第1話 初め式ではじまります。
「えっと、ハンカチ、ティッシュに……、お弁当」
熊谷蒼は鞄の中身をごそごそと漁っていた。こんなことは気休めだ。なんの意味のないことだ、とわかってはいてもやめられない。落ち着かない気持ちをごカマスためにいているということは自分がよくわかっていた。
時計の針は7時半を指す。タイムアウト。余裕を持っていたはずが、余計なことをしていて、あっという間に時間がなくなってしまったようだ。蒼は「行かなくちゃ」と小さく叫んでから、バタバタと小さい部屋から出て、キッチン、バスルームの前を通過し、玄関を開ける。それから、着慣れていないリクルートスーツに手間取りながら、外付けの古い階段を駆け下りた。
4月1日。本日は晴天成り——。熊谷蒼の社会人としての第一歩を踏み出す日であった。
*
「若人たちよ。私は君たちを歓迎する」
バリトンの心地の良い声が聞こえた。蒼は、声の主を見定めようと少し首を左右に振ってみるが、目の前に立つ人々は長身。どう頑張っても無理だということを理解して諦める。声の主は、蒼の組織のトップ、梅沢市長の安田という男だ。
(どうして、おじさんの話って長くて退屈なんだろう……)
蒼は飽き飽きした気持ちで、周囲の人々の様子を伺った。
そこに並んでいるのは、梅沢市役所に今年入庁する新入職員たち。そう。蒼の同期たちだ。周囲を見渡しているのは蒼くらいなものだ。みんなが一様に真剣な面持ちで市長の挨拶を聞いている。なんだか自分ひとりだけが、落ちこぼれみたいな気持ちになった。そのおかげで姿勢も猫背になって自然と視線を床に落とす。
(おれは、人よりも劣っている)
昔からそうだった。どうしても人と比べて、自分は劣っていると思ってしまう。成績はそう悪くはなかった。勉強は好きだったからだ。けれども、どうしても人との付き合いがうまくいかない。そのおかげで、「自分は人よりもダメな人間だ」と思っていたのだった。
(だから、配属先が変なんだ)
数日前。蒼の元に届いた配属先の通知を見て困惑した。やはり自分は周囲とは違っている。そう確信した瞬間でもある。なぜなら。蒼の配属先は市役所であって、市役所ではなかったからだ。
自分たちの組織の頂点にいる市長の話である。一言一句洩らさずに聞き取らなくてはいけないと自分に言いきかせればきかせるほど、意識がぼんやりとしてきた。昨晩から緊張していたせいだろう。早めに床に入ったというのに、何度も夜中に目が覚めた。時計の針は午前中の9時を回ったばかりだというのに、頭の芯がぼうっとして、思考がまとまらなかった。
(だめだめ。ちゃんとしなくちゃ。ちゃんと、市長の話を聞かないと)
これは自分との闘いだ。朦朧としかけた時、ふいに大きく市長の声が耳を突いた。蒼の意識は一気に引き戻される。
「最後にもう一度伝えます。みなさんは、この梅沢市民のためにここにある。そのことを胸に刻んで、市民のみなさまのために業務に励んでいただきたい。市長として、ここに君たちの門出を祝福いたします!」
会場からは拍手が巻き起こった。蒼は胸を撫でおろした。
(そうだ。今日からこの梅沢市役所の職員としての人生が始まる)
初め式を終えると、人事課の担当職員のアナウンスが響いた。
「それでは、各部署の課長級の方たちがお見えになっておりますので、自分の部署の課長について速やかに移動をお願いいたします」
自分の部署の課長と言われても……と思いながら、辺りを見渡す。課長たちは、新入職員がわかりやすいように、『人事課』『長寿福祉課』『市民税課』など、マジックで書かれた紙を持っていた。次から次へと自分の課長を見つけて、安堵の表情を浮かべている同期たちを横目に、蒼は不安な気持ちになる。まるで遊園地で迷子になった気分だ。
おろおろと視線を彷徨わせていると、ふと肩を叩かれた。驚いて振り返ると、丸眼鏡の優しい笑みを浮かべた男が立っていた。
「熊谷蒼?」
「え! は、……はいっ!」
彼は蒼よりも長身で、スマートな男性だ。年のころは40台後半。紺色のスーツに、おしゃれな桃色のネクタイ。気品のある人だった。
「よろしく。僕はね、星音堂長兼課長の水野谷裕治です」
蒼はぺこっと頭を思い切り下げる。水野谷はにこにことしたまま、「どれ、行こうか」と軽く呟いてから歩き出した。
(この人が、おれの上司)
人混みの間を縫って歩いていく水野谷の背中を見失わないように、蒼は必死になって着いていった。
初日からドッキドキの蒼です。さてどんな場所に連れて行かれるのか!?
更新は明日です。お楽しみに!