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未来マンション

作者: tomo



「いらっしゃいませ。本日はどのような未来をご希望ですか?」



 部屋はパステルピンクの家具で揃えられ、薄っぺらい生地の癖してうん千円もするであろう花柄のルームウエアに袖を通しアロマの焚かれた部屋で熟睡していそうな、典型的に愛想の良い女性だった。

 すみません、初めての利用なもんでちょっと仕組みが。

 最後まで言い切らずとも、そこまでで察したのか女性はあぁ、と頷いた。緩くウェーブがかけられた髪が、狙ったかのように揺れる。



「失礼致しました。それでは、未来マンションについてのご説明から入らせていただきますね。どうぞこちらへ。」



 女性は慣れた手つきで奥にあるエレベーターを示した。来客用と案内用では別々の箱を使うらしく、中には俺と女性の二人きりとなる。



「お客様は高校生でいらっしゃいますか?」

「あ、はい。先週十七になりました。」 

「それはおめでとうございます。それでしたら、やはり二十歳の未来まではご自身で切り拓きたいものですよね。手始めに三十階でご案内致します。」



 女性の告げ方はまるで明日の天気は晴れらしいですよ、だからピクニックがおすすめです、とでも言っているかのようで、実際の内容は明日の天気は槍らしいですよ、刺さらないように気を付けて下さいね、くらいのものだという事実が勘違いかのように思えた。

 でもそれは紛れもなくはっきりとした違和感で、面倒な言い分は抜きにして白状すれば、女性の言葉を飲み込む事は出来なかった。

 ちん、と案外平凡な音が鳴る。扉が開いた先には、長い長い真っ白な廊下が続いていた。

 どうぞ、と声をかけられてようやく足を踏み出す。いっそ眩いくらいに反射する白に、言い知れぬ不気味の悪さを覚えた。いつも学校に履いていくローファーで踏みつけているというのに、白い床は汚れを知る事なく相変わらず白を纏っていた。



「お客様が未来マンションまで足を運んで下さったきっかけをお聞きしても?」



 前置きもなしに唐突に投げかけられた質問に、不快感はない。手っ取り早く本題に入ってくれる方がよっぽど助かるし、何というか、この女性はそう思う相手の気持ちに敏感なように見えた。見えただけかもしれないけれど。



「先週の誕生日の時に、親が勧めてきて。そろそろ行ってみればって。」

「周りのご友人達から伺ったりは?」

「ここの存在は気づいたら知っていましたし、名前からして大よその見当はついてたんで特には。ていうか、でかい声で最高な未来買ったんだって自慢する奴とかいたんで、そういう奴のせいで知識がついてたのかなって思います。」

「自慢ですか。私の学生時代も、やたら張り切って周囲に話していた子がいました。」

「早くにここを利用するのって、そんなに得意げになれる事なんですか?」

「未来マンションを利用する理由は人それぞれです。早い内から利用した所で世間から一目置かれる事も、拍が付く事もありません。訪れる事自体強制ではなく、自由ですから。ですが、早い段階から未来の事をきちんと考えているんだぞ、という自己主張としては有効的かもしれませんね。」



 迎えてくれた時と変わらずにこやかな笑みのままそう答える様子は、不思議と好感が持てた。もっと話していたい、というより、もっと話していても問題はない、という感想だ。女性を先にして進んでいくと、左右にいくつもの扉がある事に気が付いた。

 扉がある、そんな簡単な事実に気が付けなかったのは、その扉が壁と同じような佇まいだったからだ。というのも、ここに設置されている扉全てに取っ手がない。

 引き戸かとも思ったが手をかける場所もなく、これが扉かと認識させてくれたのは線で描かれたかのように囲まれた扉型の枠と、ぽつりと置かれた覗き穴の存在だった。そっと手を伸ばしてみても、扉のようなそれは開く事はない。



「未来マンションは、自分の好きな未来を購入する事が出来ます。」



 あまりにも完結した説明だった。それ以上もそれ以下もない、適当すぎるそれ。それでも飲み込むには、まだ噛み砕きが足りない。



「えっと、何となくそういう言葉は聞いた事があるんですけど、いまいちピンと来なくって。」

「百聞は一見にしかず、という言葉がございます。」

「はぁ。」

「まずはこちらの物件をご覧下さい。きっと私が説明するより、よっぽどわかりやすく把握できますので。」



 美人の笑顔ほど有無を言わせぬものはない。口調こそ丁寧だが、さっさと見ろと全体が語っていて、俺はすごすごと扉のようなものに開けられた穴に右目を当てた。

 視界には男性の革靴がある。雪が浅く積もった道をさく、さくと歩いていきながら、時折両手がにゅっと出てきては寒そうに擦り合わせていた。

 どうやら俺の視点はこの革靴を履いた男性に据えられたらしく、横断歩道で止まったり目の前を走る高級そうな赤い車を目で追いかけたり、まるでヴァーチャルリアリティのような体験だ。

