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地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした  作者: 雪うさこ
▶︎▶︎▶︎06 ヴァイオリン協奏曲 e moll Op.64
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第1話 引越し



 市民オーケストラの定期演奏会は週末に迫っていた。その週の月曜日。関口に押し切られて、蒼は、あれよあれよと引っ越しを行った。もともと大した荷物もなかったので、アパートを片付けることなど容易いことだった。


 蒼の所有物の大半は本だ。昔から一人で本を読むのが好きだったおかげで、本に囲まれた暮らしをしている。ベッドもない。大きな家電は、大学時代から使ってきたものなので、処分しても問題はなかった。結局は、引っ越し業者に依頼する必要もなく、二人は関口の車を使って、何度か往復をしただけで荷物を運び出すことができた。


「しかし、本が重い」


 最後の段ボールを奥の部屋に置いた関口は不満を洩らした。


「だから。引っ越しなんてしないほうがいいんだって」


「生活感ないのは僕だけじゃなくて蒼もでしょう? なにこれ。本しかないじゃない」


「だって好きだし」


「しかも辞書ばっかり。どういう趣味しているんだろうね。この子は」


「うるさいな。あのねえ、いろいろと文句言うなら、食費出しませんからね」


 蒼の言葉に関口は黙りこんだ。世の中、お財布を握っている人間が立場上強くなるのは当然のことだった。


「とりあえず、荷物は運びこんだし。後の片付けは自分でやれる?」


「それくらいできます。っていうか、定期演奏会まであと5日でしょう。練習しなくていいの?」


 関口は曖昧な笑みを見せる。それから、「夕飯は……」と言いかけた。


「おれやるからいいよ。関口は練習、どうぞ」


 彼は「ありがとう」と頷いて出ていった。彼が防音の練習室に入ってしまうと、家屋内は静寂に包まれる。秋の匂いのする庭先は少しずつ葉の色が変わっていた。時折飛んでくるのはシジュウカラだろうか。いや。ムクドリかもしれない。「大きさが違うからわかるだろう」と星野には言われるが、並んでいるならまだしも、蒼には区別をつけるのは難しいように思われた。


 部屋から見える庭の景色が見慣れていないおかげで、なんだか落ち着かない。今までアパートばかりを転々としてきたのだ。一軒家というものは、広くて静かだった。


(今日から、本当にここに住むの? おれが?)


 なんだか信じられない。蒼はそう思う。


 どうしてこんなことになったのかわからない。まさか関口と一つ屋根の下に住むことになるなんて。出会った時には想像もしていなかったことだった。


 じっと庭を見つめながらそうしていると、不意に咳き込んだ。先日の台風の夜から、喘息の症状がぶり返したのだ。朝方になると発作が起きるようになり、実家の外来を受診する羽目になった。荷物の運搬でかなり負担がきたのだろう。リュックの中から吸入薬を取り出してそれを吸い込む。即効性のある薬だ。すぐに良くなる。


 一緒に住まうのはいいが、関口には心配をかけたくはなかった。今週末の定期演奏会。そして、年明けにはコンクールが控えているのだ。自分の体調のことは、秘密にしておこう。蒼はそう決めていた。


 あの後。すぐに、関口はコンクールに応募した。そのことを、事務所のみんなは知っているが、誰も大げさには言わない。みんながみんな、心の中でひっそりと彼を応援しているということはよくわかった。


「本選に出られるのは10名。かなり録音審査で振り落とされますね」


 吉田は両腕を組んで、ため息を吐いた。星野曰く、コンクールは一般的に録音審査が入るそうだ。今回の梅沢新人音楽コンクールも同様で、申込期間はそろそろ締切を迎え、録音審査が11月末に行われるとのことだった。参加者はそれまでに任意の曲を録音し提出する。事務局に提出しなければならない。


(関口は曲、決めているのかな……)


「普通は録音審査にも課題曲が割り振られることが多いんだ。けど、今回は、なんでもござれ。参加者は頭痛いぜ。難易度を読み間違うと、予選落ちだ。今回は予選もなしに録音審査からの本選だからよ。本選の課題曲のレベル以上の曲を選べばいい。関口にそう言っておけ」


 星野は蒼にそう言った。


「え、なんでおれが」


「友達になったんだろう? 最近、二人でこそこそしやがって。まさか一緒に住み始めました、とか言うんじゃねーだろうな」


 蒼はドキっとした。星野という男は、トロンとした目で、どこまでも人を見透かしてくる。関口と一緒に住み始めたことは、悪いことではないが、別段人に言い振らすことでもない。だから誰にも言っていなかったというのに。


「なにを馬鹿なことを言っているんですか」


「蒼、おれには隠し事、なしだぜ?」


 星野は片目を瞑ると、パソコンに視線を落とした。

 蒼は大きくため息を吐くと、手元にあるコンクールのチラシに視線を落とした。素人の蒼には、関口がどんな風になっていくのか、想像もつかないことだった。けれど、きっと大変なことになる、ということは理解できた。


(おれは、関口の力になりたい)


 蒼は「よし」と呟く。


(体調管理をして、しっかり家事やっていかないと。よーし、働くぞ!)


 蒼は腕まくりをしてから仕事に戻った。









同棲生活スタート!

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