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地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした  作者: 雪うさこ
▶︎▶︎▶︎06 ヴァイオリン協奏曲 e moll Op.64
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第2話 変人、現る



 演奏会は明日。蒼は幸いなことに日勤だった。定時で終われば余裕で演奏会を聴くことができる。蒼は生まれて初めて、クラシック演奏会のチケットを購入した。料金は千円だった。


 関口との同居生活は、特に問題はなかった。関口は一日中、防音室に籠っていることが多い。顔を合わせるのは、食事の時くらいなものだった。だが、それでもよかった。たった一人ではないという環境は、どこか安心感を覚えるものだ。たまにしか顔を合わせなくとも、彼の存在を感じるだけで、心が落ち着くのだった。


 蒼が日勤の日は、関口が朝食と夕食当番。蒼が遅番の時は、蒼が朝食と昼食当番になる。洗濯は蒼。掃除は関口。買い物はお互いが。きっちり決めたわけではないのに、自然とそんな役割分担ができていた。


 今日の遅番は蒼と吉田。星野が残業をして居残りをしていた。先ほどから、大ホールで市民オーケストラのゲネプロ(通し稽古)が始まっている。市民オーケストラがあちこちの部屋を抑えているおかげで、利用客も少ない。いつもよりも静かな夜だった。


 パソコンと向かいあっていても、蒼は眠気に襲われていた。朝方の喘息発作のおかげで、よく眠れていないのだ。蒼は目をこすると、腰を上げた。


「吉田さん、おれ、ラウンド行ってきます」


「ああ、大丈夫? 蒼。ラウンドはおれが行くよ」


 ここのところの体調不良は、星野ばかりではなく他の職員たちにも気を遣わせているようだ。蒼は「大丈夫です」と明るい声色で答えてから、懐中電灯を手に事務室を出る。と——。長身の針金のような男が自動ドアを潜り抜けて姿を現した。初めて見る男だ。梅沢のような地方都市では少し浮いてしまうようなお洒落な風貌だった。


 焦げ茶色の秋物のコートが妙に長く見えるのは彼が長身だからだろう。そんなことをぼんやりと考えていると、男は蒼を見つけたのか「おお」と声を上げた。それから一気に蒼の目の前までやってくる。


「君——」


 ぽかんとしていると、男は蒼の目の前に立ち、そしてこう言った。


「《《アオはどこにいるのかね》》?」


「あ、あの……」


「どうした? アオだ。アオはどこにいる?」


「あ、ああ、あの……」


(アオっておれのこと? え、おれ。こんな人知らないんだけど……)


 唇が震えて声にならない。男の放つ迫力、雰囲気、声の大きさ。すべてに気圧されてしまったらしい。膝がガクガクとして、どうしたらいいのかわからなかった。


「おや? おかしいな。しばらく日本に帰ってこなかったせいで、日本語がおかしいのだろうか? 君。僕の言葉がわかるかな?」


 返答に窮していると、騒ぎを聞きつけた星野と吉田が顔を出した。 星野は「マエストロ!」と叫んだ。男は今度は星野を見る。


「おお、星野くんではないか。久しいな!」


 男はそう叫ぶと、今度は星野ところに行き、腕を取ってブンブンと強引に振った。


「いつ日本へ?」


「ついさっきだ」


「正確に言うと、今朝ですが——」


 自動ドアが開き、男と同じくらい長身のスーツ姿の男性が眼鏡をずり上げてため息を吐いた。威圧的な男の言葉に、針金男はしゅん、としっぽを丸めた犬みたいに元気をなくした。


「有田さんまで。お仕事ですか」


 星野はそう声をかけた。後から入ってきた男は有田というらしい。そして、この針金男。銀縁の楕円形の眼鏡。どこかで——。


(あれ? この人)


「僕はアオに会いたかっただけだ。星野くん! アオという子はどこにいるのだ?」


「アオ? ああ、アオなら目の前に」


 星野の言葉に目を見張ったのは男だけではない。蒼もだ。


「君がアオ? え? ええ?」


 彼は驚愕の表情を浮かべてから、蒼の体を上から下まで触った。


「ひい!」


「な、なんと! 君は男性なのか?」


「そ、そうです。熊谷蒼です」


 こんな堂々たる痴漢行為は生まれて初めてだ。元々、小柄で華奢なおかげで、電車で女性と間違われてお触りされた経験はあるが、こんなことは初めてだ。蒼は顔を真っ赤にした。


「なんたることだ! 蛍のお相手は男の子なのか! いや。しかし、——いい。君は人が好さそうだ! 気に入ったぞ! 有田。僕は決めた。この子を我が家族として迎えることにを許そうと思う」


 蒼が目を白黒とさせていると、有田は鋭い声でたしなめた。


「いい加減になさい。マエストロ。蒼さんが嫌がっているではありませんか」


「なにを言うか。嫌がってなどひとつもないぞ」


(いや。嫌がってますけど……)


「アオ、君はどうだ? 我が息子はお気に召さないか?」


(——我が息子?)


 そこではったとした。蒼が星野を見ると、彼は肩を竦めて苦笑いしていた。


「蒼。世界に名高きマエストロ、関口圭一郎先生だ」


(この人が、関口のお父さん!?)


 蒼は開いた口が塞がらなかった。

 世界を飛び回る指揮者マエストロはとんだ変人だった。



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