 

 ただ、恐ろしくつまらない。


 五分は経つかというところで、俺は堪えきれずに欠伸をした。

 それでも案内人の女性から制止の声はかけられず、勝手に穴から遠ざかるのも何だかなぁと思い、後三十秒だけ、と唱えた。すると、タイミングを見計らったかのように雪道を歩いていた男性がはた、と足を止める。

 数メートル先に、一枚の紙きれが落ちていた。

 途端、待っていましたとばかりに駆けだす俺。拾ったその紙はどうやら宝くじのようで、そういえば母親も年始に数枚買っていたなぁと思いだす。

 俺らしき彼は震える手でそれを見つめ、ポケットから端末を取り出した。


 え、え、まさか?

 

 さっきまでの退屈さはどこへやら、鼓膜に響く心臓の音をBGMに俺は端末で宝くじ名を打ち出す。検索ヒットにかかった一番上のサイトをクリックして、そこに表示された当選番号を確認した。

 あぁ、うわ、本当に、まじか。



「いかがでしたか?」


 

 単調なBGMがぷつりと切れる。時速何キロメートルだ、ってくらい勢いよく現実世界へ引き戻された俺の目に、にこやかに微笑む女性が映る。

 あ、俺だ。

 ちゃんと、今の俺の視点だ。足元を見ると革靴ではなくローファーがそこにはあって、足踏みすれば軽く埋もれる事はなく硬い感触が伝わってくる。

 ただの仮想空間だと傍観していたはずなのに、気が付けばあの宛てのない道を歩き続ける恐怖と、待ち望んでいた何かを見つけた時の喜びに染まっていたようだった。

 少しだけ乱れた呼吸を整えながら女性を見返すと、俺からの返事を待っているように見えた。この反応を楽しみ、何を言ってくるかを予想し、それを味わうような笑顔だ。

 たちが悪い、と誰かは言うだろう。多分その感想は間違っていないし、意表を突いた感想を言ってやろうだなんてもう今更間に合わない事もわかっている。



「あれは、誰ですか。」

「お客様が選ばれるかもしれない未来の一種でございます。」

「一等の宝くじを拾う、って事ですか?」

「もし、こちらの未来を選ばれればの話ですが、そうですね。お客様が本日こちらの未来をご購入されれば、三十歳の冬にお客様は一等の宝くじを拾われます。」

「それは・・・随分とまた、」

「非科学的でございます。残念ながら、私どもも当マンションのシステムは把握しておりませんのでご了承くださいませ。」



 反省のはの字も知らない素振りで女性は答えた。丸投げしているのでも呆れているのでもない。女性は本当に、何も知らないのだ。

 そうじゃなければ、一応客である自分にここまで突き放すような言葉は投げないだろう。これは単なる直感だが、ここで働く案内人のような人々はこの人のように、容姿が整っているのだろう。ある程度失礼な答えをしても、許されるような容姿。生憎そんな大層なものを持ち合わせて生まれてはいないから、ここでの就職は難しそうだ。

 ただ例えその点を差し引いても、この場から立ち去る気は起きない。それほどに謎が多く、興味が惹かれる場所だった。



「このフロアは三十階ですので、三十歳未満のお客様向けに用意された未来が並んでいます。もう少し別の未来をご覧になりますか?」

「どのくらいの未来が、ここにはあるんですか?」

「申し訳ありません。そちらも把握しておりませんので、お答え出来かねます。」

「・・・まぁ、それもそうですかね。」



 自分で聞いといて何だが、そう答えられれば当たり前かと思う。

 合理性は置いといて、この場所が本当に未来を売る場所で、未来をたくさん用意しているのならば、人の数ほど未来があるのだろう。何十億というパターンの、少しずつ形の変わった未来がある。

 十人いれば十人それぞれの道があるんだぞ、って中学時代の担任が熱弁していたような気がする。まさかここに来て、そんなありきたりな台詞を納得するとは思ってもいなかった。



