第9話 父
翌日。市民オーケストラの練習日がやってきた。
蒼は水野谷の命で遅番を外されているから、定時で帰ることになる。残業も許されない。関口と鉢合わせにならないようにと配慮されたのに、いつまでも残っているわけにはいかないからだ。みんなの配慮であるということは理解していても、さっさと帰らされると、なんとなく自分は必要とされていないのではないかと思ってしまい、心がざわざわとしていた。
蒼はリュックを背負い職員玄関から外に出た。先日は定時で帰ったというのに、自転車置き場で関口と鉢合わせた。今日はそんな失態は許されない。
(外に出たら、すぐに自転車に乗る。そして、とっとと帰る)
まるで呪文のように繰り返しながら、蒼は自転車置き場を目指す。すると、そこに。関口とは違う見知った男の姿を見つけた。彼は「やあ」と片手をあげた。
夏間近の夕暮れは燃えるような夕日を作り出す。茜色に染まった空に反射して、男の顔も真っ赤に見えた。
長身で痩躯。白髪の多い髪を短く切りそろえている。気品のある銀縁の眼鏡は地味な割に、そう悪い生活をしているようには見えない。むしろ、高水準な生活環境にいることは容易に想像できるだろう。蒼は警戒するように、体を強張らせたまま、男を見つめた。
「……お久しぶりです」
「すまないね。職場まで押しかけるなんて。どうかしているとは思ったんだけどね。海がね。どうしても君に会いたいって言うんだ」
蒼は高鳴る鼓動を抑えきれない。まるで心臓が耳元にあるかの如く、拍動の大きな音に支配されて、男の声がよく聞き取れないのだ。
いや、聞き取れないのではない。聞きたくないだ。
「……すみません。仕事が忙しくて」
「そうだと思ったよ。でも、今日はもう終わりみたいだね。どうだろうか。久しぶりに家に帰ってこない?」
恐れていた誘いに、膝がガクガクと震えた。
「あ。あの。それは——」
答えに窮していると、ふと蒼を呼ぶ声が響いた。
「蒼! 悪いな。遅くなって」
男は驚いたように顔を上げる。しかし、もっと驚いたのは蒼だ。
視線を巡らせて声の主を探す。そこにいたのは——関口だったからだ。彼はヴァイオリンケースを肩に背負い、そのまま蒼の元にやってきた。
「すまない。遅くなって」
「え……えっと。あの」
戸惑っている蒼を余所に、関口は男を見た。
「すみませんね。蒼は僕との約束があるのです。急用じゃないなら、ご遠慮していただけませんか」
丁寧だが有無を言わせぬ物言いに、初老の男は苦笑いをした。
「いや。私の用事は大したことではなくてね」
彼はそれから蒼を見つめた。
「お友達が出来たんだね。安心したよ。家にはいつでも帰ってきていいんだからね。海のことも相談したいんだ。また連絡します」
彼は軽く手を振ってから姿を消した。男の姿が見えなくなると、堪えていた膝が一気に折れて、蒼は地面に座り込んでしまった。関口は慌てて蒼に手をかけてきた。
「大丈夫か?」
いつも生意気な顔をしている彼なのに。心配気な瞳が蒼を見ていた。彼は男が立ち去った方向を確認すると、再び蒼を見下ろした。
「あ、あの……」
(助けてくれた? 関口が?)
「困っているように見えたもので。——あれはなんだ? 新手のナンパか。迷惑だったら申し訳ない限りだけど」
「ち……」
「え?」
「父です」
蒼の回答に、関口は口をパクパクさせて顔を赤くした。
「そ、それでは逆に失礼なことをしたのではないか? 僕としたことが……」
「いいんです。いいえ。助かりました。父とは話をしたくなかったんです。それに——本当の父ではないので他人です」
関口に手を借りて、駐輪場のとなりのベンチに腰を下ろした。あまりに気が動転していたのだ。彼の腕を掴んでいたことにはったとし、それからぱっと手を離した。
「すみません、でした……」
「いえ。こちらこそ。事情も知らないのに口出しをして。——やだな。お節介な性格じゃないんだけど」
蒼は深呼吸を何度か繰り返し、それから改めて関口に視線をやった。「本当の父ではない」と言ってしまったのだ。このままというわけにもいかない。蒼は気まずい雰囲気に諦めて口を開いた。
「新手のナンパ」呼ばわりの関口くん。天然です。
そして、明かされる蒼の過去。明日に続きます。




