第2話 喘息と酔っ払い
寒くなってきた。巷は師走に入り、なんとなくよそよそしい雰囲気が漂い始めている。蒼が星音堂に配属されて半年以上がたった。
先月は市民オーケストラの定期演奏会があり、そして、つい先日。コンクール一次予選の結果が発表された。関口は当然の如く一次を通過し、本選対策に取り組むことになっていた。今日は柴田に紹介してもらった講師に会うと言っていた。どうなったのだろうか、と仕事中も気になっていた。
(あの柴田先生の紹介だもの。きっといい人だよね)
そんなことを考えながら遅番業務を終えて帰宅する。しかし、自宅は真っ暗だった。彼と住むようになって数か月がたち、この家に帰ってくるのも日常になりつつあった。時計の針は夜の10時前だ。それなのにまだ帰っていないなんて。蒼はなんだか心配になった。スマホを見ても、彼からの連絡はない。
「大丈夫かな。夕飯、どうするんだろう?」
古い日本家屋は冬場の冷え込みが酷い。木製の廊下はひんやりとしていた。居間の石油ストーブに火を入れてから、浴室に行ってお風呂の準備をする。湯気の刺激に咳が出た。この時期、喉の調子は最悪だ。乾燥だけでなく、寒暖の差や、気温の低下で体力が奪われていくのも大きい。
「薬、薬……」
止まらない咳に、慌ててリュックの中から吸入薬を取り出す。昔と違い、喘息の薬も進化している。少量の吸入でてきめんに咳が止まってくれるのは嬉しいことなのだが、その反動である副作用も強い。指先が震えるのだ。
「本当はあんまり使いたくないんだけどな……」
部屋を暖めながら、台所に行く。温かい部屋よりも寒い部屋にいたほうが喉の調子がいいのだが、まさか暖房器具を使用しないわけにはいかない。凍傷でも起こしそうな寒さだった。
夕飯をどうしようかと悩むが、時計の針は10時を指す。関口がこの時間まで帰宅しないということは、なにか食べてくるのかも知れない。自分一人の夕飯なら本格的に作るのは得策ではない。冷凍庫に入れてあるなべ焼きうどんセットを取り出して、アルミの入れ物ごとガスにしかける。青い炎を眺めながら蒼はぼんやりとしていた。
「関口、遅いな。大丈夫かな……」
*
結局、鍋焼きうどんも半分くらいでごみ箱行き。長く風呂に入ると体力を持っていかれるので、そうそうに済ませた。時計の針は深夜の0時前。まだ関口は帰ってこない。
待っていても仕方がないとは言え、なんだか心配になってきた。お互いがお互いのいいように生活しているだけのルームシェアの間柄だ。彼が午前様になろうと、どこに外泊しようと関係ないのだ。けれど、なんの連絡もないとなると、心配になったのだ。それに。もし彼に恋人でもできたというのならば、自分はここに居座るわけにはいかない。
(いやいや。違うだろう? おれが養ってるんだから。なんでおれが出て行かなくちゃいけない訳? ってか。なにこの不安定な住まい方は……)
なぜ安易にアパートを解約してこの家に越してきたのだろうか、と後悔の念に駆られた。思いつきで行動することは多々ある。けれども、今回ばかりは自分の行動が理解できなかった。
「もう知らないんだから」
蒼はそう呟いてから、居間のストーブの火を落として自室に入った。ガタガタと風で鳴っている窓ガラス。雨戸をしたほうが温かいのだろう。そんなことを考えて目を閉じるが、到底寝られるはずもない。やはり気になるのだ。
(どこに行ったんだろう。大丈夫なのかな……)
そんなことを考えながらどれだけの時間を過ごしたのだろうか。不意に玄関が開く音がした。
「ただいま~……」
珍しい。こんな遅い時間なのに、彼が大きな声を出すなんて。蒼は驚いて体を起こす。時計の針は2時。布団の上に置いてあった半纏を羽織り、玄関に出て行くと、彼は玄関先の上がり框のところに座り込んでいた。相当酔っているようだった。
「関口! 大丈夫?」
慌てて駆け寄ると、彼の体からは煙草の匂いが漂っていた。
「どこ行ってたの? 煙草とお酒臭いよ」
「ごめん、ごめん。連絡しようと思ったんだけど、ちっともそんな時間なくて」
煙草と酒の匂いの合間に漂う女性の香りに、蒼はなんだか胸がきゅんと締めつけられた。
(女性と会っていたの?)
蒼の不安を他所に、関口は「もうさ。ひどいのなんのって」と声を上げた。
「今日は、柴田先生から紹介された先生に会いにいったんじゃないの?」
「会いにいったよ。そしたら、これだ。あの女。先生なんてもんじゃないよ。本当に。ただの飲み屋のママ! ピアノ弾きが辞めたからそのあとのバイト探していたんだって! もう。本当。柴田先生に文句言わなくちゃ……」
千鳥足の関口に肩を貸して、なんとか寝室まで連れて行く。彼は敷きっぱなしの布団に大の字に横になると目を閉じた。
「ちょっと。風邪引くから」
「とんだ食わせ者だ! なんだよ~。本当に」
「ほらほら。わかったから!」
ぎゅうぎゅうと布団に押し込めて、毛布やらなにやらをかぶせる。
「酔っ払いなんだから……」
布団にくるまると、すぐに寝息を立て始める彼を見て、蒼は苦笑した。
(そっか。先生か。女の人。先生だったんだ……)
どこかほっとしている自分に気がついて、蒼は首を横に振った。
(なに。なんだよ。なんで安心してるんだよ。やだな……)
「別にいいじゃない。関口に恋人ができたって」
関口の寝室の襖を閉じる瞬間。蒼は布団で寝入っている彼を見下ろした。彼は「蒼~。お腹すいたか?」と寝言で言っていた。
「もう。おれの心配より、自分の心配してよ」
蒼は思わず口元が緩んだ。それから「お疲れ様。関口」と呟くと、そっと自室に戻っていった。




