立科保養所
八十神たちが消息を絶ってから四年の月日が流れたが、いぜんとして彼らの行方はわからないままだった。もはや生きてはいないのだろう。橘はそう結論づけていた。銀毛の人狼に関する新たな情報もあれ以来いっさい手に入らなくなっていた。
橘の酒量はさらに増えていった。
仕事中に手がふるえるようになり、銃の照準がうまく合わせられなくなった。だが酒さえ飲めばふるえは止まる。仕事中に飲めるよう携帯水筒に酒を入れて持ち運ぶようになった。
そんなある日、手配中のL3級妖魔が廃ホテルに潜伏しているという情報が橘のもとによせられた。彼はその場所にひとりで足を踏みいれた。
情報によればその妖魔は一匹だけと聞いていたので、単独でも問題ないと判断したのだ。
しかし現場で彼を待ちうけていたのは、L1からL3までの妖魔たちが入りみだれた光景だった。橘は敵によって罠にかけられたのだ。「霊安室」の同僚たちが駆けつけるまで橘は必死に立ち向かったが、闘いの中で左足を負傷してしまった。半月ほど前のことだ。
医者の診断によれば「歩けるようにはなるだろうが、左足には軽度の障害が残るだろう」とのことだった。
橘は絶望した。自由に飛べず速く走ることも出来ない身体。そんな自分にいったいなんの意味が、なんの価値があるというのか。
タクシーが路面の凹凸を越えるたびに、身体にガタガタと揺れが伝わってきた。
橘は腕時計を見る。時間は昼の一時五十分。約束の二時には間にあいそうだ。
リアシートに立てかけた松葉杖にふたたび目をやって、橘は左足のひざをポンとたたいた。
懐から携帯水筒を取り出して一口あおる。中身はストレートのウイスキーだった。
運転手はバックミラーごしに橘をちらりと見ただけで、口を開かなかった。
やがてタクシーはスピードをゆるめ、山の中にある小さいホテル風の建物の前にとまった。
乗車料金を支払って領収書を受け取る。あて名はいつもの「市ヶ谷株式会社」にした。霊安室の係官が共通で使用する幽霊会社の名前のひとつだ。身分をいつわるための名刺にもここの名前と住所が印刷されている。
タクシーを降りた瞬間、長野の山々から吹きつける十一月の冷たい風が橘の身体に染みわたった。
――もう少し厚手のコートを着てくればよかったか――
彼は少しだけ後悔した。
敷地のまわりは高いフェンスでかこわれていた。フェンスに貼られたプレートには「立科保養所」と表記があった。
長野県の立科にあるこの建物が、英霊体たちの暮らす場所だった。
もともとは倒産したある会社の保養所だったが、そこを政府が買い取って一部を改装したものと聞いている。
敷地に足を踏みいれ、松葉杖をたよりに建物の正面玄関へと歩を進める。
左足には迫田の皮靴をはいてきていた。むかし迫田の妻から形見わけにもらったものだ。橘には大きすぎるサイズだったが、包帯を巻いた左足にはぴったりだった。
――そう言えばお前はいつだって用意周到だったな。死んだあともそうだったとは恐れいる――
「そうだろう?」と得意げに笑う迫田の顔が頭に浮かび、橘は心の中で軽く苦笑した。
玄関に着くと、なつかしさを覚える顔が笑顔で待っていた。
雪村美沙。この施設の寮母であり、橘の先輩にあたる女性でもあった。
陶器のように白い肌と黒目がちの大きな瞳を持った、どこか透明感を感じさせる女性だった。セミロングのつやめいた黒髪をポニーテールに結んでいる。ハイネックのニットに着古したジーンズという地味ないでたちだったが、彼女は遠目からでもわかる清楚さと美しさをまとっていた。
年齢は橘より二つ上と聞いていたのでもう三十代も終わりのはずだったが、その容姿は最後に見たときから何ひとつ変わっていないように思えた。
だが外見のたおやかさに反して、彼女は強い女性の象徴のような存在だった。
橘は「霊安室」での研修期間中に美沙から剣道の三本勝負を持ちかけられたことがあったが、結局彼女から一本も奪うことはできなかった。
警官時代、橘は県警の大会で常に上位五番以内に入る実力があったが、彼女の前では無力だった。どの技をしかけても、どこに斬り込んでも、彼女はそれを予期していたかのように軽やかにかわし、最終的には橘の方が一本を入れられているのだった。
――橘くん、あなたはちょっとだけ、勝ちたいという気持ちが先走っているみたいね。それじゃあ私からは一本も取ることはできないわ――
彼女の顔を見たとたんにそのときの苦い記憶がよみがえり、あいさつの際の橘の表情はややぎこちないものとなった。
「ごぶさたしております」
「いつぶりかしらね」と美沙が応じた。
「雪村さんが退職されたとき以来ですから、三年ぶり――でしょうか」
「もうそんなになるのね――」と美沙が軽いため息をつく。
「――どうして、また霊安室に?」
美沙はその問いにすぐには答えず、橘を応接室へと案内した。
先を歩く彼女のポニーテールがゆれ、そこからかすかに甘いシャンプーの香りがした。
