第4話 麻婆豆腐
気分が悪かった。
(あの男と会うと、本当に気分が悪い)
明日は定期演奏会の本番なのに、このタイミングで姿を現すとは。嫌がらせに違いない、と思った。
親というものは、時に残酷だ。子の気持ちなんて関係ない。自分のエゴばかり押しつけてくる。
(どうして、そっとしておいてくれないんだよ)
いくら恨み事を並べてみても、もう遅い。あの男の姿を目にしただけで、もう心が荒波のようにうねっていた。
ここのところ、関口の気持ちは安定していた。蒼という人間がいてくれるからだ。彼と出会い、自分の人生は変わったかのように見えた。それなのに。圭一郎との、あの邂逅一つで、関口は現実に引き戻された気分だった。彼はそれだけ関口の根底を揺さぶってくるくらいの影響力を持った人間なのだ——。
「くそ」
寝るとは言ったものの、空腹と、苛立ちで、到底、眠れないだろう。関口は布団を跳ね退けると、両手で頭をもしゃもしゃとかき乱した。
(イライラする)
関口は思い立って襖を開けた。すると、居間には蒼が正座をしていた。自分に配慮してくれたのだろう。彼は静かに夕飯を摂っているところだったようだ。 関口の登場に、彼は「ご、ごめん。今、片付けて、部屋に引っ込むね」と言った。
テレビもつけずに静まり返った部屋で夕飯を、たった一人で食べさせるなんて——。関口はそんなことをさせている自分に、更にイラついた。
(馬鹿か。本当に。僕はなにをしている。蒼にこんなこと、させたいわけじゃないのに!)
「蒼!」
「はい!」
大きな声に蒼は肩を竦めた。
「僕も食べるよ。夕飯」
「あ、ごめん。おればっかり」
「いい」
彼の座っていた隣に腰を下ろすと、入れ違いに蒼は席を立ち、そして台所に走っていった。ガチャガチャと台所で食器を動かしている音を耳にすると、少し気持ちが落ち着いてきた。しばらくそうしていると、音が止み、お盆に夕飯の支度をしてきた蒼がそこに立っていた。
「なに?」
「いや。怒っているのかと思ったのに。ニヤニヤしてる」
「失礼だね。蒼は。頭おかしくなったって思ったんじゃないの?」
「だって。本当のことだし……」
蒼は不思議なそうな表情を浮かべながら、関口の前に茶碗と味噌汁のお椀、それから春雨入りの麻婆豆腐を置いた。
「関口の麻婆豆腐美味しいよね。春雨入ってるの好きだな」
彼は、にこっと笑みを浮かべてから自分も食事に戻る。関口の心は、静かに、少しずつ平静を取り戻していった。こんなことは初めてだった。圭一郎と会うと、大概、数日は心が乱される。なのに。今日はどうしたことか。もうすっかり心が落ち着いていたのだ。
(蒼の笑顔には救われるのか——)
関口は口元を緩めて「当たり前じゃん。僕が作ったんだから」と答えた。すると蒼は呆れたように笑う。
「素直に『ありがとう』って言えばいいのに。本当に可愛くないんだから。——関口は料理はどこで習ったの。お母さん?」
「母親は家にいた試しがないからな。いつも面倒みてくれたトミさん」
「トミさん?」
蒼は首を傾げた。
「蒼の家も家政婦さん来てたって言ってたじゃん」
「そうだけど。家はいつも違う人が出入りしてたから。特定の人ってわけじゃなかったな」
「そうなの?」
「食事の時だけ来てくれるんだよ」
「ふうん。家は住み込みの人頼んでいたから。おむつ交換から、身の回りのことが出来るようになるまではトミさんが全部やってくれた」
「おばあちゃんみたい」
「そうそう。もうおばあちゃんだよ。まだ家にいてくれる」
「なら帰ってあげないと。心配しているんじゃないの」
蒼は箸を止めて関口を非難するような表情を浮かべた。
(すぐこれ。蒼は人のことになると一生懸命)
「週末に帰った時は寄っているし。明日の演奏会終わったら一度、東京行ってくるから大丈夫だ」
「ならいいけど」
関口の返答に蒼はほっと息を吐いた。そして食事を再開する。
食事の時間、二人の間にはどうでもいい会話が飛び交う。しかし今日は、圭一郎のことが気になって言葉が出てこなかった。関口は軽くため息を吐くと、箸を置いた。
「あいつは、僕の父親。そして僕がこの世の中で一番嫌いな男だ」
蒼は驚いたように、関口を見ていた。




