第6話 昔話
「なんだかなあ」
昼休み。星野は椅子にもたれて後頭部で腕を組むと天井を仰ぎ見た。彼の言葉に主語はないが、そこにいる誰しもが、その言葉の意味を理解しているようだった。
「星野さん」
吉田も大きくため息を吐く。みんなが心痛めているのは、その席にいない蒼のことである。
「関口の奴、蒼になにしたんでしょうかね」
尾形は昼食後のデザートであるカップケーキを頬張った。今朝ほどコンビニから購入してきた新商品だと言っていた。あんぽ柿を小さくカットして練り込んであるご当地新商品デザートだと熱弁を奮っていた尾形だ。それをぼんやりと眺めていた星野は曖昧な返事をした。
「さて。ねぇ」
「あいつさ。性格可愛くないけど。まさかここまで蒼につっかかるとは思ってもみませんでした。吉田の時よりひどくないですか?」
尾形の言葉に吉田も「おれの時もきつかったもんなー」と笑う。星野はぼんやりと返答した。
「同じ年だからなのかな。おれたちのことは年上だと思っているからさ。少しは遠慮していたんだと思うんだけど……」
「星野さんから話してみたらいいんじゃないですか。あいつ、星野さんのいうことはきくし」
吉田も半分懇願するように言った。
「関口がなに言ったかわからないですけど、やっぱりちゃんと謝罪させたほうがいいですよ。あの蒼が、あんな風になるなんて——」
あれから、彼は事務所にいても口を開くのは業務のことだけだった。みんなでいつも通りに話をしていても、押し黙ってじっとしているばかり。昼食時間になると、こうしてどこかに姿を消す。星野は知っている。彼がどこにいるか。
彼は大きくため息を吐いてから、席を立った。そしてロビーに出てから廊下をまっすぐに進み、そして西側の休憩場所に顔を出した。
蒼はぼんやりとしてそこに座っていた。いつもそこにいる。こうして放っておくと何時間でもそこにいるのだ。星野は「おい」とぶっきらぼうに声をかけた。ぼんやりとしている視線で蒼は顔を上げた。なんの返答もない蒼に期待しても仕方がない。星野は蒼の座っている隣の椅子に腰を下ろしてタバコを出した。普段だったら「禁煙ですよ」と怒る彼だが、今日はただぼんやりとそこにいるだけだった。
「あのよお」
星野は独り言のように話し始めた。
「昔々、あるところに、それはそれはヴァイオリンが大好きな少年がいたとさ。彼の名はケイ。ケイの父親は世界的に有名な指揮者。ケイの母親は誰からも愛されるプリマドンナ。典型的な音楽一家の長男だ。物心ついた頃から両親二人は世界中を飛び回っていてケイは爺さんと婆さんに育てられた」
星野の話は誰宛ともなく独り言のように続く。
「そんなケイの心の友はヴァイオリンだけだ。彼は時間さえあればヴァイオリンを弾いた。そんなんだから友達なんているわけがない。学校でも仲間外れ。行くところもない。ともかくヴァイオリンを弾いた。そんな彼が挫折の時を迎えたのです」
ふと蒼が星野を見た。それを受けて星野は微笑を浮かべて話を進めた。
「あるプロのピアニストに言われたんだ。『お前の演奏には何も感じられない。何の思いも感じられない。からっぽだ』ってね。今までどんなコンクールでも成功してきた彼が、初めて経験した挫折だ。だが、彼の生活にはヴァイオリンしかなかったから、今更他のものに救いを求めることはできない。たった一人で途方に暮れたケイはとある音楽ホールと出会ったんだよ」
「それって——」
目の光が戻る。蒼は話の意図を理解したのだろう。関口の昔話だと気がついたのだ。
「関口蛍のことだ。あいつはよ。本当に性格が悪いクソガキだった。けどいつの間にかこのホールに馴染んじまった。あいつの居場所はここしかなかったんだ」
蒼は星野を見ていた。
「居場所がここだけ?」
星野はタバコをふかすと、「そうだよ」と肩をすくめた。
「あいつの抱えてるもんはデカすぎるぜ。お前だって聞いたことあんだろ? 父親は関口圭一郎。母親は宮内かおりだ」
蒼は、その名は知っている、と頷いた。この二人はよくテレビに出ている。クラシック好きではなくとも、日本国民なら誰しも目にする人気者だ。
関口圭一郎は日本を代表する指揮者。現在は海外オーケストラの常任指揮者を担っているが、日本でもしばしば公演を行っている。若手の頃から往年の指揮者ばりの解釈に賛否両論はあるものの、クラシック界では人気のある指揮者でもある。蒼には以前、梅沢市出身だと教えた。
宮内かおりはソプラノ歌手だ。声楽家というのはふくよかなタイプを想像しがちだが、彼女はスレンダーで目鼻立ちがぱっちりとしており、気品ある美しいソプラノ歌手だった。何度かテレビや雑誌で見かけたが、彼女にこんな大きな息子がいるとは思えないくらい若く見えた。
「いくら背伸びしたって追い越せるはずねぇ。しかも、お前の演奏はからっぽだと言われてから、あいつはコンクールに出なくなってよ。22歳にもなっても、まだプロにもなりきらねぇ。あいつの実力なら、もうすっかり世界に飛び出していてもいいはずだ。——おれはもどかしくて仕方ねえ。なんとかしてやりたいんだが、おれたちではダメだった」
(そうだ。なにもしてやれねぇんだ)
「関口はおれたちに見せない顔をお前に見せたんだろ? なにか、お前に感じているのかもしれない」
「——おれのことが嫌いなだけですよ。あの人は。自分の居場所を取られたとでも思ったんじゃないですか」
そこで初めて、蒼は口を開いた。
星野から語られた関口の過去。蒼はどうする!?
次に続きます!