第8話 関口の抱えているもの
この星音堂に配属されてよかった、と心から思った。今まで生きてきて知らなかった音楽の素晴らしさに出会ったからだ。
第一楽章のアダージオ。全六曲ある無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータの開幕にふさわしい豊かで重々しい雰囲気。しかし歌うような旋律の流れは淀みを許さない。途中、音楽が収まったかと思うと、そこからさらに終結に向かって流れていく旋律は、途中で調が変わったかと思うと、最初のg moll(ト短調)に戻って終止した。
星音堂の残響に乗ったその音は深く、あたり一面に満ち満ちる。たくさんの楽器で弾いているわけでもないのに。たった一挺の楽器で——。
橙色の照明の中、たった一人でヴァイオリンを奏でる関口の姿が蒼の虹彩に映る。
第二楽章フーガ。Dの音から軽快に始まるその簡潔な旋律は音を変え、あちこちから響いてくる。いくつものヴァイオリンで演奏されているかのような響き。
たくさんの音を一度に響かせるのは難しいのではないだろうか? と蒼は思った。
しかし、関口はそれを躊躇うことなく、流れるように響かせた。星音堂のパイプオルガンの上まで響きは突き抜けるかの如くだった。
(関口の心の叫びがここに集約されているのだ)
小さな頃から、世界的な父親という大きな壁が眼前に立ち塞がって、息苦しかったことだろう。うまくやろうとすればするほど、それは認められずに終いには「空っぽ」と言われたのだ。音楽のことしか知らなかったおかげで、彼はずっと孤独を味わってきたに違いない。
友達付き合いが苦手な蒼よりもさらに不器用なんて、本当に驚くべきことだった。 なのに彼は、自分の背中を押してくれたのだ。 星音堂に配属された良かったと思えるのは彼のおかげでもある。
まるで深海の底に一人ぽつんと佇んでヴァイオリンを奏でている関口は、異質な存在に見えた。それは悪い意味ではない。人間離れしていて、いつもの彼とは違っているということ。
星音堂に配属されて、蒼は音楽の素晴らしさを知った。このホールのこと。星野から教えられた音楽の知識。そして、関口から与えられる生の音。なぜこんな素晴らしい世界を今まで知らなかったのだろうか。配属先が音楽ホールだと聞いて、最初は困惑していた。想像もつかない部署で、自分がどうなるのかまったく思い描けなかったからだ。
だがしかし。流刑地と呼ばれているここは、蒼に生きる力を与えてくれる場所でもあった。
関口の演奏に浸りながら、4月から今までのことが走馬灯のように脳裏を掠めていく。
それは幸せな温かい記憶ばかり。あっという間に時間は過ぎ去るもの。だがそれはキラキラとした思い出として蒼の中に残っているのだった。
(ここに来てよかったんだ。おれがいるべき場所はきっとここ。そして、関口の隣にいたい……)
静かなる終止を迎えたその先に、彼はどんな未来を見るのだろうか——?
仄かに切ない残響を残し、弓を下ろした関口の姿を。拍手を受ける彼の姿を。蒼はただ静かに見つめていた。