「あの、少し聞きたいんですけど。」

「どうぞ。」

「数が把握できないって、そしたらどんな未来が欲しいかわからない人は困るんじゃないですか。さっきみたいに、金持ちになりたい人はたくさんいるし、案内しやすいでしょうけど。平凡な未来とか、楽しそうな未来とか、そういう漠然とした感覚の人はここには来ても意味がないんですか。」



 自分でも驚くくらい口が回る。当然だ。

 自分が感じている疑問や不安を他者に置き換えてそのまま吐露しているのだから。女性はそれをわかっているのかそうじゃないのか、ただその質問を抱いてもおかしくはないという事は確信できる笑みをたたえた。



「まず当マンションは大きく未来が分類わけされています。先ほどお客様がご覧になった未来は高級物件ですが、その他にも中古物件や格安物件、訳あり物件がございます。私どもはお客様の大まかなご希望に沿ってご紹介するので、どんな方が来られてもきちんと責任を持ってご案内致します。」

「あの、いや、ちょっと。あの・・・その説明で納得してくれた人今までいます?」

「納得する事を目的として聞いてくる方自体あまりいらっしゃらないので。」

「なるほど。俺が気になったのは、変に隠したその全容なんですけど。」

「全容、でございますか。」

「高級っていうのはまぁ、何となくわかります。金持ちになりたい、社長になりたい、でかい家が欲しい、有名になりたいとかそんな感じですよね。普通っていうのも、まぁ、そのまんまっていうか。俺がさっき聞いた質問の答えっていうか。で、問題は格安と訳ありなんですけど。何ですか訳ありって?格安って、貧乏になりたいとか怪我するとか、そういう事ですか?そんなの、望む人なんているんですか?」



 まくしたてる様に尋ねた理由は何なのか。こうやって自分を一歩引いた目で見てみればまるで知的な学生のように分析できる。

 それでもこうやって出てくるのは感情をそのまま爆発させた幼いものばかりで、何だか無性に悔しくなった。もっと冷静になりたい。けど、そんなの無理だ。



「そもそも、ここでの対価って、何なんですか。」



 世の中金だ。

 現実世界、小説の中で、あるいは自分自身の中で、幾度となく聞き覚えのある短い台詞だ。

 それは間違いなく真実だと思う時もあったし、馬鹿げた考えだと否定した時もある。ただ今、この場において金はきっと何の意味もなさない。

 俺が、俺一人の力で思いつくようなものはここでは通用しないだろう。非現実的な世界の中で、何よりも非現実的な回答が待っていなくてはならない。



「対価は、『安全』でござぃます。」



 百二十点満点の回答だ。思わず安心してしまうくらい意味のわからない対価に一息つく。



「安全、ですか。」

「はい。」

「ここに来る人達は安全を支払って未来を購入してる?」

「その通りでございます。」


 

 お手上げだ、と言わんばかりに肩をすくめる。すると女性はスカートのポケットから一枚の紙幣を取り出した。

 福沢諭吉が描かれた紙幣を両手で広げて、今からマジックでもするかのように俺にしっかりと確認させる。女性はその紙幣を何の戸惑いもなく半分に破った。換気扇の音も機械のモーター音もしない恐ろしく静かな空間に、痛々しく破られる音が響く。

 女性はそれを何回も繰り返し、最終的に紙幣は紙吹雪となって俺の足元へ降ってきた。



「私達が生きていく上で一番重要な事は、金でも愛でも人でもありません。呼吸が出来て、住む場所が与えられて、食事が出来て、そこで初めて私達は欲しいものに手を伸ばしていきます。安全が保障されていなければ未来は存在しません。生活の質が高い、満足しているという事はそれだけ安全に身を守られているという事になります。」

「それが、未来を買うとどう繋がるんです?」

「私達は普段の買い物において、費用をかけて作られた物やサービスをお金で買い取っています。それと何ら変わりません。安全で作られた未来を、安全で買い取る。高級物件を買えばその未来がやってくるまでの間、購入者様の安全は一切保証されません。」

 俺は先ほど体験した未来を思い出す。男が紙切れを見つけて走り出した理由はこれか、と合点がいった。つまりあの未来を買えば、あの瞬間が来るまでそれなりの苦労をしなければならないのだろう。素晴らしい未来に見合った、辛い現在を歩んでいく。何とまぁ、都合よく不幸を言い替えられるものだ。

