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地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした  作者: 雪うさこ
▶︎▶︎▶︎08 無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番
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第2話 マトリョーシカ



「え? えっと……いや。どうなんでしょうか」


「いやいや。どうなんでしょうかってさあ。僕が聞いているんだよ」


「あ、そうですよね。すみません」


 蒼は喉元に手を当てて呼吸に意識を向けた。今朝、大きなな発作が来た。吸入薬で誤魔化し誤魔化しいても、限界なのかも知れないと思っていたところだった。水野谷は「早退しなさいよ」と言った。


「で、でも」


 二人の押し問答を見ていた隣の席の星野も割って入る。


「そうだぞ。お前。朝から、喉がヒューヒュー言ってるじゃねえか。自分で気がつかねえの?」


「——すみません」


「遅番はおれやっておくよ」


 吉田も心配そうに蒼を見ている。なんだかみんなに心配されるのはくすぐったくて、居心地が悪い。


「あの、大丈夫——っ」


 大きな声を上げようとすると、喉になにかが突っかかったみたいになって咳が出た。


「ほらみろ。言わんこっちゃない」


 星野は呆れた顔をしてから、蒼の作成中の書類を保存した。


「ほれ。こういう時は人の好意に甘えるもんだ。そうですよね。課長」


「そうそう。むしろ、ちゃんと病院行って、しっかり治してもらわないと。長引かれると困るからね」


「社会人としての責任だよ」


 最後に言われた尾形の言葉は心に染みる。蒼は「わかりました」と言ってから、荷物をまとめてみんなに頭を下げた。


「すみません。じゃあ、早退させてください」


「一人で帰れるか?」


「大丈夫です」


 心配してくれる星野に答えてから、蒼は荷物を抱えながら星音堂を後にした。


 外に出ると、昨日降った雪が解けて、黒いアスファルトが見えていたが、歩道はぐちゃぐちゃだった。到底、自転車で歩けるような状態ではない。コートを羽織ってから、リュックを背負う。暖かい屋内から屋外へと出ると、その気温の差で喉が痛んだ。


(もう少しでコンクールだもん。それまでにもう少しマシにしておかないと……)


 そんなことを考えて歩き出す。目的地は熊谷医院だった。



 熊谷医院は市役所本庁舎の近くにあった。昔ながらの木造の建物は昭和レトロを彷彿とさせられる佇まいだ。少し剥がれ落ちた白い壁面と、くすんだ茜色の屋根は、背の高いビルの合間にぽつんとあった。まるでそこだけ時間が止まってしまったかのようだ。曇りガラスがはめられている木製の扉を開くと、受付から中年の女性が顔を出した。


「あら、蒼くん」


「こんにちは」


「やだやだ。ちょっと——。呼吸、ひどいんじゃない? 早くどうぞ」


 彼女は蒼が小さい頃から受付業務を担ってくれている梅宮という女性だ。小柄の割に蒼よりも厚みのあるマトリョーシカみたいな女性だった。


 午後の診察は3時から。その前に到着したのが幸いした。待合室にはまだ誰もいない。梅宮は「先生~」と奥に入っていく。


「蒼!」


 すると、すぐに栄一郎が顔を出した。


「酷そうだね。今朝かい? 梅さん、悪いけどレントゲン。後、藤田さんを呼んできてくれる?」


 コロンコロンとした梅宮は受け付けの奥に消える。それを見送っていると、栄一郎に「おいで」と招かれて診察室に足を踏み入れた。


 栄一郎の顔を見た途端、息が苦しく感じられた。どうやら、安心してしまったのだろう。職場では相当気を張っていたに違いない。


 咳が止まらなくなって、思わず腰を下ろしていた、診察用のベットにしがみつく。


「蒼!」


 こうなってしまうと、呼吸がうまくいかない。いつもは無意識に呼吸しているというのに。


(あれ? 息を吸うってどうするんだっけ?)


 栄一郎の手が、蒼の背中をさすった。懐かしい感触だった。子供の頃。ベッドの中で発作を起こしていると、いつも栄一郎が気がついてかけてきてくれた。そして、こうして背中をさすってくれる。


 良くなるわけではない。けれど、この温もりに、いつも心が落ち着いた。


「発作が起きるとパニックが起きる。呼吸とはね、人が生きていく上で必要不可欠な機能だからね。それが上手くいかないということは死に直結する緊急事態だからね」


 彼は蒼の薬が効くまで、いつもこうしてくれていた。それを思い出したのだ。


「先生! 蒼くんはどこですか?」


 すると、診察室に大きな声が響いた。先ほどのマトリョーシカ梅宮より一回り大きい白衣の天使、藤田が姿を現したのだ。多分、梅宮のマトリョーシカが収まる大型マトリョーシカがこの藤田だ。くるくるのショートパーマに赤縁の眼鏡。梅宮と同世代の彼女はドスドスと地面を揺らしながら診察室に入ってきたのだ。


「藤田さん。こっち。レントゲン、早く行ける?」


「まま!」


 彼女はいきなり、蒼の後ろの首を捕まえると、それからワイシャツの襟ぐりから背中に沿って右手を突っ込んできた。


「ひい」


「藤田さん」


 栄一郎も声を上げるが、彼女はお構いなしだ。蒼の襟ぐりから手を引っこ抜くと、呆れた顔をした。


「熱! 熱ありますよ。肺炎になっているかも。レントゲン、行きましょう」


 梅宮もやってきて診察室は大騒ぎだ。


(ああ、関口。ごめんね。こんなことになっちゃって。ダメ、絶対に心配かけないようにしないと。メール。メール打たなくちゃ……)


 梅宮と藤田は、ストレッチャーに寝るように指示するが、仰向けになると苦しくて仕方がなかった。朦朧とする意識の中、蒼はずっと関口のことばかり考えていた。


(関口……。ごめんね……)




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