第2話 遅番勤務
関口が事務所から去ったあと、星野は関口について説明をしてくれた。
「あいつは関口蛍。ヴァイオリン弾きだ。高校時代まで梅沢にいてね。卒業後はドイツに留学していたんだ」
星野の説明に吉田が口を挟んだ。
「蒼と同級生になるんじゃない?」
「同じ年、ですか」
「そうなるね」
(おれと同じ年? なんだか子供じゃない。まともに挨拶もしないんだから……)
蒼の中で、関口という男は、かなり印象が悪い。彼との再会を喜ぶ星野たちを他所に、蒼の心の底には、ずっと苛立った感情が沈殿していっているからだ。初対面で人を不愉快にさせるのは、なかなか難しいことだと蒼は思っている。それを成し遂げるのだ。あの男は、かなりの変わり者に違いない。
しかし、星野は蒼の気持ちなどに気がつくわけもない。蒼は昔から、自分の感情を押し殺してきた。心の中で思っている気持ちを外に出さずに振る舞うことなど朝飯前なのだ。星野は椅子にからだを預けたまま、嬉しそうに笑みを見せた。
「あいつ、昔から星音堂が好きでね。ここの施設に入り浸りだったんだよ。だからここの職員はみんなあいつを知っているってわけだ」
(だからみんなと親しいんだ。でも、性格は悪いに決まってる。おれの中の嫌いランキングの上位に決定)
「あいつ、コンクール出るんでしょうか」
吉田の言葉に星野は「出ねーだろ」と即答した。その意味が蒼にはわからない。吉田もそれ以上は触れないようにしているのか、その話題はそれで終わった。それよりも蒼は、あの不躾な態度を取る関口への思いを押し込めるのに必死で、そんなことはどうでもいいことだった。
*
遅番の時の大仕事は、時間を超過している団体を、いかにスムーズに施設から追い出すかだ。それは特に大所帯になればなるほど時間が超過する。時間超過の常習ナンバーワンは梅沢市民オーケストラだ。
先週から始まった遅番の任は蒼にとったら大変な仕事だった。大体、公務員になって午後から出勤をして夜まで勤務をするなんて想定外だ。そんな勤務が三日に一度回って来るとは。生活のリズムに慣れるのには時間がかかりそうだった。
氏家から指示されて蒼は気合を入れて第一練習室に顔を出した。
「時間が過ぎています! みなさま、速やかに退室願います!」
こうして声をかけていかないと、なかなか騒ぎはおさまらない。楽器の片付けをしている人たちや、すでに片付けを終え立ち話をしている人たちも多い。蒼は入り口で声をかけ続けた。星野にそうしろと言われているからだ。
「ねえねえ。蒼くんだっけ? この前一緒に夕飯食べに行こうって言ったじゃん? その返事もらっていないんだけど」
蒼の目の前を通り過ぎて帰宅している人たちの中、足を止めて声をかけてくる女性二人組。先週から、なにかと蒼に絡んでくる市民オーケストラの団員、橘と秋元だ。歳のころは三十代前半だろうか。蒼はこの二人が苦手だった。
遅番をしていなくても、残業をする機会も増えていたおかげで、彼女たちとは何度か面識があったのだが、どこをどうして自分を気に入っているのか蒼には理解できない。半分からかわれているとしか言いようがないのだ。
「すみません仕事中なんです」
「いつもそうじゃん。たまには付き合いなさいよ」
「そうそう、お姉さまがたが面倒みてあげるって言っているでしょう?」
橘は少しふくよかな女性で、真っすぐなロングヘアーを一つに結んでいる。いつもスカートを履いているところを見ると、事務系の仕事をしているのだろうか。秋元はショートカットで細身。橘よりも長身ですらっとしている。彼女はどちらかというとパンツスタイルが多い。この二人は対照的で、どうして仲良くしているのかと思うくらいだが、いつもこうして一緒にいる。
「ですから——あの……ともかく! 早く帰ってくださいっ!」
二か月。ただここにいるわけではない。蒼も随分と星野たちに鍛えられている。こんな押しには負けない。蒼は気持ちを持ち直し、女性二人の背中をぎゅうぎゅうと押した。
「もう、強引なんだから!」
「そんな蒼ちゃんも好きよ」
二人はうふふと笑いながら姿を消した。本当に彼女たちの相手は大変だ。蒼の目の前を通り過ぎていく人たちに挨拶をしていると、ふと目の前で立ち止まる男がいた。 星野たちと親しげに話をしていたあの男——関口という男だった。
昨日は知らんぷりだった関口が、蒼の目の前に!
続きは明日です。
それにしても、ホールの管理は大変です。9時までとは言っても、その後の後片付けがありますからね。