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第8話 先生


 翌日。蒼は遅番だった。「ラウンド行ってくるか」と星野は懐中電灯を手に立ち上がる。遅番と言えば、ソファに寝っ転がってテレビを見ていることが多い彼。珍しいことだった。蒼は慌てて腰を上げた。


「おれ、行きますよ」


 しかし、星野は「いいって」と手を横に振った。


「関口の奴。今日のヴァイオリン協会の講師も引き受けたって噂だから。来てると思うぜ、事務所で大人しくしてろって。課長に言って、水曜日も外してもらわねーとな」


 星野は、関口は蒼にとったら、大切な存在になるかも知れないと言っていた。しかし、まだ蒼にはその勇気はない。


(ここの人たちは、みんな優しい。おれが今まで出会ってきた人たちとは違うんだ。だから。少し、考えてみたい。けど。まだ。まだだ。まだその時期じゃない)


 一人取り残されると、なんだか不安になった。自分の席に戻り、パソコンの画面に視線を遣ると、内線が鳴り出した。第五練習室の利用者からだった。ピアノの蓋が施錠されており開かないと言う。星野は戻る気配がないが、ピアノが使えないのをそのままにもしておけない。蒼はカウンターに「不在。もう少々お待ちください」と書かれた札を出してから、ピアノの鍵を持って、事務室を出た。


 湾曲した廊下を橙色の淡い光が照らす。中庭を眺めながら歩みを進めるとその先にはテーブルとイスが置かれている場所になっていた。壁面には今までの演奏会の写真や、星音堂の模型などが展示されている場所でもある。いつもは誰も利用していない場所だ。しかし。今日は人の話し声が聞こえてきた。

 

 蒼がそっと覗き込むと、寄りにもよって、そこには関口の姿が見えた。彼はと小学生くらいの男の子と一緒だった。第五練習室にたどり着くには、そこを通らなくてはいけないというのに。気持ちが落ち着かなくなった。黙って通り抜けてしまえば、なんてことないだろうに。つい足が竦んでしまった。


「ねえ、もっと難しい曲弾きたいよ。こんな簡単な曲、一回で弾けちゃうし。面白くない」


 トレーナーにジーンズのやんちゃそうな男の子は頬を膨らませて関口に悪態を吐いた。しかし。関口は苦笑した。


「直樹の腕じゃ、当然、そうなるかな」


「わかっているなら、もっと難しい課題ないの?」


「難しい曲ね」


 ——お前の演奏は空っぽだ……。


 星野から聞いた関口の話を思い出した。年端かもいかない子どもが突きつけられた現実は残酷だったことだろう。関口はこの男の子みたいに自分の力を信じ、自信に満ち満ちていただろう。それなのに。大人から言い渡された印籠は、関口の根幹に関わるものであったに違いないのだ。


 蒼はまるで自分のことのように心が痛んだ。嫌な奴なのに。なぜかそんなことを考えてしまう自分はお人好しだと思った。


「直樹は、この曲を聴いた時どう思った? この曲は、なにについて書かれた曲なのだろうか?」


 関口に問われた直樹はキョトンとした顔をしてから腕組みをした。


「えー。そんなの考えたことないよー」


「じゃあ考えてみてよ」


 蒼には二人がどんな曲の話をしているのかさっぱりわからない。


「ねえ、この曲は明るい? 暗い?」


「えー。短調でしょ。でも明るく感じたり暗く感じたりするよね。途中で転調してるんだろう」


「だよね。それってどうして? なんで、長調になったり、短調になったりする?」


「それはいい時もあれば悪い時もあるみたいな? いつも同じじゃないってことでしょ。おれの今日みたいじゃん! 朝は寝坊して最悪。でも給食は大好きなソフト麺でラッキー! なのに放課後はサッカーでボロ負け。これじゃん! まさにこれ」


 直樹は言葉に合わせて表情を変える。それをみて関口は笑みを浮かべた。


(ああ。あんな顔で笑えるんだ)


