第5話 ピアノで家が買えます
「蒼~、手伝えよ」
星野の声にはっとして蒼は顔を上げた。5月になった。蒼が星音堂にやってきて一カ月が経ったのだ。星音堂の業務は事務作業がよりも、からだを動かす業務のほうが多かった。事務所の入り口に立っている星野に呼ばれた蒼は、彼と共に廊下に出る。
「ピアノの出し方、教えるから」
「ピアノ、ですか?」
中庭を臨む廊下を歩きながら、星野の後ろをついていく。彼は湾曲している通路を通り、大ホールの舞台袖に続く扉を押し開けた。
「明日は『ピアノの日』だからな」
星野は壁面に並んでいるボタンをいくつか押す。すると、舞台袖の蛍光灯が灯った。それからステージ脇に歩みを進めると、そこにあるボタンをいくつか押した。すると、ステージの橙色の照明が明るく灯った。
星野は蒼の元に戻って来ると、ポケットから鍵を取り出す。その鍵には「ピアノ庫」と手書きの字で書かれていた。彼はステージ袖のところにある幅広の金属製の扉を開けながら、蒼に白い手袋を手渡した。
星野にはいつものことなのかもしれないが、蒼からしたら全てが初めてで、なにが起きるのかわからない。目を瞬かせながら彼の様子を見守る。彼は重そうな扉を引っ張って開いた。——と。中にはグランドピアノが二台見えた。
(こんなところにピアノがあったんだ)
「大ホールにはグランドピアノが2台。どっちもフルコン……フルコンサート用っつって、でかいんだ。機種はスタンウェイとヤマハな。星音堂には、グランドピアノが他にもある。第一練習室にカワイが1台。第四と第五練習室にヤマハ一台ずつ。小ホールはこれより小さいタイプのカワイが1台だ」
「え、えっと……」
星野には馴染みなのことかも知れないが、名前を言われてもなにがなんだかわからない。指を折って数える。大ホール2台。小ホールが1台、練習室が3台。ということは合わせて6台。
「6台ですね。ピアノ」
「いやいや。違う。アップライトのピアノもあるからさ。全部で8台。ちなみに第二練習室はオルガンがあって……」
「ほ、星野さん」
「なんだよ?」
「後でちゃんと教えてくださいよ」
目を白黒させている蒼を見て、星野はめんどくさそうに顔をしかめた。
「お前さ。自分でも勉強しておけよ」
「そんなこと言われても。どこから勉強したらいいのか、わかりません」
「素直に言われると拍子抜けすんな」
星野は笑った。それからピアノの運搬方法の説明を始めた。
「今回はスタンウェイを出すぞ。ピアノを移動するときはこの運搬車を使う」
星野が指さしたのは、車輪が三つ付いているヘリコプターみたいな形をした台だった。高さは蒼の膝上くらいだ。パイプ製の丸いハンドルみたいなものが見えた。
「この丸いところを回すと台が上下するから。低くしてからこれをピアノの下に入れる。それからぐるぐる回してフィットさせてから動かすんだ」
「はあ」
「はあ? じゃねーし」
蒼の反応が薄いので星野は呆れた顔をした。
「ピアノで床が傷つくのを防ぐんだ。よしっと」
星野が作業をしているのを一緒に屈んで見る。それから運搬車のセットが終わったようで、星野が立ち上がったので慌てて自分も立ち上がった。
「じゃあ運ぶぞ。ゆっくりだぞ。慌てるな。絶対にぶつけるなよ」
「ぶつけたらどうなるんですか?」
「お前……」
星野はまた呆れた顔をした。
「このピアノはスタンウェイ・アンド・サンズっていう会社のピアノでな、アメリカ製の最高級品だ。特にここにあるのはスタンウェイの中でも最上級モデルだ。すげー高いんだよ」
「すげえ高いって……いくらくらいなんですか?」
蒼の質問に星野は軽く答える。
「二千万以上するぞ」
「へ?」
「だから、二千万円」
「ええー!?」
驚きすぎて蒼はピアノから手を離してしまった。
「おいおい。急に離すなよ」
「だ、だ、だって! 家が買えちゃうじゃないですか!」
「はは。お前ってさ。素人すぎて笑えんな」
「笑わないでくださいよ!」
もしかしてからかわれているのではないかと疑いたくなるが、星野の言っていることは本当らしい。星野の指示通り、ピアノをステージの上に配置すると、先ほどと同じように運搬車を外してから、それをステージ袖に片付けた。
「いいか。ピアノの運搬は必ず一人でやるな。おれに言えよ。危ねーからな」
蒼は頷いてから、それから星野に尋ねたかったことを口にした。
「星野さん。明日の『ピアノの日』ってなんなんですか」
星音堂のステージは間口全体が階段になっている。一般的なホールの造りだと、一列目の客から見て立ち上がり部分が圧迫感を与えるものだが、階段で緩やかな距離感は、観ている者とステージと繋がりを作りやすい。
星野は適当に階段を横切ってから、客席側に降りてからステージを確認しているようだった。
「よし。明日の準備はオッケーだ。『ピアノの日』ってーのは、おれたちが考えた苦肉の策ってやつだ。平日、大ホール遊ばせてもおけねーだろ。月に1回、このスタンウェイを二千円で50分貸し切り出来るって企画なんだぜ」
「貸切ですか?」
「そうだ。大ホールもスタンウェイも貸し切りだぜ? 堪んねーだろ?」
「はあ」
「だからよ。その『はあ』って気の抜けた相槌はやめろ」
「すみません」
星野は生き生きと説明してくれるが、正直、蒼からしたら魅力があるのかどうかわからない。
ピアノを弾く人にとったら、それはそんなに魅力的な企画なのだろうか?
スタンウェイが弾けるなんて、ピアノをやっている者にとったら、至福のひとときですが、それを管理している側は、大変なんだろうなと思います。音楽の世界を知らない蒼にとったら、毎日が新鮮ですね!