第1話 帰ってきたヴァイオリニスト
梅雨になった。蒼にとったら、あっという間の二か月だった。
「蒼、これポスターの掲示しておけ」
そんなある日の昼下がり。高田が蒼の名を呼んでから、白い筒状のポスターを差し出した。星音堂には、こうして日々、色々なチラシやポスターが郵送されてくる。内容は様々だ。市の事業であったり、他施設の催しものであったり。全てを掲示するスペースはない。送られてきたものは、水野谷や氏家が振り分けをして、掲示するかどうかを決めているようだった。
蒼は高田からポスターを受け取る。すると、高田が「目立つところに貼ってやれよ。大事なやつだから」と言った。なにが大事で、なにが大事ではないかなど判断できるわけもない。蒼は首を傾げながら、画鋲を持って廊下に出た。事務所の横には大きな掲示板があるのだ。そこに立って、ポスターを広げてみると、それは音楽コンクールの告知だった。
「星野一郎生誕100周年記念 梅沢新人音楽コンクール?」
内容は音楽家の若手を育成するコンクールのようだ。梅沢市を代表する昭和の作曲家、星野一郎が生誕100周年を迎えるというのは来年の話だ。それを記念しての開催されるようだ。ポスターを反対に丸めてから皺を伸ばす。開催期日が過ぎてしまっているポスターを何枚か取り払い、それを目立つところに画鋲で止めた。
「こんな田舎のコンクールに応募する人なんているのかな?」
そんなことを呟いていると、はったとした。自分の後ろに人が立っていたからだ。蒼はびっくりして振り返る。するとそこには、長身で痩躯、黒縁の楕円形メガネをかけた男が立っていたのだ。
「すみません」
蒼は「邪魔か」と思い、慌てて場所を譲るが、彼は蒼には目もくれずにポスターを凝視していた。その横顔は真剣そのもの。 彼の肩には楽器のケースが背負われている。
(えっと……。この前星野さんに教えてもらったんだっけ。あの大きさは……ヴァイオリン? それとも、えっと。ヴィオラってやつ?)
そんなことを考えていると、男が不意に蒼を見下ろした。視線が合って、凝視していたところを見られたと思うと恥ずかしくなった。
「いや、あの! えっと。——すみません」
言い訳も立たない。蒼はただ謝罪の言葉を述べた。だが男は蒼のことなど視界に入らないかの如く、向きを変えると事務室に入っていった。
「む、無視!? 無視なわけ?」
(おれがいることを知らなかったわけじゃないよね? つまり、これは無視。なにあいつ! 本当、失礼極まりない!)
いつもはそう怒ることもない蒼だが、なんだか腹立たしく思った。面白くない気持ちのまま、事務所に遅れて入ると、その男は星野と話をしているところだった。
「お前。全然顔出さないから、心配していたんだぞ」
星野は眼鏡の男に嬉しそうに笑顔を向けていた。
(星野さんの、知り合い?)
少なくとも蒼が星音堂にきてから見かけたことのない男だが、他の職員たいも笑顔で男を歓迎しているようだった。
「おいおい。身長伸びたんじゃないか」
「なんだか男らしくなったな」
「すみません。ご無沙汰で……」
男は気恥ずかしそうに笑みを浮かべた。その笑顔は、先ほどの無表情からは想像ができないほど、眩しいものだった。なんだか蒼だけ仲間外れみたいな気持ちになって黙り込んで立っていると、星野が蒼に気がついた。
「おうおう。そうだ。関口——。蒼だ。4月から安齋の代わりにきた」
(あれ? 関口って……。どこかで聞いたような)
蒼は一瞬で考えを巡らせた。聞いたのは最近だ。しかもこの星音堂で。必死に記憶の引き出しを引っ張り出すと、思い出した。吉田からオリエンテーションを受けているときに。「あいつが帰ってきた」と星野が喜びながら話いていた、あの男のことである。
(この人が、関口って人。確か、ドイツから帰ってきたヴァイオリニスト)
蒼はペコっと頭を下げた。しかし、関口は軽く会釈をしたかと思うと、すぐに蒼から視線がを外れていった。
(な、なに? おれなんか悪いことした?)
彼の態度は、明らかに星野たちに対するものとは違っている。いくら初対面だとは言え、そんな態度を取られる筋合いはない。失礼な男だと思った。
「東京の実家を拠点にしているのか?」
「ええ。ですが、——柴田先生と約束していて。帰国したら梅沢市民オケのコンマス引き受けることになっていたもので。こうして練習の日は東京から通う予定なんですよ」
「通うのは大変だろう? お前さ。律儀だね〜。柴田先生は喜ぶと思うけど。ちょうどコンマスが辞めちゃって困っているところだから」
関口は「だから呼ばれたんです」と笑った。蒼には、会話の一部しか意味がわからない。
梅沢市民オーケストラという団体があるのは知っている。そこの顧問をしているのが「柴田」だということも星野から教えてもらっていた。そして、コンマス。コンマスはコンサートマスターの略だ。ヴァイオリンの首席奏者が務めるのだと聞いている。
音楽を作り上げるのは指揮者だが、オーケストラメンバーをまとめ上げる立場にいるのはコンサートマスターだと。
海外から戻ってきたというが、突然戻ってきてコンサートマスターの席に座れるっていうことは、この関口という男はそれだけ実力があるということなのだろう。
「東京を拠点にする理由があるのか? ないなら、なにもこっちに住めばいいだろう」
「まだまだ腰を据えるような状況じゃありませんよ。これからあちこちのオケのオーディション受けたり、講師の仕事探したりしないと。無職ですから」
「無職って。親の脛でもかじっていればいいじゃないか」
「それは言わないでくださいよ。吉田さん」
関口は弱ったように眉間に皺を寄せて苦笑した。時計の針は5時を指す。するとそこに、本庁に行っていた水野谷が帰ってきた。
「お! なんだ。久しぶりじゃない」
「水野谷課長。お久しぶりです」
事務所はますます盛り上がる。蒼は壁際に立ってじっと静かに様子を伺っていた。せっかく馴染んできたはずの事務所が。まるで別の場所になってしまったかのように感じられた。
——疎外感。
まさにそれだった。
突如姿を現した男。蒼は仲間はずれ……。せっかくみんなと仲良くできそうな雰囲気だったのに。この男は一体!?
明日に続きます。