香奈は、泣いて走った!
怖くて・・・悲しくて・・・そして・・・。
そして、友人を見捨てて逃げている今の自分を許せないのに、逃げる足を止められない自分に涙した・・・。