「どれだけ安全を払ったところで死にはしないんですよね。」

「はい。あえて言うならば、ここで未来を購入された以上、その未来を受けるまで死ぬ事すら許されません。」

「なるほど。・・・安全、っていうのは、みんな生まれた時点で同じくらい持っているものなんですか?」

「と、言いますと?」

「いや、生まれた段階で金持ちで顔も良くて家庭環境も最高な奴って、少なからずいるわけじゃないですか。勿論、その逆もですけど。そいつらは生きていく上で安全の消費量に明らかに差が生まれてきますよね。例えばですけど、金持ちは安全を知らぬ間に使い果たしてて、貧乏は安全を貯めてるっていうか。」



 なんだ、この理屈。

 言っている事は自分の考えそのままなのに、突拍子すぎる内容に心が追い付かない。納得しかけた非現実的な世界は、ほんの少しまともになろうとしてしまうとあっという間に引き戻される。

 今、この女性に指をさされて頭がおかしいと笑われた方がいっそ楽になってしまいそうな。けれど残念な事に、女性は感心したように頷きながらまたもやその通りです、と相槌を打った。



「ここまで理解のペースが速い方は中々おられませんので、つい驚いてしまいました。」



 この人の彼氏は、きっと何を言われてもこの無邪気を絵に描いたような笑顔に許してしまうんだろうなぁ。ぼんやりまだ見ぬ男性を労っていると、女性はしばし思案した後に口を開いた。



「先ほどお客様が仰った通り、私達は安全の消費がそれぞれ異なります。安全は消費する事は簡単でも、増やす事はできません。できるとしたら、それはただ来る安全な未来の為のキープのみです。そしてそれは、ここに来るまで知る事はありません。人づてに聞いたところで信用できる話でもありませんしね。」

「えっと、つまり?」

「現段階で安全に囲われている方は、ここで買える未来も通常物件やもしくは格安物件となります。当たり前ですが、当マンションで未来をご購入される条例も法律もないので、購入されないで帰られる方もいらっしゃいます。」

「ただ、ここまで話をされて多少なりとも自分が確実に、そこまで大きな苦労をせず普通に生きていける未来を買っていきたい人もいる、って事ですか。」

「そうですね。安全に囲われてきた自信があるからこそ、安全の残量に不安を抱えたまま生きる事に恐怖を感じる方も少なくない、という事です。」

「不公平だって、言われないんですか。怒ったりとか、理不尽にキレたりとか。」

「勿論、いらっしゃいます。そういう場合の対応は個人に任せられていますが、私はこう返しております。」



 生まれたときから決まっているものだから仕方ないでしょう。



「その言葉はそれまで安全に浸ってきた方々が、理不尽な苦しみにもまれている人々に放ってきたものです。もしくは、少なからず思っていた事。皆さん、やっぱり心当たりがあるのか必ず黙って帰られるか、残りの安全を払って未来を買われていきます。」

「じゃあさっきの格安物件っていうは・・・自分の安全の残量に不安を抱えた人達の為に用意された未来?」

「はい。」



 ふと、クラスで未来を買ったと自慢していた彼の事を思い出した。

 かろうじて苗字はわかる程度の、お調子者カテゴリーに所属していたあの人は、一体どんな未来を買ったのだろう。ここまでの話を聞いたのか、一人で来たのか家族で来たのか。

 売買の契約が成立する以上、対価として『安全』を支払う事は知っている、と信じたい。

 そもそも彼は、どちらかというと環境に恵まれていた人物のように見えた。いつも誰かと共にいて、彼女も途絶えずいて、それで自慢できるような未来を買うって、じゃあ彼は、他者が思う以上に安全を貯蓄していたということだろうか。あれだけ安全を消費して幸福な道を歩んでいるように見えるのに?

 そもそも、安全の残量ってどこで測るんだ。調味料みたいに大さじ小さじを使えたらさぞ楽しいだろう。もう一度女性の顔を見つめる。もう、聞かなくったって答えはそこにあるようなもんだった。



「自分がどれだけの環境にいて、どれだけの安全をキープできているか把握する手段は、自分次第って事ですね。」



 女性は、何も答えなかった。

 彼は、俺の見えないところで、どんな生活をしていたのだろうか。

 俺からすれば学校カーストの上位に位置して、教師からの目も甘くて、騒いでいても他の大多数の生徒から笑いひとつで流される彼の安全度は、紛れもなく100であり、残量はほとんどないように思われる。

