第6話 ドキドキお忍びツアー
土曜日。市民オーケストラのメンバーたちは、お昼過ぎから、最後のゲネプロ(通し稽古)を行っていた。蒼も、定時で終われるようにと、必死に業務をこなしていた。日勤は星野と蒼。遅番が尾形と吉田だ。氏家と高田と水野谷は休みだが、遅番以外の職員たちは、みんなが演奏を聴きにくるという話しだった。
お昼に出勤してきた吉田は「おれも見たかったな~」と口を尖らせた。
「いいじゃねーか。こそっと聞きにくれば」と星野は笑う。
「メンコン。いい曲ですよね。生演奏、なかなか聴くことできませんもんね」
「メンコン?」
蒼がきょとんとして口を挟む。
「吉田~。蒼は鈍いからわからないよ」
星野は苦笑して説明をしてくれた。
「メンデルスゾーンのコンチェルトは、略して『メンコン』って言うんだよ」
「ああ。なるほど」
蒼は納得するが、星野は足を組んでだらんとした格好で笑う。
「そんな変な略し方するのは日本人だけだろう? 日本人てさ。頭悪いよな」
「星野さんだって日本人じゃないですか」
「おれは略さないぜ。作曲家に失礼だろうがよう」
星野の隣では吉田が「チャイコフスキーの協奏曲は『チャイコン』。ベートーベンの交響曲七番は『ベトシチ』とかさ。ブラームスの交響曲一番は『ブライチ』」と言った。
「ブライチってよお、女性下着を連想するよな」
蒼は音楽の知識をまとめているノートにそれを書き込んだ。
「真面目かよ。ねえ。真面目なの? お前」
「笑うところですか? 星野さん」
「もういいよ。本当に、いいですよ」
星野はいじけたように呟くが、蒼はそれどころではない。もうすぐ始まるのだ。関口の演奏会が。遠足前の子供みたいに、心が弾んだ。
すると、関口圭一郎が姿を現した。昨晩。爆弾を落としていったというのに、満面の笑みを浮かべている。
「やあ。みなさん。どうも、どうも」
能天気な声に蒼は内心ドキドキした。絶対に二人を鉢合わせにさせてはいけないのだ。圭一郎という存在は、本番前の彼には禁忌である。
「せっかくマエストロがいるのに。今日は、指揮されたらいいじゃないですか」
吉田のコメントに星野は「これ」とたしなめた。
「えっと……君はなんだっけ?」
「吉田です」
「おお! そうだ! 吉田くん。今日は柴田先生が大事に温めてきた舞台だ。私は一観客に過ぎない。本当に楽しみにしているのだよ。なあ、有田」
そこで事務所入り口に佇む有田の存在に気がつく。有田はマネージャーだと聞く。それなのに、こんなオフの日にまでつき従わなければならないとは、大変な仕事だ、と蒼は思った。彼は星野たちは「お世話になります」と深々と頭を下げた。それから圭一郎をきっと睨む。
「いいですか? 客席に着いたら、一言も声を洩らさない。これが今回の『ドキドキお忍び 蛍くん見守りツアー』のお約束ですからね。もしも万が一、約束を破るようなことがありましたら、ツアーは即刻終了。強制送還となります」
にこりともしない真面目な顔で「ドキドキお忍び 蛍くん見守りツアー」と言われてもピンとこない。蒼はぷっと吹き出した。圭一郎は「わかっているよ。有田」と軽く答えると、すぐに蒼を見た。
「蒼、昨日はどうもありがとう。大変有意義な時間を過ごした。日本に帰ってきた甲斐があるというものだ。今回の目的は蛍の演奏を聞くことだが、君に出会えて、本当に光栄だ」
「あ、ありがとうございます」
圭一郎という人間はストレートに感情を表出する。蒼はなんだか気恥ずかしくなって、俯いた。星野と有田は今日の段取りを確認しているようだった。開演までは第二練習室で待機。演奏直前にホール入りをするという手筈だ。その動きのサポートを遅番の吉田が行う。水野谷からの指示が出たのだ。それだけ、彼は、星音堂にとって大切なお客様だということだ。
「尾形じゃ、太ってて目立つからな」
「ひどいですよ~。星野さん。おれほどの機敏なデブはそういないですよ」
尾形はおせんべいを頬張りながら抗議の声を上げるが説得力はない。
「お前は事務所留守番な」
「は~い」
素直に返答する尾形を眺めていると、星野に促された。
「じゃ、吉田。後は頼んだ。蒼、上がろう。時間だ」
「わかりました」
蒼は胸が高鳴った。梅沢市民オーケストラの定期演奏会が、始まる——。
とうとう始まりまーす!




