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第1話 師匠



 ヴァイオリンケースを背負い、くしゃくしゃになったメモを眺める。


(本当にここ、なのか?)


 メモに書かれている住所は確かにここ。大きなマンションの向かい側にあるその店は、まだ開店していないようで、紫色の看板は消灯したままだ。隣にも居酒屋が数件並んでいる。夜になると賑わうのだろうが、日中は閑散としているものだった。


『くれぐれも夕方前には行くように』と柴田が言っていたのは、こういうことか。店が始まると忙しくなるということだろうか。ヴァイオリンを習いにきたのに。飲み屋に行きつくとはおもっていなかった関口は困惑していた。何度もメモとスマホを確認し、やはりここだ、と諦めてから、古びた木製のドアを押した。


「あの——」


「まだやってないよ」


 中にいた女性は長い黒髪をポニーテールに結い、モップで床の掃除をしているようだった。


(煙草臭い)


 関口は顔を顰める。カウンターに置かれている灰皿からは煙が漂っていた。


「柴田先生から、こちらに来れば、ヴァイオリンを教えてもらえるって聞いたので伺ったのです」


「ああ。聞いているよ。あんた——」


「関口蛍です」


 関口は女性に頭を下げたが、彼女は大して興味もなさそうに大きな目を細めると、それから掃除の作業に戻る。


(無視? なんだよ。この人……)


 年の頃は柴田よりも若く見えた。エキゾチックな顔立ちをしている。彫が深く、目鼻立ちはぱっちりとしている。関口は「あの」ともう一度声を上げる。すると彼女は「うるさいね!」と言って関口を睨んだ。


「桜だよ。——あんた。圭一郎の息子なんだってね」


 突然、父親の話題に取り繕うこともできなかった。関口は、不愉快だ、とばかり桜を睨んだ。彼女は突然、大声で笑い出す。


「あははは! やだねえ。父親の大きさに萎えてんのかい? 小さい男だね」


 彼女の言葉は図星だ。言い返したくとも言葉が出てこない。


「まあ、いいけど。どれ。一曲弾いてみせな」


「え?」


「楽器持ってんだろう? なにしに来たんだよ。グズ」


 妖艶な美女だというのに、口は悪いようだ。本当に彼女が自分にヴァイオリンを教えてくれるというのだろうか。関口は不本意な気持ちのまま、近くのテーブルにケースを置くと、楽器を取り出した。それから、そばにあったピアノの元に歩み寄った。しかし、そこで足を止めた。そこにあったピアノはスタンウェイだったのだ。


(こんな店にスタンウェイ? 嘘だろう?)


 驚きを隠し切れない様子で準備を整えてから、とりあえず録音審査に応募したシンディングの独奏ヴァイオリンのための組曲「シャコンヌ」を奏でる。嵐の夜。蒼に初めて聞かせた時の曲だ。


 その間、彼女はモップを側に立てかけてから、グラスにビールを注いで飲み始める。正直、こんな場所で演奏なんてしたこともない。変な緊張感の中、途中で止められることもなく最後まで弾き切った。


「どうでしょうか」


 余韻を残し、弦を下ろしてから桜を見つめる。彼女は軽くため息を吐いた。


「やだねえ。まだまだじゃない。なんで柴田も《《こんなん》》寄こしたんだよ」


「え?」


「まあ、いいや。とりあえず。あんた、今日からここで弾きな」


「は!?」


「ちゃんと日当支払ってやるから。どうせ、コンクールに専念するなんてかっこいいこと言っちゃって無職なんだろう?」


(なぜわかる!?)


「桜だよ。呼び捨てでいいよ」


「って、桜さん! 僕はレッスンをつけてもらいに来たんですよ」


「はあ? そんなの知らないねえ。ちょうどピアノ弾きが辞めたばっかりでね。よかったよ。まあ、クズみたいな演奏でもないよりはましだろう? 文句があるなら柴田に言いな。あたしは知らないよ」


 桜はそう言い放つと、口元を上げて不敵な笑みを浮かべた。


 (嘘だろう!? 詐欺だ!)


 軽く眩暈がした。しかし、桜はまったく相手にするつもりはないようだ。関口にモップを押しつける。


「開店までに掃除しておきな」


「……」


「返事は」


「……はい」


 柴田から聞いている話と全く違う。関口は混乱していた。







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