「それそれ。楽しい時は嬉しくなって、最悪な気分の時は落胆して。この曲は浮き沈みが激しいよね」


「確かにねー。これ作った人もおれみたいだったんじゃない?」


 関口は頷く。


「これを書いた作曲家はね、この時期、恋をしていたらしいよ」


「恋って、うっそ。好きな子?」


「だね。直樹はいないの」


 直樹は顔を赤くした。


「ば、ばかじゃねーの! 女なんてうるせーだけだし」


「おーおー。赤くなってるけど?」


 関口に突かれて直樹はますます赤くなる。


(あの子、十分恋してるじゃない)


 なんだか微笑ましい光景に思わず笑いそうになって口元を押さえた。蒼のいる場所は死角だ。二人からは見えないだろう。


「まあ、恋しているかしていないかはさておいて——。それ聞いてどう思った?」


「確かに。簡単かもしれないけどさ。もう少し弾いてみたくなったよ」


「でしょう?」


(——うまく乗った!)


「さて。じゃあ来週までに仕上げようか。なんでもいいよ。今日の一日を想像してもいいけど、まあ、恋の方がもっともらしくていいんだけどね」


「あ! クソババア迎えにくるんだ。じゃあね! 先生。また来週!」


 楽器ケースを背負って走ってきた直樹と鉢合わせになるが、彼は蒼のことなど気にしない様子でバタバタと走り去った。蒼はまごついた。余計に気まずい。このまま、ここを突っ切るのか。事務所に戻るのか。迷っていると、片付けを済ませて正面玄関へ向かおうとしていた関口と鉢合わせてしまった。立ち聞きしていたみたいでバツが悪い。慌てふためいたせいで挙動不審すぎる。


(なんて切り出したらいい!?)


 おろおろと狼狽えていると、ふと彼が口を開いた。


「なんです。立ち聞きですか。悪趣味ですね」


「ち、違うし。おれは奥の練習室に用事があるんです!」


「じゃあ、さっさと通り過ぎたらいいじゃないですか」


「だ、だって。なんでここで話をするわけ? 練習室でやりなさいよ」


 関口のせいにしたって仕方がないが、立ち聞きをしていたことへの罪悪感を隠すように、蒼は言い訳まがいに文句を言った。


「次の子が来てしまって。話をする場所がなかったんですよ」


 一人で右往左往している自分は馬鹿みたいだ。案の定、関口は冷ややかに見ているばかりだ。直樹という少年と会話をしている時の笑顔など、微塵も感じられなかった。面白くなかった。彼の笑顔は、自分以外の人間には向けられているというのに。


(別にいいんだけど! 笑われたって、逆に嬉しくないし!)


 蒼は咳払いをしてから、「さっさと帰ってくださいよ」と彼の脇をすり抜けた。第5練習室の客も待たせているのを思い出したのだ。


 しかし、不意に関口が「あの」っと声を上げた。


「なに! まだなにかあるの!?」


 蒼は頭に血が上ったまま、勢い任せに振り返ると、関口が呆れた顔をして肩を指さした。


「シール、ついてますよ」


「へ!?」


 はったとして右肩に視線をやると、先ほどまでいじっていたタグが一枚くっついていた。


(は、恥ずかしいぃーー!)


 バタバタと慌ててタグを外す。関口は「ぷっ」と吹き出した。なんだか馬鹿にされているみたいでもう言葉も出ない。ただただ、顔が熱くなって、口をパクパクするだけだった。


「も、もう! ばかにして!」


「せっかく教えてあげたのに」


「余計なお世話です!」


 蒼はむんむんとした気持ちで廊下の奥を目指す。


 きっと嫌な奴じゃない。きっと嫌な奴じゃない……。

 いつもは怒りたい気持ちばかりなのに、なぜか怒る気にもなれないのは、彼の違う面を見たせいなのだろうか?


「からっぽか」


 そんなことを呟くと、第五練習室から中年の女性が顔を出した。


「遅いわよ!」


「は、はい! 申し訳ありませんでした」


 蒼は慌てて第五練習室に駆け込んだ。



ちょっと意外な関口の姿に、蒼の心は揺れているようですね。二人の距離が少し縮まったかな!?


明日に続きます!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 演奏に限らず創作などは、見たり聞いたり読んだりする側からだと、何となくわかってしまうんですよね。 人気だからという理由で好きでもないジャンルの作品を書くと、読者に言われてしまうとか……そう…
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