 でも彼にとって自分が今いる環境は、人生は、100の世界じゃなかったのだ。

 俺が見えない場所で、彼は100をひっくり返す世界を生きていた。家庭環境か、自分自身への不満か、そんな事どうだっていい。どうだっていいんだ。問題はそこじゃない。

 俺が、俺みたいな奴がいるのに、あえて大声で未来を買ったと騒いでいた意味は、どこにある。



「自分が本当はしんどい立場にいるって、気付く人には気付いてほしかった。それだけじゃないでしょうか。」

「・・・遠回りすぎてる。」

「未来を買う事だけが目的ではないんです。買って、その未来まで生き抜いてやろう、未来を買った事で周りにSOSを出したい。未来を選んで購入する事自体は、ただの手段に過ぎない場合もあります。」

「わかるんですか。」

「色んな人が来ます。色んな人が生きています。色んな人が今を何とか生きようとしています。それでも、待っている未来はひとつだけで、私達はどんな未来を売っても私達自身は幸せにはなれない。この仕事、一週間もすれば大体わかるんです。例えば今私が接客しているお客様は、未来を買われない、とか。」



 少しだけ、はにかんでいた。好きな笑顔だと、直感で思った。

 しゃがみ込んで、小さくなった紙幣をつまむ。この紙には、価値がある。

 これは揺るがない事実だ。でも、この紙だけが価値ではない。

 これもまた、ゆるぎない事実だ。生きる上で価値なんて、そんなものだ。



「最後にひとつ、やっぱ聞きたい事あるんですけど。」

「何でしょう?」

「訳あり物件って、要は普通とは異なるかなり馬鹿げた未来、って意味ですよね。どんな未来、待ってるんですか?」



 そう尋ねた時、彼女は微笑んだ。触れたら壊れてしまいそう、というより、最早壊れている笑みだ。罪のない人を殺してしまったような、体験した事のない恐ろしい罪悪感が身に纏う。きっと、さっきまでなら聞いても良かったはずだ。でも、今の俺には、聞いてほしくないはず、のようだ。

 女性はふと、俺を真似してばらばらの紙幣をつまんだ。何枚も何枚も手の中に入れて、そこには何も散らばっていなかったかのように、何度も辺りを見回して全ての細かい紙切れを拾い上げた。



 「本日はお越しいただき、誠にありがとうございました。」



 結局、女性はあの後訳あり物件について口を開く事はなかった。そうして俺も、それ以上聞く事はしなかった。

 聞いてしまった過去は変えられないが、それ以上聞かないという未来を選択して、良かったんだと思う。選んだというより、選ばされたというべきか。それから、勿論未来を買う事もしなかった。



「こちらこそ、ありがとうございました。」



 それだけ言って、お互い終わった。










 翌日になって、俺はいつものように学校に向かった。電車に揺られながらネットニュースを読んでいると、大手旅行会社が倒産したという記事が飛び込んできた。

 この社長は、ちゃんと未来を買っていたのだろうか。あぁこの瞬間が来てしまったと、心中では泣いて喚いて、部屋の真ん中で叫びだしたい衝動に駆られただろうか。それとも、未来なぞ買わない選択肢を持っていたのだろうか。

 わからない。わかるはずもない。

 でも何となく、大勢の社員を裏切ったとこの人を責める気にはなれなかった。そういう部分だけが、全てじゃないのだろう。



「お前それまじかよ?」

「うるせー、放っとけばか。」



 電車を降りてしばらく歩いていたら、後ろからぼんやり聞いた事のある声がした。

 彼だ。

 歩幅の大きいらしい彼とその友人は、あっさりと俺を抜いていく。相変わらず、素敵な人生を歩んでいそうな背中だ。未来マンションを利用したと、しかも最高な未来を買ったと豪語するのは、傍目からすればただの自己主張だ。俺みたいにたまたまあの時、彼の事を思い出さない限り、いや思い出したとしても、その裏に隠されているかもしれない背景なんて他人からすればどうだっていい事だ。



「あのさ。」



 でも、どうだってよくない例もある。



「え、何?俺?」

「うん。昨日、未来マンションに行ってきたんだよね、俺。」



 相手は俺の名前どころか存在すらもあやふや、ではなかったらしい。

 俺を見つめる目は嫌にはっきりしていて、俺の言葉に、はっと息を呑んでいた。



「そう、そうなんだ。」



 さっき一緒に話していた友人は、別のクラスなのかさっさと別れていた。思っていたものとは別な返しに、ついこちらが言葉に詰まる。まず彼を呼び止めて何がしたかったんだのだろう。



