バイオリン弾きのピエロ
彼は一番の人気者だった。
一輪車で綱渡り、ってのは朝飯前。
長刀でジャグリング。
直径二メートルもあるピンク色の大玉で玉乗り。
いきなり体が爆発したと思ったら、次の瞬間には観客席で仁王立ちしてる。
あ、ちなみに最後のが彼の十八番。
彼はサーカスのピエロだった。
今日の公演はとっくに終わった。
暗い舞台裏の中で、彼は檻の中に手を伸ばして、虎の顎を優しく撫でていた。
彼にかかれば、虎だって可愛い盛りの子猫だ。
ごろごろと喉を鳴らして身を委ねている。
猛獣使いの私も、少し面食らう。
悔しい。
「ねぇ。」
声をかけると、彼はゆっくりこちらを向いた。
「あぁ、おつかれさま。」
右目には涙、左目には星。
黄色い服にオレンジ色の水玉模様。
彼は公演が終わってもピエロのままだった。
「お互いにね。」
クククと笑う声がした。
でも仮面だけを見せられている私には、彼が本当に笑っているかどうかなんて分からない。
「ねぇ。バイオリン、弾いてよ。」
彼がバイオリンを持っていると知ったのは、バイオリンを弾けると知ったのは、そう最近ではない。
私が今より頭一つぶん背が低かった頃、眠れずにテントの中を歩き回っていたら、音が耳に届いて。
楽しそうで悲しそうで寂しそうで怒ってそうで、あぁまるで歌ってるみたいだなぁって思った。
そして深紅のカーテンを開けたら、このピエロがいて。
目を開けて、演奏者を見た。
なんてミスマッチな光景。
下品な原色だらけの派手な色と、上品な深い茶色。
透明感のある音。
そして無機質な音。
狭い空間に、空しく響いた。
舞台側に移動しても、きっとこの音は聞き取れる。
私は、実はちょっと踊り子に憧れている。
踊るんなら、彼に曲を演奏してもらいたい。
お願いしたら、どんな顔をするだろう。
驚くのか。
眉間に皺を寄せるのか。
いや、彼はピエロだから。
きっと、笑ってこの頼みをきいてくれるのだろう。
胸糞悪い。
音が止まった。
ここで終わり?
今日は随分と早い。
演奏の終わりは、彼の気分次第。
ここで唯一感情を出してくれる。
終わってしまったら、いくら頼んでも二度とバイオリンを肩に置いてくれない。
逆にもういいと言っても、無視するように、というか無視なのだろうけど、絶対に音を途切れさせない。
天邪鬼?
それとも満足するまで弾きたいだけで、私がいようといまいと関係の無いこと?
「おやすみ。明日も頑張ろう。」
あぁ、きっと最後の言葉は社交辞令。
「ピエロ。」
私は彼の名を呼んだ。
名前は知っているのだけれど、もしかしたら偽名かもしれない。
こっちのほうが確か。
「何だい?」
バイオリンをゆっくりとケースにしまいながら、彼は答える。
私はわざわざ呼んだくせに、次の言葉を紡ぐのを躊躇った。
ピエロがこちらに頭を動かす。
私と彼は、しばらく向かい合った。
言葉はもうこないと思ったのだろう。
少しして彼は後ろへ足を向けた。
私を置いて、闇の中に消えていこうとする。
「ピエロ!」
再び彼を呼んだ。
彼は立ち止まって、こちらを振り向く。
迷惑なことをしているのは、重々理解している。
口角を上げながら、言った。
「誰かに見せる顔が見つからなかったら、探しに行けばいいのよ。」
彼は動かない。
あぁ、きっと愚かな女、と思われているんだろう。
まぁ、それでもいい。
「───おやすみ。」
彼は、また足を進める。
こつん、こつんという足音がどんどん遠ざかっていく。
そして、彼は完全に闇の中へ消えた。
私は、堪えきれず、大声で笑った。
少しだけ泣いた。
近づきたいけど、近づけない。
分厚い壁があるから。
それだけでも十分悲しいのに、その壁を作っているのが、相手と自分自身だったら。
そんなに笑えて、そんなに悲しいことはちょっとない。
そう思って書いただけのお話。




