第4話 挫けそうな夢
「腑抜けか!」
桜の怒声がバー・ラプソディに響き渡る。いつもはざわめきで気がついていなかったが、客がいない中でこうして演奏していると、なかなか響きがいいように設計されていることがわかる。桜が怒るためにそうしているというわけではないのだが……。
昨日よりも怒りの針が振り切れていた。昨日は蹴りで済んでいたが、今日は回し蹴りが飛んできそうな勢いだが。しかし、関口はじっと押し黙って、ただそこに立っていた。
「あんたさあ。やる気あるのかよ。え? なにその魂入ってない演奏は。今までで一番最低だぞ。このギリギリの時期になんだよ。それ。ふざけてんのか?」
桜はイライラしたようにカウンターのところの椅子に座り、たばこを灰皿にギリギリと押しつけた。
「さすがあいつの息子だね。お涙頂戴みたいな演歌な演奏してんじゃないよ。ねちっこい男は嫌いだ」
「あいつの息子、息子って。桜さんこそ、なんなんですか? 僕とあいつを比べて見ているのって、なにかあるんですか。あいつと」
心の余裕がないと容赦ないのは関口も一緒だ。ずっと心に抱えてきた桜の中にある『なにか』について触れてしまう。そんなことをしても無意味だとわかっているはずなのに、だ。
「あいつの息子だから僕のこと面倒みているんでしょう? なにがあるって言うんですか。昔の男でもあるまいし——」
桜がなにも言わないことをいいことに、心にくすぶっていた言葉を口にしてしまうと、桜がカウンターを思い切り叩いた。
「うるさいガキだね。そんなに私が気に食わないなら出ていきな。もう愛想尽きたよ。柴田に頼まれたからここまで面倒みてやったけど。そんなに自分が可愛いのかい? 周囲の人間を傷つけてまで自分を守りたいって言うんだね。全く。そのうち、蒼にも愛想尽かされるね」
(周囲の人間を傷つける——。ああ、これじゃ、前と一緒じゃないか)
蒼と出会う前の自分と何一つかわっていない。蒼がいない。蒼が欠けただけで、自分はまるで価値のない人間に見えた。
「あ、蒼は……。いません。出て行ってしまって」
桜は次の煙草に火をつけた。
「今のあんたじゃ、そりゃ愛想も尽かされるだろうよ」
(もっともだ。今のおれは情けなさすぎる。桜さんに八つ当たりしているだけじゃないか)
関口は大きくため息を吐くと、頭を下げた。
「……桜さん。あの。すみませんでした。僕、言いすぎて」
桜は肩を竦める。
「演奏家ってーのは、どんな経験も肥やしにするんだよ。死にたくなるほど辛いことだってたくさんある。人間はさ。生きていればいいことがあるなんて嘘だよ。生きていくほど辛いことは溜まっていくもんだ。でも。生きていくんだよ。どんなにどん底に落ち込んだとしてもね。そして音楽をやるんだ。演奏家は自分の思いを音楽でしか表現することができないんだからさ。そんなしみったれた演奏するなよ。がっかりさせんな。関口蛍」
視線を伏せてじっと静かに言葉を紡ぐ彼女の心中は計り知れない。関口には彼女が歩んできた人生はわからない。興味も持っていなかったのだと、今初めて理解した。いつも反発心ばかり抱いていたからだ。
(幼稚でなにもわかっていないのは僕のほうだ)
関口は落胆していた。体調が悪い蒼に我慢をさせて、自分はなにも気遣っていない。こうして指導してくれている桜に対しても配慮のない言葉を投げかけるだなんて。
(浅はかだ)
「僕は。最低ですね」
自分をなじるように呟くのを見ていた桜は、ふんと鼻を鳴らした。
「そうだ。お前は最低だ。けど、いいじゃないか。落ちるとこまで落ちたら、後は這い上がるだけだ。今日は終いだ。コンクールの午前中に見てやるから。それまでは自分で自分のことをなんとかして来い」
「——すみませんでした」
関口は頭を下げると、楽器を片付けてバー・ラプソディを後にした。
*
自分から音楽を取ったらなにも残らない。そう、つまらない男なのだ。音楽がないと、なんの価値もない、ただの無能な男だ。
(だから、いつまでも捨てられないんだ)
今、このままだったら。22年間生きてきた意味が無に帰す。関口は、星音堂の目の前に立った。くすんだ灰色の建物を見上げる。
『このホールはね。素晴らしいホールだ。蛍——。ここで演奏してみたくないか?』
温かい大きな手に繋がれたまま、幼かった関口は星音堂を見上げていた。
『おじいちゃん、僕。ここで演奏したい』
『おじいちゃんも、お前のリサイタル見てみたいなあ』
針金みたいに痩せていて、長身の祖父。だが彼の手は大きくて温かい。彼が奏でるピアノの音が関口は好きだった。柔らかくて、全てを包んでくれるような優しい音だった。
『僕、約束するね。おじいちゃんを一番真ん中の席に招待してあげる』
『おお、おお。頼もしいな』
目尻に皺を寄せてにこっと笑う祖父。父親に似ていた。指で数えられるくらいしか会わない父親よりも祖父と過ごす時間のほうが長かった。
「結局、そんな約束も果たせなかったじゃないか」
どれもこれも、あれもこれも中途半端。
(——嫌になる)
川越という男に突きつけられた言葉に打ちのめされて腐っている自分を、祖父はじっと黙って好きなようにさせてくれていた。
だがしかし、内心はそうではなかったのではないかもしれない。きっと歯がゆく思っていたのではないだろうか。落胆していたかも知れない。期待してくれていたのに。自分は裏切ってきた。留学なんて、都合のいい話だ。
結局は日本から逃げ出した。そして、祖父からも逃げ出したのだ。
「捨てられないだって? 嘘だ。捨てるものなんてなにもない。だって僕は——。空っぽだからだ」
元々、空っぽ。なにもない。小学校の頃に聞かれた将来の夢。
『ヴァイオリニストになる』
あの頃の自分は、その先になにを見ていた? 父親の背中か。世界か。世界に飛び出してどうしたいのだ。なにを成したいのだ?
(——わからない。わからなんだ。蒼……)
『蛍くん。君の演奏は聴くに堪えない。ヴァイオリン弾き人形なら、誰でもできるんだよ。ああ、君の演奏は空っぽだ——』
雪が降っていた。今年は雪が多い。灰色の建物に降り積もる雪はふわふわとした綿毛のように見えた。
「ダメだ。こんなんじゃ——」
祖父の手も。
川越の口元も。
将来の夢を書いた自分の手も。
星音堂のホールの匂いも。
全てがぐるぐると渦巻いて思考が定まらない。眩暈と吐き気が襲ってきて、思わず口元を押さえた。
——ともかくね! 関口の音楽はすごいってこと!
ふと耳元で蒼の声が響いた。はっとして顔を上げるが、勿論、彼はそこにはいない。ただしんしんと雪が降り続いているだけ。関口の演奏を聴いて、目元をごしごしとしている蒼を思い出したのだ。
「あんなにストレートに僕の音楽がいいって言ってくれるのは、あいつだけだな……」
「あれ。関口じゃない」
ぼんやりと独り言を呟いていると、そこには水野谷が立っていた。