「それで、その、色々仕組みの話を聞いて。」

「あぁ、割とファンタジーな話だったよな。」

「それ。でも、何でかお前を思い出しちゃって。」

「なんで?」

「最高な未来を買ったって言ってたから。それって高級物件で、相当な安全を支払うじゃん。今まで安全をストックしてたって意味だろ。俺には、お前が今の段階ですごく良い環境にいると思ってたから、なんか意外で。」




 いざ口にしてみれば直球にも程がある。要は俺が言っている事は、お前案外幸せじゃなかったんだ、その現状にしんどさを覚えてた自覚あるんだ、って事だ。

 見下してるとか、何をいい加減な事を、と怒られても仕方ない。明日からの俺の立場、どうなるよ。



「そっか、全部は聞いてなかったんだ。」



 落ちてきたのは、とてもとても、静かなものだった。



「ありがとう。」



 話しながら俯く俺に、そのまま続けられた言葉。顔をあげた先に、彼はいなかった。

 いつも一緒にいる友人を見つけ、いつものように明るい調子で、いつものように馬鹿げた言葉をぶら下げて、俺には背中しか見せなかった。飲み込んだ唾は、妙に苦い味がした。


 その一か月後、彼は死んでしまった。


 自殺でも他殺でもなく、横断歩道で飲酒運転していたトラックに轢かれそうになった小学生を助けた事が原因らしい。らしい、というのは俺がニュースで得た知識で、直接彼の遺族や友人から聞いた訳ではないからだ。

 当然だろう。だって俺と彼は、あの瞬間しかまともに話した事がない。多分彼は、俺の存在を誰かに話す事なく死んでいったんだろう。未来マンションで購入した未来を迎えて。



「訳ありって、うまい言い方したなぁ。」



 全ての安全を支払って得るのが高級物件なら、その瞬間まで全ての安全に守られる事を確約するのが訳あり物件、とでも解釈しておこう。


 彼の家庭環境は文句の言いようがないほど良好で、友人関係も恋愛関係も、俺が何一つ真似できないほどうまくいっていたらしい。そう、彼が訳あり物件を選ぶ余地は、どこにも見当たらなかった。未来マンションの名前も、ニュースやクラスでひとつも耳にしなかった。

 彼があの場所へ訪れた話は、あの時あの話を偶然拾った俺以外の奴からすれば、昨日の朝ごはんのようなものみたいだったらしい。


 最高の未来を買ったんだ。

 彼は今までそれなりの安全の中で暮らしてきて、安全の残量は多くはなかった。だから、全ての安全で守られた期間がたった一か月だった。多分、間違ってはいない憶測だろう。

 最高の未来を買ったんだ。

 彼は、あの日あの場所であの人から話を聞いて、自分が買える未来物件の内見でもして、そうして、自身の安全の残量を知って、どう感じたのだろか。今まで味わったことのない未来を歩む可能性、もがきながら死にゆくかもしれない種を感じて、納得のいく死の未来が欲しくなったのだろうか。安全で固められた人生のまま、死にたかったのだろうか。およその自らの安全を計って、およそ自分があとどれ程生きていけるかを考えて、死の未来を買ったのだろうか。

 安全の最大値を感じる日々の中で、自分の死を悼んでくれる人がいるとわかりきっている中で、惜しまれる未来を、彼は最高と評したのだろうか。


 何に、恐れていたのだろう。

 何に、期待していたのだろう。

 何を、強がっていたのだろう。

 考えたところでわからない。彼はそういう人間で、俺はそうじゃない人間だから、わからない。

 何とかして生きたいと思ってあの場所へ行く人もいれば、彼のように何とかして納得した死を迎えたい思いを抱えている人もいる。どちらも、仕方のない事だ。だってどちらも、後悔したくないからその道を選んでいる。

 俺は、彼と同様にあの場所へ行ったけれど、死にたくもないし縋るほど生きる理由もまだ見つかっていない。これから見つかる自信も、あまりない。

 ただ俺は、あの場所で、自分の意思で未来を選ぶ、という未来を手に取った。

 それだけで、十分な気がする。

 俺を迎えてくれたあの彼女に会う事は二度とないだろう。死んでしまった彼はいずれ世間から忘れられ、真意なんて明るみに出るはずもない。

 今日もあそこで誰かが未来を買ったり、俺みたいに買わない奴が現れている。一万円札を貰えばやっぱり嬉しいし、でもそれ以外の何かも相まって世の中は成り立っている。成り立っていく。

 ありがとう。

 願わくは、その言葉をひとつでも多く聞いていく事が出来ればいい。



「行ってきます。」



 いつもと変わらないローファーで、俺はいつものように未来に向かって歩き出す。






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