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地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした  作者: 雪うさこ
▶︎▶︎▶︎06 ヴァイオリン協奏曲 e moll Op.64
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第7話 開演



「関口、大丈夫か?」


 ソリストとして小さい控室を与えられた関口は、一人で鏡の前に座っていた。そこに顔を出したのは自分の恩師でもある柴田だ。彼は昨年、高校教師を退職したばかり。白髪交じりの短髪。燕尾服姿の彼は温厚な紳士に見えた。


「緊張しているかと思って」

 

 彼は恰幅のよいお腹をさすりながら、いつもの人の良さそうな笑みを見せる。それを見ながら、関口は表情を硬くしたまま答えた。


「どんなステージでも緊張はしますよ」


 ソファに座った柴田は笑った。


「子供の頃から、誰よりもステージに立つ機会を持っているお前でも、緊張するんだな」


「ステージには魔物が棲んでいますからね」


 楕円形の眼鏡をずり上げて、関口は大きく息を吐いた。


(そうだ。ステージでは、なにが起こるかわからない。良くも悪くも、だ)


 当日のコンディション。ステージの状態。客。同じホールで同じ曲を演奏しても、出来栄えはいつも違う。今日は一体、どんなステージになるのだろうか、と考えると、ワクワクする反面、恐ろしさもあった。


「お前のその慎重さは、やはり父上譲りだね」


「あの人の話は、なしにしてください」


「来ているんだって?」


「出禁にしてもらっていますから。大丈夫です」


 しらっとそう答えると、柴田は「あはは」と大きく笑った。


「いやいや。もう子供の駄々っ子レベルだな。——まあいい。今日はできることをやろうじゃないか。おれはね。ステージが好きだ。楽しい。例え魔物に襲われようとも。それでも好きだ」


 関口は柴田を尊敬しているのは、その人間性だ。彼はいつでも明るく前向きだ。穴蔵に籠っている関口に、その手を差し伸べてくれる。いくら腐っていても、見捨てられることはない。そういう安心感がある。


(そうだ。星野さんたちみたいに。ここにいる人たちは、僕を見捨てたりしない)


 柴田は「コンクール出るんだろう?」と言った。


「ええ。すみません。先生には、これからご相談しようと思っていました」


「いいよ。しばらくは市民オケも休みにして専念しないと」


 柴田は少し灰色かかった瞳を細めて関口をじっと見据えていた。


「今まで教えられることは教えてきたつもりだ。だけどね。お前が本気で一歩を踏み出そうとしているのを見ていると、今回ばかりは、おれでは力不足だと思うんだよ」


「いいえ。今までも色々とお世話になってきました。ですから僕は、今回も先生にみていただこうかと思っていたのです」


「いや。今回はおれじゃないほうがいい」


 それは、冷たい突き放すような言い方ではなかった。優しい、そして関口の背中を押してくれるような柔らかい口調だった。


「もっとすごい先生、紹介する」


「新しい、先生。ですか?」


「そうだ。とびきりの、ね。だから、今日は恩師として、お前に教えられる最後のレッスンになる。いいか、心してかかれ」


 腹の底から響いてくるようなしっかりとした声色。関口は姿勢を正してから柴田に頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「よっし! 頑張ろうね」


 彼はにこっと笑みを浮かべてから立ち上がった。



 クラシックの演奏会に来るのは初めてな蒼は、星野から鑑賞のルールを教わった。


「感動しても、曲の合間に拍手をしちゃダメなんですね」


「そういうことだ。」


 先ほど開演5分前を知らせる予鈴が鳴った。観客が着座する中、ホールの客席側の照明が落とされる。それを合図に、吉田が圭一郎と有田を連れて姿を現した。二人は星野と蒼の隣に座った。


「いいですね? 声は出さない」


 何度も言いくるめられているのだろうか。有田の小さい、嗜めるような声に、圭一郎は「うんうん」と頷いてから、蒼を見てにこっと笑った。その瞬間、オーケストラのメンバーたちがステージ上に姿を現す。


(関口は?)


 蒼はドキドキする胸を押さえながら、明るくなったステージを見守った。


「——いた!」


 関口は、瑠璃紺色のネクタイに黒いスーツ姿だった。他の男性たちもスーツ姿。女性たちは上が白、下が黒のスカートやパンツスタイル。衣装は、色こそ統一されているもの形が違っていた。蒼に絡まってくる橘や秋元も、いつもとは違い、シックな雰囲気だった。蒼は目を瞬かせてステージ上の関口を見守った。


 オーボエの鳴らす音に合わせて、関口は立ち上がって、音を鳴らし始める。星野が「音合わせしてんだ」とこっそり教えてくれた。関口が「うん」と頷くと、他の団員たちも音を出し始める。リーダー的な関口の仕草は、より一際、目を引いた。


「かっこいいんですね。コンマスって」


 蒼の感嘆の声に星野は笑った。


「お前の旦那様は、凛々しくていい男じゃねーか」


「へ!? 星野さんまで。勘違いしないでくださいよ」


 ニヤニヤとしている星野は、唇を突き出してから椅子に体を沈めた。音が止み、関口が腰を下ろすと、一瞬の静寂の後、指揮者である柴田が颯爽とステージ上に姿を現した。観客からは拍手が巻き起こる。柴田は笑みを浮かべ、それに返した。


 第一部はジャン・シベリウスの交響曲第2番 dmoll作品43。第一楽章から第四楽章までの構成で、全体的に45五分程度の楽曲だと星野が教えてくれた。第三楽章と第四楽章は繋がっていると説明を受けたが、どちらにせよ蒼にとったら初めての曲なので、なにがなんだかわからないことには違いない。星野が拍手をしたら、自分もそうしよう。そう思った。


 柴田はにこやかに笑顔を見せ、会場を見渡してから軽く頭を下げた後、指揮台に上り、そして関口を見た。それを受けて関口は軽く頷いた。


(コンサートマスターと指揮者は信頼関係で結ばれているみたい)


 両手を上げて構えた柴田に合わせてステージ上の演奏者たちも楽器を構えた。 会場全体が緊張するのがわかる。


 演奏会の始まりだ。




関口くんの第一歩。それを見守る蒼です。

さて、どうなる!?

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