侵入者
夕食のメニューは白身魚のバター焼きと、根菜のたっぷり入った豚汁だった。子供用に薄味にしてあったが、長いこと手料理の味から遠ざかっていた橘には充分においしく感じられるものだった。
美沙を含めた母親組の三人は子供たちにちゃんと食べさせることに手いっぱいになっている。話し相手がいないので、橘はしかたなく自分も黙々と箸を進めた。
と、その瞬間、違和感が橘を襲った。子供たち全員がいっせいに橘を見ている。本能でそう感じた。
ゆっくり子供たちの方に視線を向けると、彼らは何ごともなかったかのように食事にもどっている。
――これは、気のせいではない――
橘は視線の意味と違和感の正体について思いをめぐらせてみたが、納得のいく答えにはたどりつかなかった。
しめやかな雰囲気の食事が終わると、めぐママと、さとママの二人が子供たちを風呂に入れにいった。
「ごめんね。ふだんはもっとにぎやかなんだけどね」
美沙が食後の緑茶をいれながら、申しわけなさそうに言った。
「やっぱり私には、むずかしいのかもしれません」
「そんなことないと、思うんだけど――」美沙が言いよどむ。
「いえ、気にしないでください」
唐突に美沙が胸の前で手をあわせ、おがむようなポーズをした。
「ねえ、もう一日だけここにいて、明日も子供たちを見てやってくれない? 明日は非番だって、賀茂くんから聞いてるわよ」
「いえ、宿もとってないですし」
「ここに泊まっていけばいいわよ。部屋もあいてるし」
「そういうわけには――」
「ね、お願い! このまま帰したら橘くん、たぶんこの話を断る気がするの」
図星だった。自分が子供に好かれないことはうすうすわかっていたが、ここまで相性が悪いとは思っていなかった。だが、渡りに船だ、とも思った。賀茂の内示を断るのにちょうどよい口実ができたではないか、と。
押し問答の末、美沙の強引とも思える懇願に負け、橘はここに一泊することになった。荷物を部屋におき風呂を借りて体を洗っていると、脱衣所から美沙の声がした。
「着がえはここに置いておくわね。警備の人向けに買っといたものだけど、たぶんサイズは合うと思うわ」
「ありがとうございます」
風呂から上がり脱衣所を出たところで、氷枕を手にパタパタと歩いてきた美沙と行きあたった。
「ごめんね。夜もうちょっとだけ話したかったんだけど、春晶の熱が下がらなくて――」
「いえ、しっかり看病してあげてください」
「本当、ごめんね――」
橘にそう言い残し、美沙は階段を上っていった。
橘は割りあてられた一階の部屋にもどりベッドに腰をおろした。カバンの中から携帯水筒を取り出すと、フタを開けて一気にあおる。さらにタバコと携帯灰皿を出したところで、美沙に「ここは子供がいるから全館禁煙よ」と釘をさされていたことを思いだした。
橘はそのまま、昼間と夕食時に感じた視線の正体について考えをめぐらせてみた。
あれは、子供たちの単なる好奇心からのものだったのだろうか。
いや、そうであればもう少し無邪気で明るい雰囲気をかもし出しているものだ。
あの目線にはそのほがらかな空気感がなかった。何かもっと冷たい、無機質な、誰かを警戒し、その動向を盗み見るような大人びた視線。
橘はあるうわさを思い出した。三年ほど前から組織の情報が外部にもれている、といううわさだった。
特にこの「英霊体プロジェクト」に関する情報がターゲットになっているようで、新居浜大学の春日部教授の周辺や、英霊体の母体となった女性たちの入院する病院で式神と思われる存在が確認され、組織は警備体制や移送中の機密保持にやっきになっていた。内部に内通者がいるのではないか、そういったうわさがまことしやかにささやかれていた。
だが、と橘は思いなおした。いくら実年齢より成長が早いとはいえ、彼らはまだまだ幼稚園児ぐらいの精神年齢だ。内通をうたがう相手としてはあまりにも幼い。また、もし彼らが内通したとして本人たちにどんなメリットがあるというのだ。バカバカしい。
タバコが吸えないとなると、橘にはもうすることが何もなかった。この建物は周囲から隔絶されており、近所には店もコンビニもない。橘はおとなしく床につくことにした。長旅の疲れか、あるいは慣れない子供たちとの接触にわれ知らず緊張していたのか、彼はベッドに入るとすぐに眠りについた。
その晩、橘はひさしぶりに妻の夢を見た。夢に出てくる妻はいつも悲しそうな表情を浮かべ、だまって橘を見つめるだけだった。
――なにか一言だけでもしゃべってくれ。君の声を聞かせてくれ――
だまったままの妻に手をのばそうとした瞬間、橘は夢から覚めた。いつもの虚脱感が橘を襲う。腕時計を見るとまだ明け方の五時だった。
無性にタバコが吸いたくなった。全館禁煙とは聞いているが、敷地の外で吸うぶんにはかまわないだろう。橘は最低限の身じたくをととのえコートをはおった。
部屋を出て表玄関へ向かおうとしたとき、廊下の向こうに一人の女の姿が見えた気がした。その方向を追いかけてみると、廊下を曲がったところでその姿をとらえることができた。女は建物の裏口に向かっているようだった。
ここに住んでいる三人の誰かではないかと考え、すぐにそれを打ち消した。背格好や歩き方があの三人とは明らかに違う。
後ろ姿がなんとなく妻に似ている、と橘は思った。さっきの夢の続きを見ているようだった。ぼんやりした頭のまま、橘は女の姿を追った。
見失うまいとしたものの、松葉杖をつきながらでは思うように距離が縮まらない。橘が裏口に着いたときには彼女の姿はすでに無かった。
裏手のドアの鍵が開いていたのでそのまま外へ出る。
明け方の山の冷気が橘の肌を突き刺した。
女は遊び場のある裏庭を抜け、敷地と外部をへだてるフェンスの近くにいた。その足取りの速さに、橘は驚かざるを得なかった。
松葉杖をたよりに橘がフェンスまでたどり着いたときには、女の姿は消えていた。
――ここから出ていったのか――?