応接室に入ると、橘は松葉杖を壁に立ててソファに腰をおろした。
美沙はコーヒーをいれる準備をしながら橘にたずねた。
「ところで――その足はどうしたの?」
「仕事中にすこし、どじをふんでしまいまして――」
「そう――。橘くんにしてはめずらしいわね」
賀茂からあるていど話を聞いているのかもしれなかったが、美沙はそれ以上は何も触れなかった。その気づかいが今の橘にはありがたかった。
「ブラックでよかった?」
「はい――」
コーヒーを飲みながら、共通の知人の動向などの軽い会話をしたあとで、美沙は本題に切り込んだ。
「――で、引き受けてくれるの?」
「それを見きわめるために、ここに来ました――」と、橘は答えた。
転属の内示から一週間たってもなんの返事もよこさない橘に業を煮やしたのか、賀茂は橘に施設への視察命令を出した。二日前のことだ。
――みんないい子たちばかりだから、一度会えば君もきっと気にいると思うよ――
視察の指示を出す時に、賀茂はそんなことを言っていた。
無責任な言いぐさだ、と橘は思った。だいいち気にいるかどうかで決めていい話でもないだろう。
賀茂のこの話を美沙にぐちると、美沙はふふっと笑った。
「いまの賀茂くんなら言いそうなセリフね――。でも、本当にいい子たちなのよ。育てた私が言うのもなんだけど」
「――」
彼女は最初の英霊体が誕生した二年前からずっと、母親代わりとなり彼らを育ててきた。
英霊体は初めに二体が製作され、その半年後に二体、さらに半年後には三体が増やされて、現在の合計は七体となっている。
「それで、彼らは今の時間どこに?」
「外で遊んでるわよ。見る?」
美沙が応接室のカーテンを開けた。そこには裏庭が広がっていた。
幼稚園で見かけるような小さい遊び場で、幼児たちがそれぞれの遊びに興じていた。彼らを見守るようにエプロン姿の女性が二人、かたわらに立っている。
「近くに行っても、かまいませんか?」
「いいわよ。でも腰のそれは、ここにおいていってね」
美沙が橘の左の脇腹あたりを指さして、ふふっと笑った。
「やっぱり、わかるものですか?」
「服のシワとかふくらみ方でね。こう見えてもあなたよりこの業界は長いのよ」
「しかしこれがないと、どうにも落ちつかなくて――」
「子供たちがね――」と、美沙がそこでいったん言葉をくぎった。
「――どういうわけか、武器のにおいにとても敏感なのよ。持ってる人を見るとすごく警戒しちゃうみたい」
「しかし万が一、ここが襲撃された時のことを考えると――」
「ここの警備には日中だと三名、霊安室の係官を配置しているわ」
「でも――」
「それに私もいる。それじゃご不満かしら?」
美沙にそう言われてはもう降参するしかなかった。
隠匿携帯用のホルスターごと、銃をテーブルに置く。
「ナイフも」と、美沙が笑顔のまま続ける。
橘は肩をすくめ、プラスチックのさやに入ったままのコンバットナイフを懐から取り出した。
美沙は銃とナイフを手に取り、部屋の奥の机の引き出しにしまって鍵をかけた。鍵を受け取った橘はそれを内ポケットにおさめた。
残りのコーヒーを飲みほして立ち上がろうとした橘が松葉杖に目をやると、美沙が杖を手に持ってげんこつでコンコンと叩いているところだった。
「そんなところに、何も仕込んではいませんよ」
「一応ね」と、美沙が一瞬ペロッと舌を出し照れくさそうに笑った。
松葉杖を美沙から受け取り、橘は彼女とともに建物の外へ出た。
屋外の遊び場は、秋の陽光のもとで活気にあふれていた。そこには小さな砂場があり、三人ほどの子供たちが楽しそうに砂で城やトンネルを作っていた。
砂場のすみには、大きなタイヤが積みかさねられ、それを駆けあがってはしゃいでいる子供たちもいた。
ブランコはなかったが、代わりに庭の大木の枝からロープが垂れさがっている。子供たちが二人ほどそれを伝って駆けあがり、ぶらぶらとスイングしていた。
美沙と橘の姿を見つけて、子供たちの二人がこちらに駆けよってきた。
「美沙ママぁぁああー――」
「ママ、と呼ばれているのですね」
橘がわずかに目を細め、かたわらの美沙に問いかける。
「そう。で――あっちの二人が、めぐママと、さとママ」
美沙が少しはなれた場所に立っているエプロン姿の二人の女性を順に手で示した。どちらも三十代ぐらいに見えた。二人がこちらに向かって軽く会釈を返す。
駆けよってきた子供は、男の子と女の子の二人組だった。どちらも聡明そうな目をしている。
「ママ、このひとだあれ?」男の子が無邪気そうにたずねた。
「この人はねえ、たーちーばーなーさん、っていうのよ」
「たちばな、さん?」
「そう。あなたたちのことを、『強く』してくれる人で――」
「ほんとう!?」と男の子が目をかがやかせる。
「こまります」
橘があわてる。まだ引き受けると決めたわけではないのだ。