フェンスには簡易的な扉が備えつけられていた。扉の鍵は開いている。橘はそこから外に出てみることにした。
巡回の時間からは外れているのか、警備の係官の姿はどこにも見あたらない。
橘は扉から外へ足を踏みだした。
すぐそばには未舗装の細い道が見えた。道の両脇は草でおおわれている。
道はそのまま山の頂上方面へと続く坂道になっていた。きのう美沙から聞いた話によれば、ここを上った先には小さな神社があるらしい。
女は坂を上って神社の方を目ざしているようだった。
荒れた地面に松葉杖をつくのに苦労しながら、橘も彼女の後を追う。
やがて神社が見えてきた。
神社の周囲には草木が生いしげり、神社自体が自然と一体化しているかのようだった。入口には木製の簡素な鳥居が立っている。
女は鳥居をくぐり神社の中へと足を踏みいれた。
橘も急いでその後を追う。
鳥居のむこうに広がるのは、砂利がしき詰められた小さな参道だった。途中には小さな手水舎がならんでいる。
橘は注意ぶかく周囲を見わたしたが、女の姿はどこにもなかった。
そのとき、手水舎の向こうで何かがちらりと動いたような気がした。橘は松葉杖をたよりに参道を進み、手水舎に近づいていった。
そこで「あっ」と思った。
子供がひとり倒れている。
その顔に見おぼえがあった。
橘は急いで子供のそばにしゃがみ込み、その小さな身体を腕に抱きかかえた。
――ハァ、ハァ、ハァ――
子供の息は荒かった。身体は冷えきっているのに顔だけが熱い。かなりの高熱が出ているようすだ。橘は急いで自分のコートを脱ぎ、子供の身体をつつみ込んだ。
「大丈夫か? しっかりするんだ」
「あれ――? おじ、さん――、たち、ばな、さん――?」
「ああそうだ。君はたしか、ハルアキくん、といったな」
「うん――」
橘はコートにくるんだハルアキの身体を背負った。ハルアキは橘の身体の前に手を回す。子供特有のミルクのような甘いにおいが橘の鼻をくすぐった。
「しっかり、つかまってろよ」
「うん――」
橘はハルアキを背負ったまま杖をついて歩き出した。
不自由な足のまま子供を背にして歩くのは体力のある橘にもかなりしんどかった。
ずり落ちそうになるハルアキを何度も背負い直してどうにか歩く。
スピードを上げられないのが本当にもどかしかった。
「どうして、あんなところにいたんだ」
背中のハルアキに橘がたずねた。
「おひゃ、くど――」
「なんだって?」
「おひゃくど、まいり――」
荒い息づかいの中、切れ切れの声でハルアキが答える。
「みさ、ママ、まえ、いってた――」
「何を?」
「ひゃっかい、おねがい、すると、なんでも、かなう、って」
「そうか、なにをお願いしたんだ?」
橘の問いかけに、ハルアキはだまったままだった。
耳もとで聞こえる彼の息づかいはどんどん荒くなり、橘の焦りがつのる。
だが松葉杖にたよった橘の歩みでは、なかなか思うような速度で進まない。
橘は今の自分のぶさまさを呪った。
「なな、ばん、しょうぶ、て、しってる――?」
ハルアキが唐突に話を始めた。
――七番勝負とは例の怨霊との決戦のことだろうか? 美沙はもう彼らにそんな情報まで伝えているのか――
橘は驚嘆した。
ハルアキが荒い息のまま話し続ける。
「あれ、さいしょ、の、ひとが、勝てば、そのまま、たたかえる――?」
靖国の事件以降、敵側からはまったく音信不通だった。
当然、ルールの詳細などはまだ何も決まっていない。
「まだわからんが、もしかしたらそういうルールになるかもしれないな」
「だったら、ぼく、が、勝ったら、勝ち、つづけたら、おとうとも、いもうとも、戦いに、出なくても、すむ――?」